見出し画像

7月に読んだ本

「百冊挑戦」も折り返しを過ぎた。後半6ヶ月の始まりである。毎月9冊を目標にしてきた読書だが、今月はなんと10冊も読めた。とはいえ、うち2冊は漫画なのだが。いずれにしても、目が文字を追えるようになってきた。途中、目の筋肉痛になった。眼球が痛いのである。失明の予兆かなと思ったのだが、よく考えてみると1ヶ月に10冊分も文字を目で追うことがほとんどない人生だった。久しぶりに重い荷物を運べば腕や腰が筋肉痛になる。久しぶりに大量の文字を置い続ければ眼球が筋肉痛になるのだろう。そう思い込むことにした。読書筋が付いてきたぞ。


▼『陶芸は生きがいになる』

京都の芸大で教えていた頃、同じ学科の教員に陶芸家の松井利夫さんがいた。その頃は陶芸に興味がなかったから、話題は学科の運営についてばかりだった。その後、松井さんと一緒に東京で連続講座をやるようになり、たまに土を持ってきてくれるようになった。「余った土だ」といわれたので、好きなものを作って渡した。たしか、小さな器のようなものだったと思う。1ヶ月後、講座で再会した松井さんは小さな器を焼いて持ってきてくれた。自分がつくった器に釉薬がかけられて、作品のようなものになっていた。「陶芸」を意識し始めたのはこのときだったのだろう。

2016年、studio-Lのスタッフたちと北欧を旅行した。毎年恒例の「スタディツアー」である。海外の事例を学び歩く旅だ。その途中で立ち寄った美術館で、15世紀の南米で作られたという土偶たちを目にした。素焼きの動物たちが並んでいて、これがどれも非常にかわいい。持って帰りたいという衝動に駆られたが、もちろんガラスケースのなかにあって手に取ることすらできない。写真だけ撮影して帰国した。ネットで検索してみても、同じような動物の置物を売っているサイトは見つからない。同じ時代の土偶を売っているアンティークショップも見当たらない。そのとき「陶芸」を思い出した。松井さんからもらう土で体長10センチほどの動物をつくってみよう。それを松井さんに焼いてもらったらどんなものになるだろう。こんな感じで、東京での講座で松井さんに会うたびに土で動物を形作った。

連続講座が終了した後は、京都府亀岡市にある松井さんの工房に通って動物を作り続けた。2020年には東京のギャラリーで個展を開き、2021年には大阪の「スタンダードブックストア」が個展を開催してくれることになった。そのスタンダードブックストアで個展の設営をしているときに購入したのが本書である。いまの僕の気持ちとぴったり一致した書名が気に入ったのだ。

著者は広告代理店を早期退職して陶芸教室を開いたという。①陶芸に興味を持ち、②作品をつくり、③自宅を工房化し、④陶芸教室を開くまでの経緯が本書で語られている。僕はまだ、かろうじて②で留まっているが、③への誘惑は日々感じる。著者の気持ちには共感するところだらけだ。

一方で、僕が特殊であることも再確認できた。陶芸をやる人は、「使えるもの」をつくるのが一般的なようだ。湯呑に始まり、茶碗や鉢や皿。いずれも実用的なものだ。僕はといえば、実用的な陶芸にまったく興味がない。いや、器には興味がある。しかし、それは気に入ったものを探して購入する対象だ。自分がつくりたいものは何かと問われれば、「手に入れたいのに購入することができないもの」だと答えるだろう。アンデス文化の土偶のようなものたちだ。これをつくっているのが楽しくて仕方がない。

陶芸教室へ行くと、きっと器の作り方を習うことになるだろう。先生はそれが教えたいのだ。しかし、僕はそこに興味がない。むしろ松井さんの工房で動物を作り続けるのが楽しい。できあがった動物をひとつずつ撮影し、部屋に飾り、お世話になっている人にプレゼントしていく。それが楽しいのだ。

ふつう、3年ほど陶芸を続ければ相当な腕前になるそうだ。僕の場合はもう5年も続けているが、いまだに手びねりの動物ばかり作っている。ロクロで器を成形した経験がない。興味が湧かないのだから仕方ない。きっとこれからも手びねりで小さな動物ばかり作り続けるだろう。研究対象も「世界各地の古代文明がどんな動物を形作ってきたのか」ということばかりだ。器の歴史や様式は、眺めるのは好きだが自分の作陶の参考にはならない。

そう考えると、やはり僕は松井さんの弟子でなければならないだろう。陶芸教室では確実に嫌がられる生徒だからだ。器を作りたいと思わないし、公募展に挑戦したいとも思わないし、うまく作りたいとも思わない。修行せず、習得せず、ずっと同じレベルの動物を、楽しみながら作り続ける。できあがったものが、思いもよらずかわいい表情や色になっていることを楽しむ。そして、気が向いたら世話になった人に動物を渡す。嫌がられても渡す。それもまた楽しい。ただそれだけである。たぶん、こんな人はほとんどいないだろう。だから陶芸教室もこういう人を想定したプログラムを用意していないのだ。本書もこんな人は想定していないようだ。

