ぎんしお少々はなぜカルト的な人気なのか

※きらら本誌のイチオシきらら企画、まんがタイムきらら Advent Calendar 2023にあわせて加筆修正しました。

※この記事は、あくまでぎんしお少々の人気がカルト的な理由」を淡々と探るものです。過度な期待はしないでください。正直、ぎんしお少々のすばらしさは1割すら表現できていません。いくら読んでも底が知れない作品なので。その証拠に1巻の半分も読めば、ここで一切触れられてない重要ポイントがワラワラでてくることに気づくはずです。
本当にぎんしお少々のすばらしさを知りたい人、ネタバレを喰らいたくない人は、回れ右して大人しく読も。ぎんしお少々第1巻は好評発売中。第2巻は6/27発売。一部はニコニコ静画のきららベースでも読めますよ。


ぎんしお少々は何がヤバいのか

皆さん、読んでます、ぎんしお少々
お読みでない!?
このガチでヤバい作品を?(読も!?

何がヤバいかって、作品もヤバいんですけど、読んだ人の感想がヤバいんです。

曰く、「ぎんしお少々はいいぞ」
曰く、「ぎんしお少々は極めて優れてます」
曰く、「ぎんしお少々はミステリ」
曰く、「読んで」

と、様々な賛辞があふれてるも関わらず、「どこがいいのか?」「何がいいのか」を説明がほとんどされていない。いや、できない節すらあります。

こんなです。
いいとはわかっている。
わかっているけれども、見てない人には伝えられない。
読者がいわば「スバル・ミヤモトのボレロを観た観客」状態なんです。

スバル・ミヤモトのボレロを観た観客の感想(昴,第11巻,pp.88より。みんな読もうぜ)

Twitterを見てると、完全にコレになってる読者があふれてます。そんなドラッギーなマンガってあります?

こうなってくると、この作品の麻薬的なすばらしさを解明して言語化しなくちゃという使命感がムクムクと湧いてきましてこのnoteを用意しました。私、解釈して言語と結びつけて伝えるのが専門なので。

ぎんしお少々のテーマ

というわけで、まずはストーリーとテーマからです。
物語は高校の入学式、二人の女の子の出会いからはじまります。

藤見銀(しろ)と塩原もゆる。一見すると正反対。でも、人に何かを伝えるのが不器用なところは、ちょっぴり似ている。そんな二人が、すれ違いながらも、「写真を撮る」という時間を切り取って、言葉に頼らず、時間を越えて人に伝える行為を積み重ねて、少しずつお互いの関係を築き、そして周囲との関係を見つめ直していくというストーリーです。

写真がテーマですが、写真といってもスマホで手軽に撮れるおなじみのアレではありません。撮影して、現像に出し、仕上がってくるのを時間をかけて待って、はじめて写っているものを見ることができる、昔ながらのフィルム写真(銀塩写真)です。

銀塩写真が持つ「時間を切り取る」、「言葉に頼らない」、「時間を越えて伝える」といったモチーフが、繰り返し、形を変えて物語と絡んできます

ぎんしお少々の描写

少女が、フィルム写真を撮る。
それだけで、なんかエモいような気がしてきますが、注目すべきはそこではありません。
ぎんしお少々の特筆すべき点。それは、物語の描写です。
この作品では「人に何かを伝えるのが不器用な主人公たちが、言葉に頼らない写真を通して何かを伝えようとする物語」、その物語自体を言葉に頼らずに表現してきます。この主人公たち、自分の気持ちを言葉で語るどころか、理解すらできてない節がありますので、むしろ言葉で語らない方が自然です。

本当に自然のまま(と感じられるよう)に描かれています。説明的なセリフとかがほぼない。そんななので第1話では、主人公二人の名前すら揃わないという……(そして雑誌掲載当時、編集さんの告知ツイートがガッツリ、ネタバレになってしまったという……)。なんとも平田オリザ的な……(注1)。

(注1) 戯曲家の平田オリザによれば、演劇におけるリアルな描写には、まず遠いイメージから入り、「イメージのプロセス」を観客と共有することが必要である。そうでないと、観客は台詞を「説明的」だったり、「不自然」に感じてしまう。

