見出し画像

三上山下古墳についての一考察

現在、野洲市歴史民俗博物館(銅鐸博物館)で企画展『四面の鏡-海を越え、つながる王-』を開催している。COVIDの蔓延で開催が2年延びたが、無事開催できて良かった。
メインとなるのは、九州国立博物館が所蔵する「三上山下古墳出土鏡」2面。同型鏡が群馬県綿貫観音山古墳と韓国の武寧王陵から出ている。その里帰り展である。
この展示で気になったのは鏡の由緒。三上山下古墳という古墳は実在せず、大岩山古墳群の一基の甲山古墳のことと考えられている。築造時期から見て妥当と思われるが、この古墳は大岩山の麓にあって、三上山の麓ではない。また、三上という字は存在するが、そこにあるわけでもない(字三上は三上山麓)。

三上山下古墳に比定される甲山古墳

甲山古墳の名称がいつ頃まで遡るかは調べてみないとわからないが、なぜ甲山古墳出土ではなく、存在しない「三上山下古墳出土」と伝えられてきたのだろうか。
百済武寧王陵は6世紀前半の造営で、武寧王陵出土鏡と同型鏡を持つ古墳は武寧王陵と並行する時期かそれ以降の築造となる。綿貫観音山古墳は6世紀後半の築造で、その条件を満たしている。甲山古墳は6世紀中頃の築造なので条件を満たしているが、綿貫観音山古墳より古いのが気になるところである。

武寧王陵

そこで、より三上山に近いところで6世紀中頃〜後半かつ首長墳と見られる独立して築かれた古墳を探すと、三上山からはやや遠いが、塚越古墳が見つかった。甲山古墳が直径30m、塚越古墳が直径18mなので規模にかなり差があるが、塚越古墳は独立墳なので間違いなく首長墳である。時期は6世紀後半〜7世紀で、綿貫観音山古墳とほぼ並行する。三上山の麓にあるわけでははないが、三上山を近くに望む立地であることを考えると、「三上山下古墳」の候補にふさわしいのではないかと思われる。
この古墳は範囲確認調査しか行われておらず、副葬品は知られていない。そのため、武寧王陵出土鏡の同型鏡が副葬されるにふさわしい古墳かどうかは現状不明であるが、「三上山下古墳」という出土地伝承が正しいとすると、その有力候補と言えるのではないかと思う。ただ、現状は思いつきの域を出ない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?