いわゆる変わり者である。役に立たないものばかり作っている。ほかにこんなことをする人がいないから、陶芸界のマーケットになり得ない。物珍しいから「個展でもやりませんか?」と声をかけてくれる人がいるのだろう。作品を販売しないのだから、ギャラリーにとっても経済的なメリットはないはずだ。でも僕は、経済的なメリットとは別のところでつながる人たちと生きていきたい。そのほうが楽しいから。


▼『「森の生活」ソローの生き方を漫画で読む』

ヘンリー・デイビッド・ソローの著作や生き方が好きだ。『森の生活』はわかりやすくて面白い。「そういう生き方があったか!」という発見がある。

アメリカを訪れた際、どうしてもコンコードへ行きたかった。ソローが2年2ヶ月過ごした「森」があるからだ。実際に森へ行き、ソローが生活した小屋の位置を確認し、池までの距離と勾配を体感した。池に入り、水が飲めそうなのかを確認した(とても飲む気にはなれなかった)。ソローはここで豆畑をつくり、森を散策し、池に船を浮かべて読書し、氷の厚さを測り、池の水を飲んで暮らした。

コンコードのあちこちにソローにちなんだ史跡がある。兄貴分だったエマソンが一時期住んだ家には、ソローが庭の管理に来ていた。この家は現在公開されているのだが、売店にはソローの漫画が売られていた。英語の本だが漫画なら理解できるだろうと買ってみたが、いつか読もうと思いながら数年間が経ってしまった。

そんなとき、本書を書店で見つけた。コンコードで入手した漫画の邦訳版である。これはありがたい。すぐに購入して読み終えた。ソローが池と小屋でどんな生活をしていたのかが、漫画なので理解しやすい。著者はこの漫画を描くために現地を何度も訪れたのだろう。実際に風景をうまく表現できている。また、この漫画は森で生活した後のソローについても描かれている。奴隷反対運動にまつわる話など、「森」以後のソローを知るための資料としても有益である。

この漫画を読んで、ソローに興味を持った人は『森の生活』を読むといいだろう。絵で表現されている行為の意味が理解できるはずだ。人生を楽しみ尽くしたソローの生き方から、新自由主義経済の真っ只中に生きる我々が学べることはたくさんあるといえよう。


▼『ソロー「森の生活」を漫画で読む』

「いそっぷ社」という出版社が2018年に邦訳出版した本。原著は2008年に出版されているらしい。ジョン・ポーサリーノという人がシンプルな漫画でソローの生活を表現している。一方、『「森の生活」ソローの生き方を漫画で読む』もまた、いそっぷ社が邦訳出版した本であり、2020年に出版されている。原著は2012年の出版だ。

「いそっぷ社」、よほどソローのことが好きなのだろう。2008年に出版されたシンプルな漫画と、2012年に出版されたリアルな漫画を、両方とも邦訳して出版してしまったのである。

本書は、漫画の前後に詳しい解説が付けてある。それによって、ソローの人となりが少し見えてくることだろう。なかでも「食べていくために商売をするな。娯楽で食べていけ」という言葉は印象的だ。いまならYouTubeなどが「好きなことで、生きていく」というコピーを掲げているが、ソローは170年前に似たことを主張している。ただし、YouTubeの場合は「好きなこと」を動画にして発信すれば、企業の広告とともにそれが配信されて、うまくいけば広告収入が入るから「生きていく」ことができるよ、という話である。ソローはこれを否定する。自分が食べていくために商売をして、他人からお金をせしめようとするな、というのである。そういう考え方で商売を始めると、少しでも贅沢ができるようにと売り上げを高めたくなる。そうすると、商売自体がどんどん正直ではない方向へ進んでしまう。少しでも楽をしたいし、少しでも贅沢がしたいし、そのために利益率を高めたくもなる。これらは不誠実だし、人生を豊かなものにはしないし、やっててうんざりしてしまう仕事である。だからソローはそれを否定する。そして、楽をせず、むしろ仕事を楽しいものへと変えていき、贅沢をせず、むしろ貧乏な生活を楽しむ方法を模索する。この方向なら、人々から余分な金をせしめることなく人生を楽しいものに変えることができる。

もちろん、こういう態度の人が増えると経済成長は望めないだろう。しかし、我々は国の経済成長を促進するために生きているわけではない。もちろん、経済成長すれば自分の給料も増えるだろうし、そうすれば好きなものが買えるようになるだろうし、そうすれば満足できる人生になるだろうと思っている人は多いだろう。ところが、実際にはそうならなかった。好きなものが買えるようになっても、またさらに高級なものが買いたくなる。満足できない。そのために働く。利益率を高める。人を騙してでも収入を高めようとする。あからさまに騙さないまでも、勘違いさせてしまうような売り文句を掲げて商品やサービスを購入させようとしてしまう。しかし、本人はそういう働き方が豊かな人生につながらないことは自覚している。あるいは、それを続ける間に自覚すらしなくなる。ソローは、そういう生き方や働き方を疑問視している。そこから距離を取ろうとするのなら、自分の生活をシンプルにし、欲しい物を増やさないようにすればいい。そう思ったから、森の中に小屋を建てて、池の水を飲みながら楽しく暮した。そんなソローの思想や行動が、シンプルな絵からなる漫画で読むことができるのだ。興味深い時代になったものだ。


