親魏倭王(元学芸員:考古学)

猫と推理小説が好きな元学芸員。専門は考古学ですが、歴史全般に関心があります。 ここでは…

親魏倭王(元学芸員:考古学)

猫と推理小説が好きな元学芸員。専門は考古学ですが、歴史全般に関心があります。 ここでは論文化しづらいネタと読書感想文を忘備録的にまとめていこうと思います。 2024.2.26 退職に伴い、一部記事を有料化しました。今後、投稿する記事も有料の場合があります。 (1記事500円)

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自己紹介兼仕事依頼

はじめまして。親魏倭王といいます。 天理大学文学部卒、学芸員と司書の資格あり。専攻は日本考古学(主に古墳時代)。埋蔵文化財調査および博物館学芸員として10年程度のキャリアがあります。論文執筆経験あり(査読付き論文はなし)。趣味は読書と博物館・美術館巡り。人文書と推理小説が好きです。滋賀県在住、京阪神を主なフィールドにしています。 正職員4年目にして、環境の変化からうつ状態になり、休職期間満了につき退職。休職中からnoteに記事の執筆を開始。主に人文書の書評と歴史系のコラム

    • 考古学小話集②

      【古墳の見栄え】 古墳について、広瀬和雄先生は「古墳には見せたい方向があり、見せたい面は見栄え良く整形されている」と指摘している。 例えば、奈良県天理市の西殿塚古墳は斜面に築かれているが、平野側の見栄えを良くするため段築が一段多くなっている。 古墳がモニュメントであることをよく表す例である。 逆に、見えないところは手を抜くこともあり、私が発掘調査に参加した大阪府堺市のニサンザイ古墳は、墳丘裾部の調査で石材が少ししか出土しなかったため、周濠の水で隠れる墳丘第1段目は葺石を省いた

      • 民俗学小話集⑤

        【五月豆を栽培しなかった話】 昔、天城のある部落では五月豆を栽培しなかった。村の産土神が豆嫌いだといい、他所から移り住んだ人が育てようとしてもうまく育たないという。しかし、太平洋戦争の戦局が悪化し、食糧不足が深刻になると、「豆を栽培しないのは国策に反するのではないか」との考えから産土神に参籠して祈願したところ、無事に栽培できるようになったという(『天城の史話と伝説』より)。 五月豆というのは聞き覚えがなく、どんな豆か気になって調べたところ、そら豆のことらしい。収穫時期に由来す

        • 反知性主義と陰謀論的なものの親和性ほか

          最近、読書離れが叫ばれるようになってから、デマ等に振り回される人が増えたような気がする。反ワクチン、自然派、スピリチュアル系が影響力を持つようになったのは科学技術に対する不信感が根底にあるのだろうが、反知性主義(反アカデミズム・反エリート≒大衆主義)の蔓延が一因のような気もする。反ワクチン、自然派、スピリチュアル信者は親和性が強いのだが、自分の見立てでは勉強法が受動的という共通点がある。多くは動画による学習で、洗脳的刷り込みの様相がある。他にも読んだ本の内容をクロスチェックせ

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        • 親魏倭王の小話集
          15本
        • 親魏倭王の雑感
          18本
        • 親魏倭王の仕事と経験
          11本
        • 自分語り
          4本
        • 親魏倭王の本の話題
          12本
        • 歴史の小箱
          23本

        記事

          中国史小話集⑤

          【董允と費禕の逸話】 諸葛亮、蔣琬とともに蜀漢を支えた董允と費禕は仲が良かった。 ある時、董允の父の董和が、どちらが優れているか試そうと、二人が一緒に外出する際にわざと粗末な馬車を用意した。すると、董允は露骨に嫌な顔をしたが、費禕は意に介さなかった。それを見た董和は、費禕のほうが優れていると思ったという。 ある官職に就いていた頃、費禕は朝夕のみ仕事をして、日中は人に会ったり酒を飲んだりしていたが、仕事を滞らせたことはなかった。後任になった董允が費禕のマネをしたところ、数日で仕

          中国史小話集④

          【周王朝概説】 周は中国の歴代王朝で最も長く続いた王朝だが、異民族の侵入で一度滅亡している。その後、都を移して再興されるが、都の位置から滅亡前を西周、再興後を東周という。 周は親族や有力家臣に各地を分割統治させる封建制を採っていたが、東周後期になると周王室の権威は弱体化し、各封国がそれぞれ力を持つようになる。この時期は前後期に分かれ、前期を同時代の歴史書から「春秋時代」と呼ぶ。この時期は各封国の君主がリーダー「覇者」を目指した時代であった。 時代が進むと弱肉強食の風潮が強くな

          遺跡動態の捉え方

          自治体史などでは特定の市区町村の歴史を記述する関係上、遺跡の動向をその自治体内で完結させている場合も多い。しかし、郡単位や水系で遺跡の動向を捉えないと遺跡の集中する地域が自治体内で極端に離れている場合など、説明しづらい場合がある。以下、思うところを書いてみる。 市町村史編纂の過程で、遺跡分布から先史〜古代の状況を語ることは多いと思う。ただ、市町村史は各市町村の歴史を現在の行政区画に沿ってまとめるのが目的なので、個人的に視野狭窄に陥りやすいのではないかと懸念する。 例えば、あ

