記事一覧
「雑誌を作っていたころ」アップを始めます。
自伝「雑誌を作っていたころ」について自分の出版人生のうち、前半は雑誌編集者だった。
後半は書籍編集者、ライターの仕事が多くなり、それでも少しは雑誌の仕事をしていた。
最近はというと、商業誌の仕事はほぼなくなり、広報誌の仕事が少しあるくらいだ。
それでも、やはり雑誌づくりはおもしろい。なんといっても「雑」なのだから、なんでもありの部分が楽しくて仕方がない。
そんなわけで、自分の半生を雑誌づくりの面
雑誌を作っていたころ078
新谷のり子さんのインタビュー ぼくらの年代の人なら、「新谷のり子」という名前を聞けば、「あ、『フランシーヌの場合』の人ね」とすぐピンとくるはずだ。80万枚の大ヒットを記録した「フランシーヌの場合」は彼女のデビュー曲。1969年3月30日、ベトナム戦争に抗議してパリで焼身自殺をしたフランシーヌ・ルコントのことを歌った反戦歌である。温熱療法の会報誌で、ぼくはこの人をインタビューすることになった。
雑誌を作っていたころ069
「開業マガジン」の落日 会社の倒産が決定する瞬間とは、経営者が「もうダメだ」と思ったときだという。
「開業マガジン」の廃刊も、ぼくが「潮時だな」と思った瞬間に決まったといえる。
これが大手や中堅の出版社だと、編集部に営業部、広告部がそれぞれの意見と利害をぶつけ合って、ごたごたの末に結論が出るのだと思うが、こちらは零細出版社だから独裁でことが決まる。その点は楽だともいえるが、誰に責任を押しつけ
雑誌を作っていたころ067
アメリカ出張 多田さんの鞄持ちとして、2000年と2001年にアメリカに出張した。東京電力に依頼されたレポート作成の仕事だったと記憶している。ぼくはそれまでヨーロッパには何度か出張していたが、アメリカ本土はこれが初めてだった。リコーのデジカメで張り切って写真を撮りまくったのだが、残念なことに帰国後しばらくしてコンピューターのトラブルと勘違いによるミスでほとんどの写真が失われてしまった。
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雑誌を作っていたころ065
コールセンターの世界悠々社にはいろいろな「社友」がいたが、コールセンター界の大御所・多田正行氏もその1人だった。そもそも「開業マガジン」第1号の座談会に出席してもらった縁で知り合ったのだが、やがて多田さんは悠々社に居着いてしまった。それまで居候をしていたコールセンターの会社に飽きたようで、ちょうど悠々社を辞めた高田さんという女性の席が空いていたので、そこを使ってもらった。
多田さんには「開業マガ