▼『北欧式インテリア・スタイリングの法則』

思い起こせば、建築についての本はたくさん読んできたが、インテリアについての本を読んだことはほとんどなかった。インテリアについての本は何冊も持っている。だが、いずれも「読む」ものではなく「眺める」ものばかりだ。自分が好きなタイプの雑誌などがあると、なんとなくそれを眺めながら「こんな家具を置きたいなぁ」「この壁の色は好きだなぁ」などと考えていた。

しかし、建築空間が完成したあと、住む人が目にするほとんどのものはインテリアデザインに関わるものである。建築デザインに関わるものは背景になる。ソファーの下や後ろに引き下がる。本棚の裏側に存在するようになる。いろいろ検討した床面はラグで隠される。だったらインテリアデザインについて、眺めるだじゃなくてちゃんと「読まねば」なるまい。生活が始まるとほとんど隠されてしまう建築デザインについて「読む」だけでは物足りない。

ということで、「読むインテリアデザイン」をテーマに本を探してみたら本書に出合った。偏見かもしれないが、建築が好きな人の多くは「北欧式」とか「スタイリング」という言葉をあまり評価しない。「○○風」とか「○○スタイル」という言葉が嫌いだ。特に近代以降の建築理論を学んだ人たちは、そこから自由になりたいと考えていることが多い。私も最初はこの本のタイトルに違和感を覚えた。しかし、書店で中身を読むうちに、大切なことがわかりやすく解説されていることに気づいた。「眺める本」の場合は、当然のようにフルカラーのページが続くが、この本は終始2色刷りである。カラー写真が1枚も登場しない。それでもわかりやすいし、文体が優しさに溢れている。すぐに気に入って購入し、1日で読み終えた。

タイトルは「北欧式」を掲げているものの、内容は普遍的なインテリアデザインの考え方を整理してくれている。また、具体的な色や寸法や材料を丁寧に示してくれている。今まさに、自分の仕事場兼自宅を設計中なので、感覚的に「これがいいんじゃないかな」と思っていたことがちゃんと言葉で表現されていたりして「やっぱりこれでよかったんだ」と安心することが多い。また、挑戦するのを躊躇していた色使いなどについても、背中を押してくれるような表現があって勇気づけられた。本書を参考にしながら、これからつくる空間の詳細を検討していきたい。


▼『サボる哲学』

旧知の編集者が担当した新書。とても頼もしい編集者で、甘いマスクのイケメンなのだが、意外にハードコアな思想を好む。その編集者が、今回組んだ相手が栗原康さん。同じく甘いマスクのイケメンなのだが、ハードコアな思想の持ち主だ。文体は力の抜けたものだが、引用する哲学者や社会学者の理論は高尚である。同世代だからだろうか、文中に何度も登場する「ヒャッハー!」「ブヒャー!」「ガーン。」などの表現が懐かしさとともに染み込んでくる。でもきっと、これってオッサンの表現なのだろう。

著者はとにかく支配を嫌う。僕も嫌いだ。しかし、僕らは知らないうちに支配されている。危機感を煽られて不安になり、サボることが難しい雰囲気に支配されている。「国の借金は膨大だ」「放射能の影響があるかも」「コロナで経済は壊滅状態」「社会保障費が足りない」「地球環境は限界だ」「人工知能によって多くの仕事が奪われる」。。。とにかく不安にさせられる。そのうえで、「だから懸命に働け」「非正規雇用のままじゃ将来がないぞ」「国の言うことを聞いておけ」「企業の言うことを聞いておけ」ということになる。いや、自ら進んで「懸命に働こう」「雇用主には逆らわないようにしよう」と支配下に潜り込む。

こうした状態を支配だと思ったことはない。でも、指摘されてみれば支配的だ。支配は嫌だ。支配されたまま、支配されているとは思わずに働き続けた結果、死ぬ直前に「結局、やりたいと思っていたことはほとんどできなかったなぁ。ひょっとして、何者かに支配された人生だったのかなぁ」と気づくのは嫌だ。もうすぐ50歳になるが、人生100年時代なのだから、あと半分の人生は無自覚な支配から逸脱しながら生きてみたい。そう思わせてくれる著書だ。

じゃ、どうやって支配から抜け出すのか。サボれ。逃げろ。駄々をこねろ。そういうことらしい。「それじゃ、食べていけないじゃないか」と思うだろう。僕も思う。著者も、そのことについては明快に「大丈夫。それでも食べていけるから」とは言わない。食べていけるかどうかが不安になるから支配されやすくなるのである。明日のことは考えない。食べていけるかどうかを考えずに、いま楽しいと思うことをやろうぜ。そう呼びかける。僕らは「食べていく」ために生きているわけじゃないのだから。

著者はそうやって生きているようだ。そして、まだ生きている。だから大丈夫だろう、という気持ちで本書を執筆しているようだ。今日を思いっきり楽しみ、今日やりたいと思うことをやっていれば、そこに着目して仕事を依頼してくれる人がいるだろうし、助けてくれる人がいるだろう。目の前で起きていることに反応しながら生きていけ。損得勘定ではなく、助けたいと思う人や物があれば助けろ。楽しそうだと思うことがあれば楽しめ。相互扶助によって、きっとあなたは生きていける。そんなところだろうか。