          民俗学小話集④

          【百鬼夜行の話】 妖怪は夕暮れ時(黄昏時)、幽霊は深夜(丑三つ時)に現れるものとされる。以上は柳田國男の分析だが、例外もあり、百鬼夜行は深夜に出現したようである。 『拾芥抄』によると百鬼夜行が現れる日は決まっていて、この日に出かけなければならないときは「カタシハヤ、エカセニクリニ、タメルサケ、テエヒ、アシエヒ、ワレシコニケリ」という呪文(和歌)を唱えれば百鬼夜行に出会わないとされた。 なお、密教の「尊勝陀羅尼」を記した護符を身に着けていると危難に遭わないとされ、藤原常行が着物

          中国史小話集③

          【張楊のこと】 張楊は中国・東漢(後漢)末期の軍閥の一人である。 霊帝の時代から武勇で知られ、何進に仕えた後、独立した。献帝が長安から逃れてくると、献帝を奉じて洛陽に赴こうとしたが、諸将との仲が悪く果たせなかった。 建安元年、押し入った賊に殺害された。家臣の楊醜に殺害されたという説もある。 張楊は『三国志』に立伝されているが『後漢書』には立伝されていない。『三国志』は曹操を魏の初代皇帝としているので、曹操と関係があった軍閥の多くが『後漢書』と重複して立伝されているが、張楊は曹

          民俗学小話集③

          【赤飯と魔除け】 その昔、ある男が山道を歩いていると、「首吊らんか」という声がしたので、男は「帰りに吊るから待っててくれ」と言ってしまった。目的地についたのは昼で、そこで赤飯をご馳走になった。帰り、声がしたところに来ると、別の人が首を吊っていた。以後、赤飯は魔除けになると言われるようになった。 奈良県の伝説である。私も母から「赤飯は見逃すな」と言われて育った。赤飯は魔除けになるので、振る舞われたらかならず食べるべきなのだという。そのためか、コンビニで赤飯おにぎりを見つけるとよ

          中国史小話集②

          【外戚と宦官】 中国の東漢(後漢)は外戚と宦官の権力争いが終始続いた。理由は、幼帝が続いたことである。皇帝が幼いと外戚が後見人となり、その権力を利用して専横を極め、それを排除するために皇帝は宦官を利用した。それが繰り返され、宦官と外戚の対立が常態化したが、最後は何進暗殺→宦官皆殺しと共倒れになった。 後漢末は十常侍と呼ばれる十人の宦官が権力を握っていた(中常侍という役職に就いており、実際は十二人いた)。その筆頭が張譲、趙忠、段珪らである。彼らは霊帝の崩御後、後継を巡って外戚の

          考古学小話集①

          【4世紀の纏向遺跡の中枢部】 纒向遺跡の中枢部は、4世紀になるとそれまで中枢部があった辻地区から、より山手の巻野内地区へ移る。珠城山古墳群の北側である。ここでは区画溝が検出されているが、吉野川分水の工事中に柱根と思しき丸太が大量に出たという証言があり、居館があったのは間違いなさそうである。吉野川分水の工事に先立ち発掘調査が行われなかったのが悔やまれる。 付近には垂仁天皇の纒向珠城宮、景行天皇の纒向日代宮伝承地の碑があるが、4世紀代であれば垂仁・景行両天皇の在位時期と合致し、纒

          民俗学小話集②

          【清水の舞台から飛び降りる話】 「清水の舞台」で知られる清水寺は観音信仰の霊場として有名だが、ここには満願の日に舞台から飛び降り、無事なら大願成就、もし死んでも補陀落浄土へ往生できるという信仰があり、多くの人が飛び降りたらしい。そのためたびたび禁令が請願され、飛び降りないよう舞台を竹矢来で囲ったりもしたという(ちなみに、木に引っかかるなどしたのか意外と生存率は高く、八割くらいの人は助かっているらしい)。 この言い伝えから出た話だと思うのだが、次のような昔話がある。 昔、甲斐性

          中国史小話集①

          【陳勝・呉広の乱と秦の滅亡】 始皇帝没後に起きた陳勝・呉広の乱は中国史上初の農民反乱で、秦のガチガチすぎる法治による締め付けが原因と考えられる(あまりにも法が厳しく、役人たちは自分が法を犯さないかどうかに気を取られ、民のことまで気が回らなかったらしい)。 この乱は官軍の将軍・章邯の活躍もあり、すぐに鎮圧されるが、戦国時代の各国の王族らが呼応し、群雄割拠の状態となる。そんな中、楚の項羽が中心となって秦打倒のうねりが起きる。そして、諸侯らの支持を受けた劉邦と、覇権を握る項羽の一騎

          歴史小話集①

          【『日本書紀』考】 『日本書紀』の「紀」について、三浦佑之先生は中国の紀伝体歴史書における「本紀」を指すのではないかと考察しておられる。つまり、『日本書紀』とは『日本書』の「紀」、本紀であり、当初は中国の紀伝体歴史書に倣った『日本書』が構想されていたのではないかと。しかし、列伝は編纂されず、結果的に「紀」だけが完成して『日本書紀』と呼ばれるに至ったことになる。 三浦佑之先生は合わせて、『風土記』は『日本書』の「地理志」編纂の基礎資料とする想定で編纂されたと見られていて、一理あ

          反知性主義と陰謀論の関係を考えてみた

          以前、反知性主義について考えたことがある。反知性主義の特徴は、名称の通り知性、知的活動への敵対と嫌悪である。反知性主義について書いたnote内でも指摘したが、本離れ、活字離れもそうした反知性主義の影響ではないだろうか。

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          反知性主義と陰謀論の関係を考えてみた