平田オリザ,「演劇入門」,pp.14-20,講談社新書,(1998)を参照

他にも、たとえばココ(23話1コマ目)とかですね。

銀の気持ちがよく表れてる超重要な場面(と、個人的に思ってます)なんですけど、1ページ目の1コマ目に小さくあるだけで、サクッと流されてます。

ちなみに、このコマが掲載されている23話はこちら。

こんな感じでサラッと描かれているパターンがホントに多いです。
他にも、主人公の心情の変化を表すセリフは
『そっか。』
のひと言のみ。その後、行動やふるまいのちょっとした変化を見て、
「本人にとって転機となるすごく大きなできごとだった」
というのが、はじめてわかるといった具合です。
常に、必要以上に言葉で語らず、切り取った場面とそのつながりだけで物語が紡がれていきます。
言葉による説明ではなく、切り取られた行動やふるまいを見て、はじめて主人公たちの心情がわかる。この繊細な描写こそが、ぎんしお少々の醍醐味です。

そして、そんな繊細な描写を毎月8ページの4コママンガ連載にブち込んできた若鶏にこみ先生。恐ろしい子…!

個人的には、アニメ化した際に、アニメスタッフがこの繊細な作品をどう料理するかが楽しみです。アニメスタッフがこの作品をどう解釈し、アニメの尺で映像としてどう表現するのか。ワクワクが止まりません。しますよね?アニメ化?

ぎんしお少々はなぜカルト的な人気なのか

ぎんしお少々の特筆すべき点、その繊細な描写に着目すれば、ぎんしお少々がカルト的な人気に至ったプロセスが見えてきます。

まず、その繊細な描写ゆえの特性ですが、知らず知らずのうちに

ぎんしお少々の読者は、物語を読み取ることを強いられます

ここがこの作品の非常に巧妙なところで、「フィルム写真を撮る少女」、「かわいらしい絵」、「きらら4コマ」ってことで、ふわっと読みはじめてしまえるのですが、回を追っていくうちに、だんだんと繊細なカラクリに気がついてきます。

いや、作者の巧妙な罠(?)により「気づかされる」といった方が正確なのかもしれません。そして気がついてしまったが最後、描写の裏側を探るために、何度も何度も繰り返し読むはめになってしまいます。
このあたりが、

「ぎんしお少々はミステリ」

といわれる所以です。

そして、このミステリ?を読み解くうちに、

だんだんと快感を得てしまうようになる。

気がつかないうちに読むことを強いられ、強いられるがままに読み込み、気づきや発見に感動し快感を得て、そして、また読み込んでしまう。
これ、もはや麻薬なんですよね……。ドラッギーすぎる……。
そりゃカルト的な人気にもなってしまうの道理な訳で……。

気がつかないうちに読むことを強いられ、麻薬のような快感を得て、ハマってしまう。このプロセスは、何から何まで「スバル・ミヤモトのボレロを観た観客」と同じです(※参考文献:昴、第11巻)。これ以上に的確な比喩がないので、ぎんしお少々がカルト的な人気になったプロセスを深く理解した方はを読んでください。

ちなみに私は、連載中、発売日になった瞬間にFUZできららを購入し、読みはじめてなんとなく納得するのに小一時間かかってました。その後は、次回に備えて音読を繰り返すという。
なのに、後で読み返したり、SNSをみたりすると、まだ新しい発見があるんですよ!
こんなに咀嚼に耐えられるなんてスルメか何かなのかな??

連載終了時は、禁断症状がでている方々の阿鼻叫喚がSNSにあふれてました。篤見先生のコレとか……

おわりに

このnoteをここまで読んだ奇特なあなた!(いるの?)
ぎんしお少々はカルト的な人気になった理由を十分理解してくれたかと思います。
さあ、今すぐ、ぎんしお少々を読むのです、ぼくたち!
今、読めば、6/27発売の2巻を今か今かと待つことができます!
書き下ろしストーリーもあります!

連載作品の醍醐味は、「つづきを待つ時間」です。
あと3週間で、この機会は永遠に失われます。
時間がない!急げ!
ボクと、いっしょにぎんしお少々中毒になろうよ!