言われてみれば、僕はそうやって生きてきたような気がする。コロナ禍になって、ますますその傾向が強まった。ずっと自宅にいるからだ。今日は眠いから寝ていよう。今日は雨だから本でも読んでいよう。今日はやる気が出ないからサボろう。しかし、今日は妙にやる気が出てくると思った日は夜中まで、あるいは朝まで働いている。これが会社に出勤するということになると事情が変わる。「眠いから」とか「雨だから」とか「やる気がでないから」といった理由で休むわけにはいかない。定時に出社して定時に帰らねばならない。その代わり「夜中まで」とか「朝まで」働かされることもない。そんなことをさせられたら「ブラック企業だ」と叫ぶことができる。もちろん、そう叫ぶことができずに苦しんでいる人がいるのも確かだ。ただ、僕が問題だと思っているのはむしろ、「今日はやる気が出てくるぞ」と思った日に、自分が満足できるまで働き続けることすらも「ブラックだ」と指摘されそうなことである。一昨日も昨日も寝ていたのである。明日も寝ているかもしれないのだ。だったら、働きたいときは「もういい」というまで働きたいものだ。

資本主義以前の働き方はそういうものだったはずだ。好きなときに、好きなことを、好きなだけやる。それが仕事だった。ところが、資本家に雇われるようになると、雇用主が求めることをしなければならない。働く時間も場所も内容も決められる。僕はそういう働き方が窮屈だった。だから個人事業主の集団である「studio-L」をつくった。オンラインで仕事ができるようになった今、とても快適に働いている。studio-Lで長く仕事を続けている人たちはみんな、同じ気持ちだろう。もう企業に再就職することができない身体になってしまっているはずだ。それでも僕らは、一応「食べて」いけている。生活のことも仕事のことも相互扶助的に調整している。だから、本書の主張する内容には共感するばかりだ。

本書の8章に『ブルシットジョブ』についての話が登場する。「楽しくないし意義もない仕事」だからこそ見返りとして多めの賃金をもらう。「楽しくて意義のある仕事」なら賃金が少なくても我慢しろ。このあたりの話は、『楽しさとは何か』という本でも書いてもう少し詳しく語りたいところだ。「楽しくて意義のある活動」は、お金をもらわなくてもやりたいし、お金を支払ってでもやりたい場合もある。だから僕は、労働もボランティアも消費も、すべて活動と捉えている。「楽しく定義のある活動」のうち、お金をもらうもの(仕事)とお金のやりとりがないもの(ボランティア)とお金を払うもの(消費)があるだけだ。こう整理すると、そのほかに「楽しいけど意義のない活動」「楽しくないけど意義のある活動」「楽しくもないし意義もない活動」というのがあって、それぞれに仕事とボランティアと消費が存在する。そのあたりについてまとめた本をつくりたいと思うのだが、これはやはり本書の編集者に相談してみるべきだろう。


▼『コンヴィヴィアル・テクノロジー』

「コンヴィヴィアル」とは聞き慣れない言葉だ。50年ほど前に、この言葉を積極的に使った人がいる。思想家のイヴァン・イリイチだ。彼が『コンヴィヴィアリティのための道具』という本を書き、多くの人々に「コンヴィヴィアルって何?」と思わせた。

イリイチによると、道具は人間によって作られたはずなのだが、それがどんどん便利なものへと改善されていくと、いつの間にか人間がその道具に頼らなければ生きていけないほど依存する対象になってしまう。重い荷物を運ぶために人間が工夫して荷車を作る。人間がそれを引くのは大変だから馬に引かせる。そのうち荷物じゃなくて複数の人間が荷車に乗って馬に引いてもらえばいいじゃないかという話になる。座りやすい椅子を付けて馬に引いてもらい「馬車」という名前を付ける。その後、馬車にエンジンを付けて馬を取り外し、それを「自動車」と呼ぶようになる。自動車用の道路が整備され、自動車でなければ到達できないような場所を開発し、まちを作る。自動車によって遠隔地まで通勤できるようになる。多くの人が自動車で移動するようになるので、いつも渋滞する箇所が出て来る。毎日のようにイライラする。もう人間ではどうしようもない状態になっている。自動車に頼らないと通勤できないのだが、通勤のたびにイライラしている。それを回避するために、自動運転技術が向上させ、渋滞を回避するような交通マネジメントシステムが完備されるのだろうが、そうなるとますます人間は自動車に頼らなければ生きていけなくなる。

イリイチは自動運転技術を予想したわけではない。でも、道具の開発がエスカレートすると、人間が道具に頼らざるを得なくなることはわかっていた。だから「自転車くらいがちょうどいい道具なんじゃね?」と指摘した。移動に関して言えば、人間と道具が良い関係にあるのが自転車だというのだ。この「良い関係」というのがコンヴィヴィアルという言葉に含まれる意味のひとつだ。人間と自転車はそれぞれ別の生物と物体であり、それぞれの世界を生きている。でも、人間が自転車に乗るとき、お互いの力がうまく組み合わさって「良い関係」になる。まるで人間と自転車が宴で一緒に踊っているかのように。

