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人情カレー旅

ボスがさ、この店のオーナーがさ、そう言ったからおれはちょっと言ってみただけさ。
友達だろう、おれ自身はそんなこと言いたくなかったんだごめんよ、ブラザー。

恰幅のよい大男が眉毛をへの字にして困った顔でヘコヘコする。
頭の上で引っ詰められたカールした髪の毛がヘコヘコの度にチャーミングに揺れる。

でも私はなんとなくわかっている。海の家で金庫の横にどっかりと座って注文票を束ねているこの大男自身がここの「ボス」だし「オーナー」だろう。

スリランカの田舎の海岸。
穏やかな波、白くて暖かい砂の上にパーゴラが立っていて、なにやら植物で作った南国ムード満載の屋根が作り込んである。絶妙な角度で足を伸ばして座れるベンチに、トロピカルジュースを乗せるのにちょうどいい丸テーブル。ここに座って椰子の木の囁きに耳を澄ませれば理想の休暇が完成することだろう。このロケーションで充電を済ませれば、ここからまた数年は日々の喧騒に戻ってせかせかと頑張れそうな予感がする。

そんな特等席にどうしても荷物を置いてほしい。せっかくだしくつろいで行ってよ。日本円にして8,000円で済むから。そんなに長居しないなら半額でいいよ。そんな交渉を大柄オーナーから持ちかけられた。

我が家の荷物は温かい砂浜に直置きされている。
実は外国の田舎の海岸は慣れている。
携帯電話とわずかな現金をジップロックに小分けにしてあらゆる水着の隙間に仕込む。
貴重品は砂浜に残さないようにして子供二人と夫婦計4名フルメンバーで全力で入水して遊ぶ。時々ビーチサンダルを盗まれる時があるが、まあホテルまでは裸足で帰ってもオッケー。それが我が家のスタイルだ。

欧米からの観光客からすれば日本円の8,000円は理想の休暇ベンチの利用料金としては安いものなのだろう。でもごめんよブラザー、ワタシたち日本から来た。悲しいかな自国の通貨が安すぎるんだ。理想の休暇ベンチの奥にある君の海の家のレストラン、昨日もそこでカレーを食べてとんでもなく美味しかったから、お腹いっぱい食べるって約束する。だから荷物についてはそっとしておいてはくれまいか。

大柄オーナーははにかみながら了承した。
そうだよ、昨日も来たから覚えてる。友達だよなぁ、ブラザー。
そういうことなら注文しておくれ。ご飯ができるまで海で遊んでいていいよ。
出来上がったら呼びに来るから。

強烈に押し売りしてくるわけではない、自分のいい顔を保ちながら、嫌われないようチャームを全面に押し出しつつ商売しようとする姿。交渉中は終始お互いに笑顔だ。初めましての人と人が相手を慮りながら落とし所を探す交渉。スリランカではこんな心地良いやりとりが多かった。

たっぷり1時間波と戯れて喉が渇いた頃、カレーができたよと大柄オーナーが手を振ってくれた。

この日はイカのカレーとカニのチャーハンとバナナチョコパンケーキとココナッツジュース、それにビールを注文した。

イカのカレーはイカ墨やわたを無駄なく使った旨味たっぷりのカレー。凝縮された旨味と磯の香りをまとめあげる巧妙な配合のスパイス。前日に同じ場所で振る舞われたえびのカレーよりうんと辛かったのは、連日やってきてうまいうまいと大喜びのわたしたちへの愛情だろう。

米の減りが早い。
完全にライスコントロールを間違っている。
正直毎日暑くて食欲は出ないが、なぜかカレーを前にするとおかしくなってしまう。
うずたかく積まれた米の山をザックザックと切り崩しながら口に運ぶのはもはや快感とも言える。
スパイスをふんだんに使ったカレーにはこの地で元気に生きていくための知恵が詰まっているのだろう。そのうちに米のおかわりが盛られた。小皿に盛られたおまけカレー付きだ。一瞬エンドレスカレー&ライスループに入ってしまったかなと不安になった。

時折ぬるいココナッツジュースをチューチューしながら、汗と涙に紛れながら無事に完食した。

帰国して数ヶ月経つが、日常のふとした瞬間に、あの人情とカレーをもう一度体験したくなる。

目に映ったあらゆる風景を忘れまいと反芻する。
砂ぼこりの向こうに果てしなく広がる草原も、我が物顔で道路の真ん中を歩いている野良牛も、トゥクトゥクのおじさんの丸い背中も、思い出す度に心がほどける。

飛行機で9時間のところに、恋しい場所があるって幸せなことだ。

#わたしの旅行記

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