追記:
完結して1年以上経つ今もSNSでぎんしお少々のお話してる方々がいるんですよね。皆、まだ咀嚼してる。やっぱりスルメ……。
連載当時もSNSを見てて、ぎんしお少々は「東大や筑波あたりの理系の間でカルト的な人気のマンガ」くらいの認識はあったんですね。読者に研究ガチ勢多すぎ……っ(この記事を書くにあったって何かをみた)。きっと作品の魅力が惹きつけてしまうのでしょうね。咀嚼するのが好きな人を。
真実はきらら編集部のみぞ知る……。

(おまけ)ぼくの考えるぎんしお少々

ここからは、さらに個人的な感想(というか自分用メモ)です。

◆ぎんしお少々は写真だった

今までに言ってきたようなことを考えながらぎんしお少々を読んでいるうちに、ふと、ひとつの疑念が生まれました。

ぎんしお少々は、作品自体が写真なのでは?

その気づきを与えてくれたきっかけは、ロラン・バルトの「明るい部屋 ― 写真についての覚書」です。本書はフランスの思想家、批評家であるロラン・バルトが、写真の本質を現象学的な方法で明らかにしようとした写真論です。

若鶏にこみ先生が自ら「15%くらいぎんしお少々」と言い放った「明るい部屋」を引用しつつ、以下、「ぎんしお少々=写真」と妄想した理由を綴っていきます。

◆理由1:写真は、言葉にすることができない

「ぎんしお少々=写真」を説明するには、両者の本質を理解する必要があります。
写真の本質について、ロラン・バルトは次のように述べています。

「写真」は絶対的な「個」であり、反響しない、ばかのような、この上もなく「偶発的なもの」であり、「あるがままのもの」である(ある特定の写真であって、「写真」一般ではない)。要するにそれは、「偶然」(Touché)の、「機会」の、「遭遇」の、「現実界」の、あくことを知らぬ表現である。
(中略)
[仏教でありのままの現実を表す『如実』の『如』という語は、] 幼児が何かを指して「ダー、ダー、サー」と片言を言う、その身振りに通ずる。写真には、常にそうした身振りがともなう。写真は、「ほら、これです、このとおりです!」というだけで、ほかのことは何も言わない。写真は哲学的に変換する(言葉にする)ことができない。

Roland Barthes(著),花輪 光 (訳),「明るい部屋―写真についての覚書 」,pp. 9-10,みすず書房,(1997)([]カッコ内は引用者が要約)

ロラン・バルトによれば、写真は、ただ偶発的に写されたものをありのままに表すだけで、自ら言葉に置き換えることはできないものです(写真を見た人が説明するということはできる)。

完全に一致しているんですよね、ぎんしお少々と。
これまでに述べたとおり、ぎんしお少々も、偶発的に切り取られた(ように見える)場面をありのままに描くだけで、過度に言葉で説明することをしていませんでした。ぎんしお少々という作品自体が、写真の本質を備えて表現されています。つまり、「写真の本質を作品のテーマに据えつつ、作品自体に写真の本質を備えさせる」という二重性を持った作品。それが、ぎんしお少々、ということになります。

この点だけでも、「ぎんしお少々=写真」と結論づけるには十分でした。ですが、ぎんしお少々のモチーフとロラン・バルトが示す写真の本質との間には、他にも多くの共通点があります。以降の節に、その例をいくつか示しています。

◆理由2:写真は、時間を切り取る

ぎんしお少々では、「写真が今、その時を切り取る」というモチーフが繰り返し出てきます。ロラン・バルトは、それを写真の本性の基礎をなすもの、ポーズと呼んでいます。

つまり、「写真」の本性の基礎をなすもの、それはポーズである、と。そのポーズの物理的な持続は大して問題ではない。
(中略)
というのも、ここで言うポーズというのは、撮影対象の姿勢のことでも、「撮影者」の技術[露出(ポーズ)]のことでもなく、写真を読み取ろうとする《志向》の終点にあるもののことだからである。一枚の写真を眺めるとき、私は視線のうちには宿命的にある瞬間についての思惟が含まれている。その瞬間には、どれほど短いあいだであっても、ある現実のものが目の前でじっと動かずにいた。私は写真の現在の不動状態を過去の撮影の瞬間に転嫁するのであって、ポーズを構成するのはまさにそうした停止である。

Roland Barthes(著),花輪 光 (訳),「明るい部屋―写真についての覚書 」,pp. 95-96,みすず書房,(1997)