自転車がコンヴィヴィアルのための道具だとすれば、医療におけるコンヴィヴィアルはどんなものか。教育におけるコンヴィヴィアルはどんなものか。イリイチはそんなことを問うた。1973年のことだ。前年の1972年にはローマクラブによる『成長の限界』が出版されている。同年の1973年にはエルンスト・シューマッハによる『スモール・イズ・ビューティフル』も出版されている。この頃、「ちょうどいい」「中間」「適正」「ぼちぼち」「そこそこ」「良い塩梅」ということを標榜する理論が百出した。地球の資源には限界がある(宇宙船地球号だぜ)。金儲けにも限界がある(金があっても幸せになれないよ)。頑張りすぎるのは良くない(無理がたたるよ)。モーレツに働いて経済成長を実現させてきた先進国、そして日本の大人たちが、自分たちの生き方を反省し始めた時期だったといえよう。1973年。私はこの年に生まれて、「ぼちぼち」「そこそこ」という価値観の広がりとともに育った。だからだろうか。自分の会社を大企業にしたいという野望がない。売上を増やし続けたいという欲望もない。コミュニティデザインなどという手間のかかる、アナログな、生活者の主体性を前提とした、少しめんどくさい、でもやり方によっては楽しい、コンヴィヴィアルな仕事に携わってきた。

本書は、未来のテクノロジーについてもコンヴィヴィアルなものであるべきだと主張する。人間が完全に依存してしまうような技術ではないほうが良い。人間が制御できないような技術ではないほうが良い。人間が騙されてしまうほど巧妙な技術ではないほうが良い。技術者は、ともすれば「これもできる」「あれもできる」「もう少し頑張れば、あんなこともできるようになる」と一生懸命に技術を開発してしまう。しかし、それが世の中に出ていくとき、人間と良い塩梅の関係性を作ることができるかどうかについては考慮されていないことが多い。パソコンやインターネットが、生まれた当初は人間のための技術だったにも関わらず、いまやビッグデータや人工知能を駆使して我々に入ってくる情報を操作したり、見たいものしか見せないようにする技術にまで進化してしまったように。

テクノロジーは今後も進化し続けるだろう。重要なことは、どこから先は人間を隷属させるテクノロジーになってしまうのかを見極めることである。人間とコンヴィヴィアルな関係を保つことができるテクノロジーとして進化させられるかを検討することである。たとえそのテクノロジーによって市場を席巻できるとしても。巨万の富を築くことができるとしても。

本書を、以前紹介した『進化思考』と合わせて読むことをオススメする。「変異」によって無数のアイデアを生み出し、「適応」によって生き残るアイデアを見極める。こうやって創造性を発揮し、新しいモノやコトをどんどん生み出すことができるという進化思考。その「適応」のチェックリストとして「解剖」「生態」「系譜」「予測」の4つが挙げられていたが、本書を読むと、それぞれに「人間とのコンヴィヴィアリティ」という視点が含まれるべきだと感じるだろう。


▼『「あいだ」の思想』

職場の同僚として理想的な関係性を保つ2人、辻信一さんと高橋源一郎さんの対話がまとめられた本。数年前まで、2人とも明治学院大学の教員だった。その2人が共同研究と称して何度も対話を積み重ね、10年間に「弱さ」「雑」「あいだ」についての本を出版した。本書はその3冊目である。

辻さんは、あまり人気のない言葉のなかに価値を見つけ出すのがうまい。その代表的な言葉が「遅さ」である。遅さが持つ価値を多面的な角度から照らしたのが『スロー・イズ・ビューティフル』であり、この本についてはまたいつか紹介したいと思っている。

今回のテーマは「あいだ」。副題は「セパレーションからリレーションへ」。「あいだ」は隔てるものか、繋ぐものか。境界線なのか領域なのか。そんな話が続く。「縁側」「庭」「玄関」がもつ「あいだ」としての役割などは、建築関係者がしっかり認識しておくべき話題である。

また、以前触れた「コンヴィヴィアリティ」という概念も「あいだ」に関係している。「不足」と「過剰」の「あいだ」を見極めること。そこからはみ出ないようにすること。イリイチはそれを「2つの分水嶺のあいだに留まること」と表現している。重要な指摘だ。

「あいだ」についての話題は、当然のように関係性の話になり、関係性を切ることと生み出すことについての考察が続く。個人主義は関係性を切る方向。自由主義も関係性を切る方向。ところが、個人主義と自由主義を愛し、自由を謳歌しているつもりの個人は、関係性が希薄なだけに全体主義に取り込まれやすいという。全体主義と個人主義は相反するもののように見えるがそうではないらしい。全体主義に対抗するためには、個人が複数でつながるコミュニティやアソシエーションの存在が重要である。辻さんは、アメリカや日本で進む自由主義と個人主義はかなり危険なところまで来ているので、今後は「あいだ」をつなぐ活動が必要になるだろうと予測する。まさにコミュニティデザインが担うべき領域である。気が引き締まる思いだ。

本書の最後で、辻さんがトクヴィルの言葉を紹介している。約200年前にフランス人のトクヴィルがアメリカに滞在した経験をまとめた『アメリカのデモクラシー』には、「アメリカのアソシエーションはアートだ」という表現があるというのだ。これは大変勇気づけられる言葉である。我々はコミュニティデザインをアートだと考えたことはないが、現在行われている「東京ビエンナーレ」というアートイベントを始め、何度かアートとしてのコミュニティデザインプロジェクトを生み出してくれ、と依頼されたことがある。そのたびに、自分たちの活動のどこがアートなのかがうまく説明できていなかったのだが、今後は「あのトクヴィルが協同をアートだって言っていたんだ」と伝えてみようと思う(それで納得する人がいるとは思えないが)。そのためにも、具体的にどんな文脈でこの言葉が登場したのかを調べてみたいと思うのだが、日本語訳になった『アメリカのデモクラシー』は全4巻もあるらしい。そのなかから上記の言葉を見つけ出すのは至難の業かもしれない。


▼『世界は善に満ちている』

キリスト教系の大学に関わることになって、急にキリスト教アレルギーのようなものが低下した。これまでなら「ああ、キリスト教的な話ね。つまり、なんかいいことが書いてある本でしょ。でもねぇ、僕はキリスト教を信じているわけじゃないからねぇ」と反応していたような本に対して、「大学で使えるネタが入っているかもしれない。読んでみようかな」と考えられるようになったのである。これは大きな変化だ。

本書はトマス・アクイナスの神学と哲学について書かれた本である。「ああ、そっち系ね」という反応はよくわかる。ついこの間まで、僕もそうだったから。しかし、この本は違う。キリスト教の話ではないからだ。人間の感情についての本なのである。哲学であり、むしろ心理学に近いような内容ともいえる。

人間の感情がどういう仕組みで湧き上がるのかを、700年以上前にトマスが書いたことをわかりやすく解説してくれている本だ。わかりやすくするために、学生と哲学者の対話という形式を取っている。学生がわからないことを容赦なく哲学者に問う。これに対して、哲学者が学生にわかりやすい言葉で返答する。これを繰り返す本である。だから哲学書を読むととてつもなく時間がかかってしまう僕でもスラスラと読み進められる。

ただし、本書に登場する架空の学生が、哲学者に対して上から目線で質問するのがどうも気になる。端的に言えば生意気なのであるw。哲学者、よく耐えたぞ。こんな質問を浴びせかけられながら、哲学者は最後まで良い人である。僕なら2日目くらいに「もう来るな!」と言いたくなるほど不躾な質問し続ける学生である。

登場する学生は気に入らないが、その質問は的確である。「よくわかりません。もう少し具体的に説明してください」という謎の上から目線によって、哲学者の話がとてもわかりやすくなっている。うちのゼミにいたら腹が立つ学生だろうが、本書のなかでは重要な役割を果たしているといえよう。

本書が対象としているのは、トマスの『神学大全』のうち人間の感情について書かれた箇所である。人間の感情にはさまざまなものがあるが、それが喜びであっても悲しみであっても怒りであっても、根底には愛がある。喜んでいるのは愛が成就したからであり、悲しんでいるのは愛を失ったからであり、怒っているのは愛の対象がないがしろにされているからだ。愛を手に入れたいと思うから欲望が生まれ、手に入るかもしれないと思うから希望が生まれる。すべての感情に愛が関係している、とトマスはいう。

愛は、対象物のなかに「善きもの」を見出すから生まれる。人間は、他の人間や動物や植物、芸術や風景など、あらゆるものを知覚する。しかし、知覚したすべてを愛すわけではないし、すべてに善きものを見出すわけではない。自分に知覚されるもののなかで、善きものを見いだされる対象と、見いだされない対象がある。見いだされる対象は、そのときの自分にとって魅力的な要素を持っていたものだといえる。つまり、対象物の「善きもの」が知覚され、それが自分の求めていたものと一致するから愛が生まれるというわけだ。

だから、時が経つと愛する対象が変わることはありえる。好きではないと思っていた音楽が、あるとき急に好きになることがある。料理も同じだ。その良さが分かるときが来る。建築も同じだろう。良い建築空間とはどういうものかを何度も何度も体感していると、それが分かるようになってくる。それを教育し、「建築家だからこそ分かる空間の価値」のようなものを身につける。これはこれで「建築家のエートス」という厄介なものになりかねないのだが、本人は「これまでわからなかった空間の価値」が分かるようになり、建築を愛することになる。

世界に愛するものが増えていくと、自分の人生が喜びに満ちたものになっていく。なぜなら、人は愛の対象を見つけただけで喜びを感じることができるからだ。それを手に入れればさらに喜ぶことができる。愛する人が好きなものを見つけるだけでも喜ぶことができるし、愛する人が喜んでいると自分も嬉しくなる。こうして自分の中の喜びがどんどん増えていく。

だから、自分の人生を喜びに満ちたものにしたいのなら、好きな人や好きなものや好きなことを増やし続けるといい。好きかどうかわからない場合は、その対象について深く知ることが大切だ。深く知るうちに好きになることが多いからだ。好きになり(これだけで世界が少し明るくなる)、対象を手に入れ(さらに世界は楽しくなる)、その対象が人ならその人が好きだと思うものを見つけ(これまた楽しい)、その人が喜んでいる姿を見る(それも嬉しい)。つまり、友人を増やしたり、恋人を見つけたりすればするほど、喜びは増幅していくというわけだ。

もちろん、対象物が手に入らないこともあるだろう。好きな人が悲しんでいると自分が悲しくなることもあるだろう。しかし、それらもまた愛が原因であると考えることで、気持ちは少し明るくなるはずだ。手に入らないと悲しいのは、そこに愛があるからだ。好きな人が悲しんでいると自分も悲しくなるのは、そこに愛があるからだ。常に愛の存在を実感することができるわけだ。