写真は目の前の現実の瞬間を切り取ったものであり、シャッターが捉えた(ときによってはゼロに近い)ほんの一瞬の不動状態を、ロラン・バルトはポーズと呼んでいます。そして、このポーズこそが、写真からそれが撮られた場面を情景として読み取る際のスタート地点(すなわち「写真を読み取ろうとする《志向》の終点」)になります。
ぎんしお少々では、主人公たちがこのポーズを切り取ってカメラという箱につめ、積み重ねたり、伝えたりします。アニメ劇場版(?)でこのあたりが深く掘り下げられるのを期待してます。きっと来ますよね、そんな日。このあたりの具体例はネタバレになってしまうので気になる方は観念して読んでください

◆理由3:写真は、時間を越えて伝える

「写真が、時間を越えて伝える」ということも、ぎんしお少々に繰り返し出てくるモチーフです。これに関しては、ロラン・バルトは次のように述べています。

(前略)そのときはじめて「写真」のノマエ《それがかつてあった》が存在し得たからである。写真とは文字通り施工対象から発出したものである。そこに存在した現実の物体から、放射物が発せられ、それがいままことにいる私に触れにやってくるのだ。伝達に要する時間は大して問題ではない。消滅してしまった存在の写真は、あたかもある星から遅れてやって来る光のように、私に触れにやって来るのだ。

Roland Barthes(著),花輪 光 (訳),「明るい部屋―写真についての覚書 」,pp. 99-100,みすず書房,(1997)

写真を見るとき、写された「今、この瞬間」が、遅れて、目の前にやって来る。先程の「時間を切り取る」性質と、この「時間を越えて伝える」性質は関係が深く、「明るい部屋」ではそれぞれ33章「ポーズ」、34章「光線、色彩」の中で続けて語られています。

ぎんしお少々の中でも、この二つの性質をモチーフにしてた描写が多くあります。今、この時をカメラで切り取り写真に込める。時間や場所を越えて、それを誰かに伝える。撮るという行為を通じて、誰かとつながる。まるで写真の本質が、そのまま物語を紡いでいるようです。
是非とも作品を読んで確認してもらいたいですが、一つだけきらら編集部のツイートした場面を例として示しておきます。

◆理由4:写真の「細部」が引きつける

ロラン・バルトは、具体的な写真の数々を挙げて写真の持つ本質を探る中で、次のように述べています。

ごく普通には単一のものである写真の空間のなかで、ときおり(といっても、残念ながら、めったにないが)、ある《細部》が、私を引きつける。その細部が存在するだけで、私の読み取りは一変し、現に眺めている写真が、新しい写真となって、私の目にはより高い価値をおびて見えるような気がする。そうした《細部》が、プンクトゥム(私を突き刺すもの)なのである。

Roland Barthes(著), 花輪 光 (訳),「明るい部屋―写真についての覚書 」,pp. 57,みすず書房,(1997)

これ、単なる強火のぎんしお少々勢の感想なのでは?と、疑いたくなるような文です。

ロラン・バルトは、写真の《細部》=プンクトゥムを写真の重要な要素ととらえ、その《細部》を注視することによって写真の核心に迫ろうとします。これは、ぎんしお少々の《細部》を注視することによって、ぎんしお少々の核心に迫ろうとする読者と完全に一致します(SNSにいっぱいいる)。

このことからも、ぎんしお少々と写真の本質が良く一致することが見て取れるでしょう。
ロラン・バルト、強火のぎんしお少々勢だった?

◆ぎんしお少々は、やはり写真だった

ここまでで、

ぎんしお少々は、作品自体が写真なのでは?

という疑念は、

「ぎんしお少々=写真」だった!

という確信に、完全に変わっていることでしょう。
ありがとう、ロラン・バルト。ロラン・バルト、ありがとう。

ただ、先程の若鶏にこみ先生の発言を思い出してください。

そうです。
あくまで「ロラン・バルトの『明るい部屋』は15%くらいぎんしお少々」です。
あと85%残ってます。
マジか……(ここまでで7000字近い)。

実は、まだ書ききれてないことは山ほどあります。たとえば、撮影者に関する洞察は、明るい部屋よりもぎんしお少々の方が深く描写されています。
ぎんしお少々の一番メイン(?)のモチーフにもまったく触れていません。2巻の帯にあった「失敗も好きになれる魔法。」の一文(誰が選んだんですか?素敵✨)。「失敗」についてです。失敗はおしまいなのか、本当にダメなことなのか。それが物語のなかで、ふんわりと問いかけられ、やんわりと答えられています。このDiana F+の写真映りのようなやわらかさが、なんともぎんしお少々らしいです。