ワークショップの参加者たちが互いに深く知り合い、友人になり、一緒に活動し、喜怒哀楽をともにすると、どんどん幸せそうになっていくのは、そこに愛があるからだろう。喜怒哀楽の根底には愛がある。そんなことを哲学的に理解させてくれるのが本書である。

今後、ワークショップの合言葉は「そこに愛はあるのかい?」にしよう。


▼『希望の歴史(上)』

辻信一さんから「ヒューマンカインドという本が面白いよ」と教えてもらった。辻さんは英語版で読んだらしい。翻訳が出たら読みたいなと思っていたら、出た。上下巻の2冊セット。小説だったら読み終えることはできないページ数だが、この手の本なら大丈夫だろう。さっそく上巻を読んだ。

気分が良い本だ。何しろ「人間の本性は悪だと思われてきたけど、実は善なんじゃないの?」という内容である。本当はそうあって欲しいなぁと思っていた。人間は、自然状態にあるとお互いにいがみ合い、攻撃し合い、殺し合うことになる。だから権力が必要であり、法律が必要だ。そうやって文明化すると、人々は一応、おとなしく生きていくことができるようになる。ホッブスが主張したこの手の性悪説は、王様や権力者が使いたがる言説だ。「だから私のようなものが必要なのである」と庶民を説得しやすいからだ。

王様だけじゃない。メディアも「人間って、いい人そうに振る舞っているけど実は奥底に悪い心を抱えているんだよね」と発信したい。なぜなら、そのほうが視聴率が稼げるからだ。「こんな残忍な事件が起きました」「戦争ではこんなに痛ましいことが行われていました」「詐欺の手口はこんなに卑劣です」。こういう情報にこそ、多くの人々が興味を持つことをメディアは知っている。逆に、人々が興味を持たない情報も熟知している。「今日もこのまちは平和でした」「この人はとても親切でした」「お互いに助け合って物事を成し遂げました」。この手のコンテンツは視聴率を高めるのが難しい。たまに観るなら良いのだが、刺激を求める人々にとってはすぐに物足りない内容だと判断されてしまう。その結果、新聞でもテレビでもネットでも、刺激的な情報、つまり「人間はどれだけ悪いことをするか」という情報が大量に発信され続ける。

王様やメディアだけじゃない。実は研究者も出世のためにウケを狙う。つまり、「人間の本性は悪である」ことを立証するような論文を書く。なぜなら、そのほうが多くの人達に読んでもらえるし、メディアに取り上げてもらえる可能性が高まるからだ。テレビ番組の企画者は、人間の悪性を実証した実験を再現したがる。視聴率が高くなって広告収入がたくさん得られそうだからだ。こうした番組には、元の実験をした研究者も登場してインタビューに答える。すると、この研究者の知名度が上がる。准教授になり、教授に昇進する。

つまりこういうことだ。研究者たちは人間の「善性を証明する論文」と「悪性を証明する論文」をこれまでに山ほど書いてきた。メディアは視聴率や再生回数を意識して、人間の「悪性を証明する論文」を使った番組を多く企画してきた。その結果、「人間の本性は悪である」ということを伝える番組が多くなり、人間の「悪性を証明する論文」を書いた研究者が出世する。

結果的に、我々に入ってくる情報の多くが「人間の本性は悪だよー」というメッセージを帯びることになる。問題はここからだ。「人間の本性は悪だよー」というメッセージを受け続けると、人間は他人を疑いやすくなるらしい。ずるいことを考えやすくなるらしい。凶暴になりやすいらしい。ではどうしたらいいのだろう。その先はきっと、下巻に書いてあるのだろう。引き続き読み進めようと思うが、とりあえずネットニュースとSNSを眺めるのは止めようと思う。テレビと新聞はもう長い間、観たり読んだりしていないので心配はないが、SNSとネットニュースはついついクリックしてしまう。YouTubeにも注意が必要なチャンネルが多い。特に「悪そうなニュース」や「悪そうな企画」がタイムラインに上がるとついつい。それらを読んだり観たりする時間があるなら、むしろ本書の下巻を読み進めたい。


▼『希望の歴史(下)』

下巻の最初は「共感の危うさ」から始まる。共感って良いことじゃないの?と思うのだが、共感すると、その外側が急に見えなくなるという特徴が指摘されている。つまり、特定の人たちに強く共感すると、その外側の人たちと敵対してしまう危険性があるというのだ。だから、共感よりも思いやりが大切だと著者は指摘する。共感は対象に近づき過ぎるのだが、思いやりだと一定の距離を保っている。この距離感だと、外側にいる人達を敵対しするほど対象に没入しすぎなくて済むというのだ。

確かに、市民参加のワークショップを開催している場でも、集まった人たちの共感が高まるとき、「我々はわかっているけど、そもそもこういう場所に来ない人たちこそ問題だよねー」という話になることがある。ワークショップに参加していない人たちはわかっていない。自分が好きなことをして時間を過ごしている。けしからん。そんな響きがある。しかし、それでは仲間が増えないし、地域が変わるきっかけにはなり得ない。共感を重視しすぎるワークショップは警戒せねばなるまい。人々は「共感できる」のではなく、「共感しすぎる」特性をもっているのだ。

もうひとつ、興味深かったのは「やはり人々は戦争したくない」という事実だ。できれば目の前の人と戦いたくない。第1次世界大戦のとき、クリスマスに敵軍とともに歌を歌い、打ち解け合い、翌日から交戦を避けるようになった戦場が各地にあったという話が紹介されている。興味深いのは、戦地にいない本部の司令官などは冷徹になれたという事実だ。上巻にも書かれていたが、銃剣で人を刺すのは難しいが、離れたところから銃を撃つのは可能である。しかし、実際には銃を撃って相手を殺すのも嫌なので、クリスマスには誰ともなく歌を歌い始め、それを聞いた敵軍もお返しの歌を歌い、そのやりとりを何度かしたあとは両軍とも塹壕から出てきて、お互いにプレゼント交換をして一緒に歌を歌ったという。ところが、この知らせを聞いた本部の司令官たちは激怒し、翌年のクリスマスには歌を歌わず弾を撃つよう命じた。これに対して現場の兵士たちは、敵軍に手紙を送って「明日は用心してくれ、司令官から銃撃するよう命じられた」「なるべく上空に向けて撃つ」などとやりとりをしていたというのだ。

いまや僕は戦争から時間的にも空間的にも遠いところにいる。だから、戦場でどのような人間性が発揮されていたのかを感じることができないまま、きっと戦時中は人々が狂ったように人を殺しまくっていたのだろうなぁ、などと邪推してしまう。しかし違ったのである。戦場にいた人たちは、できれば人を殺したくなかった。あらゆる理由を作っては銃を使わないようにしていたのである。

「人間の本性は善である」というと、「ではなぜ戦争が起きるんだ?」と反論される。しかし、その戦争だって人々はやりたくなかったようなのだ。早く終わって欲しいと思っていたようなのだ。だからこう考えたらどうだろうか。「人間は戦争を長く続けられない生き物なのだ。だからこそ、どの国でも平和な時代と戦争の時代を比べると、平和な時代のほうが長く続いているだろう」と。

本書の後半は、コミュニティデザインの現場に近い話が紹介されている。ブラジルやニューヨークにおける市民参加型予算の実践や、「ホモ・ルーデンス」の概念に基づいた「遊び」や「愉しさ」の重要性、管理職が無くても機能する職場、人間は基本的に助け合う生き物「ホモ・コーペランス」であるという言説、楽観主義でも悲観主義でもない可能主義という立場など、我々の働き方やワークショップの現場に役立つ考え方が提示されている。

こうした話題はコミュニティデザインという手法を大いに勇気づけてくれる。「ホモ・コーペランス」が人間の本性だと思えるからこそ、ワークショップの参加者を信じて対話を続けられるのである。ただし、著者も最初から指摘しているとおり、「人間は善である」という言説は広がりにくい。人々は「人間は悪である」という情報を好んで広げる。バズらせる。「やっぱり人間って悪いんだよね」と言いたい。書きたい。そういう態度のほうが現実的で冷静な人のように見えるからだ。逆に「人間は善である」と言えば「理念は分かるけど実際はねぇ」といわれるのがオチだ。しかし、「実際は」善だったのである。「人間は悪である」ということを証明してきた論文の基礎資料にあたってみると、被験者たちの多くは善い行動をしていたのである。それをそのまま発表した論文は注目されず、バズらなかった。その結果に満足せず、悪い行いになるまで実験を工夫した研究者の論文はバズった。人間がどれだけずるいことをするかを知った人たちは「やっぱりな」と安心した。そのうえで、「私は違うけど、多くの人はきっとこういう悪いところを持っているのだろうな」と思いたがった。

ところが、イギリスでの調査によると、人口の74%が富や社会的地位や権力よりも、思いやりや正直さや正義感といった価値観に共感したという。「多くの人」は善に共感したのである。にも関わらず、同じ調査によると人口の78%の人が「他の人は自分本位だと思う」と答えたらしい。つまり、7割以上の人が「自分は善に共感する」と思いながらも、「他の人はきっと自分勝手だよ」と思い込んでいたというわけだ。

人口10万人のまちでワークショップをして、参加者が100人集まったとする。参加者はみんな善を愛し、まちの未来を真剣に考えて、お金をもらえなくても活動すると誓い合ったとする。「ここにいる人達は志が高いから、お金がもらえなくても動ける人たちだと思うよ。でも、こういう人たちは多くないでしょ。実際にはお金ももらわないのにまちのために動こうなどと思える人は少ないからねぇ」という話が毎回出る。そしてこれが「現実的な意見」だということになる。「自分たちは違うけど、ほかの多くの人はボランティアには興味を持たないよ」というわけだ。しかし、イギリスでは7割の人が富や社会的地位や権力よりも、思いやりや正直さや正義感を重視したがっているのだ。人口10万人のまちなら、7万人はまちづくりの活動に共感してくれる計算になる。ということは、このワークショップ会場にいる人のほかにも、一緒に活動してくれそうな人は6万9900人もいることになる。この人数、イギリスと日本でそんなに違うものだろうか?僕らは人間の本性について、抜本的に考え直したほうがいいのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?