また、ぎんしお少々は描き文字の描写が極めて優れています。
この話をはじめるともう10000字増えてしまうので詳しくはしませんが、若鶏にこみ先生は当代随一の描き文字家と、自信を持って推せます。
ちなみに好きな書家を3人挙げろと言われたら、
空海、王羲之、若鶏にこみ先生
と、迷いなく答えます。
この話は、今度、どこかで……。
あと芳文社さんは「若鶏にこみ集字集」を出してください……。いや、出させてください……。なんなら全部選ばせてください……。

ほかにも、美味しそうなクリームソーダの繊細な描写だったり、日暮里の話だったり、成田山の話だったり……したい……ですが、無理矢理まとめに入ろうと思います(7000字超えちゃったし)。

ぎんしお少々は、偶発的に切り取られた(ように見える)場面を、過度に言葉で説明をすることなくありのままに描いた作品である。これらの特徴は写真の本質そのものであり、「写真の本質を作品のテーマに据えつつ、作品自体に写真の本質を備えさせる」という二重性を持った作品になっている

これが、これまでに述べた内容のまとめです。

最後に、写真と本質的に異なる部分について強調しておきたいと思います。
「偶発的に切り取られた(ように見える)」という箇所です。この箇所は、正確にいえば、「偶発的に切り取られたように見えるくらい自然で意図的な説明がない描写を、作者が意図的に無から創造している」といえるでしょう。写真の本質的な要素を備えて切り取った世界を創造し、写真の本質的な要素を備えて表現した。これは、物語の創作であるとともに、表現の創作でもあります。

こんな、哲学的な実験を、これらを若鶏にこみ先生が意図的にやったのかは、定かではありません(聞いてみたいところではありますが)。
もし意図的だとしたら、ロラン・バルトの現象学的な議論を、表現者の視点を加えた一段上の枠組みから再構成し、毎月8ページの4コママンガ連載に当て嵌め、結果として写真の本質をテーマにした作品を写真そのものとして表現するという、二重性を持った作品を生み出したことになります。

意図的でないとしたら、写真というテーマに対しフランスの著名な思想家であるロラン・バルトと同等の深い洞察力を持ち、その洞察をもとに、写真の本質をテーマにした作品を写真そのものとして表現するという、二重性を持った作品を描いてのけた(結果、たまたまロラン・バルトの写真論と一致してた)、ということになります。

おわかりいただけたでしょうか。
つまり、意図的、意図的でない、どちらだったとしても、とても信じられないような奇跡のような所業を毎月8ページの4コママンガ連載にぶっ込んできてたのです。

この驚き、伝わったでしょうか。

これが、私がぎんしお少々を説明しようとして、
「ガチでヤベェ……(いっぱいちゅき♡)」
以外の語彙を失う理由です。

ここまでガッツリ読んだ方は(絶対にいないと思いますが……)は、お気づきだと思います。私が冒頭で言っていた、

何がヤバいかって、作品もヤバいんですけど、読んだ人の感想がヤバいんです。

はい、コレ、完全に盛ってます。いや、逆か。過小に書いてます。
「記事がたくさん読まれたら、万が一にでも、ぎんしお少々続編!とか、ならないかな……」
という欲で、キャッチーな出だしにしただけでです(キャッチーとは?)。
読者よりも、ぶっちぎりで作品の方がヤバいです。読んだ人の感想は、たんなる当然の帰結した。

以上が、私が考えるぎんしお少々の解釈です。いかがでしょうか。

「ぎんしお少々は神がかっておもしろくて読みごたえがあるし、若鶏にこみ先生は本当の本当にすっごくすごい。」

という2行で済んでしまいそうな感想を、少しでも伝えたくて、伝えたくて……もう……何千文字も……書いてしまったよ………!

賛同、異論、反論、なんでも歓迎!
みんなも限られた素材で、君だけの「ぼくの考えるぎんしお少々」を作ろう!!!(プレゼンがヘタクソ)
そしてSNSで共有してくれ!
私は、この咀嚼しても、咀嚼しても、咀嚼しても、無尽蔵に味が染み出してくる狂喜と狂気の傑作を、他の人がどう味わってるのを見たいんだ!

最後に、みんな、ぎんしお少々、読もうぜ!
若鶏にこみ先生、すばらしい作品をありがとうございました!


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