🔵本の読み方について／追いつめられているKに代って。

ある暑い夏の日、神奈川県・大和のアトリエでKは山本直海のモデルをしていた。

お前みたいな駄目な奴を、一度、モデルにしたかったんだ。
駄目な奴？Kは苦笑いのような表情を浮かべて「大和駅からの道、分かりにくかった。タクシーも迷ったよ。」
普通、俺は女しかモデルにしない。だから特別なんだぞ。ほら珈琲…インスタントだけど…
ネスカフェなら…。カップを手にKは「ここに坐ればいいのか？」
勝手に坐わり珈琲を飲みながらKは、きょろきょろしていて、そしてほどなく、かっくり頭を落として転た寝をはじめた。
しょうがねぇな。
寝ていると思ったKから「どんな絵を描きたいんだ」と声がした。
「そんなの描いていかないと分からない。俺が描くんじゃない。お前が描かせるんだ、絵ってそんなもんだろ」

死絵にしてくれるなら、モデルになっても良い。それがKの条件だった。
がっくりおちた首が、少し動くたびに位置を違えている。
やりにくいな…。それでも、重ね描きをしているうちに［斬首のピエタ］がみえてきた。首は髑髏になっている。でもリアルにKの頭蓋をトレースしている。悪くないかも、この死絵、おれは、ピエタにするな。

小一時間もするとふと目を覚まして
動いていいか？
良いよ休憩にしよう。
コーヒーを入れ直して、俺はKからまた話を聞こうとしていた。二つ年下。大学の時俺は準硬式野球をやっていた。聞けば、奴は高校で硬式野球をやっていた。話が会う。しかしながら今日はKは昔話にのってこなかった。少し鬱いでいる。
突然。
変身のグレーゴル、何で死んだ？と思っている。カフカ特集の時、『変身』も絵にしてたよね。
親父に投げつけられた林檎で死んだだろ。俺を試そうとしているのか？ちゃんと読んでいるよ。
まぁそうだけど、直接には餓死だよね…あるいは絶望死か自殺かな…Kは相変わらず人を煙に捲くような感じで喋っていた。

『変身』の死ぬシーンはこんな感じ…。
妹がね「このままじゃ、やってけないよ。お父さんやお母さんにはわからないかもしれないけれど、私にはわかる。この怪物の前じゃ、お兄さんの名前、口にしないことにする。だから、はっきりと言うけど、お払い箱にしなきゃ。」そして叫ぶ「出てってもらおう。それしか方法がないよ、お父さん。あれがグレーゴルだって思うのを、やめるだけでいいんじゃないかな。そんなふうに思ってたことが、そもそも不幸のはじまりなんだ。でもどうして、あれがグレーゴルなの？…」（丘沢静也訳）

――『変身』では、家族は虫になったグレーゴルを名前で呼び続けている。妹が名前を呼ぶのを止めようといった、その夜、夜といっても午前三時だけど、そこで死ぬんだ。人じゃないと認定され、家族じゃないと思われて、あ、生きていけない…という死だよね。
Kはそう断言した。

家族のことを、感動と愛情をもって思い返した。グレーゴルは消えなければならない。もしかしたら自分のほうが、妹より断固としてそう考えていたのかもしれない。～塔の時計が朝の3時を打った。窓の外が明るくなりはじめていくのは、まだ分かっていた。それから頭が勝手にガックリくずれおれた。鼻の穴からさいごの息が弱々しく流れ出た。（丘沢静也訳）

――ね、絶望して死んでるでしょ。Kが言った。始めようかな。Kはまた椅子に坐って姿勢をとった。
ぼそっと、
――壁に何があったか覚えている？絵がかかっていたんだけどさ。
どこの壁？パラボリカ？
いや、グレーゴルの部屋。
何かかかっていたって？
絵描きだから気になったかなと思って。
…
おい、寝るなよ。今度は起きてるところを描きたい。
Kはお構いなしに転た寝をはじめた。
ったく何しに来たんだよ。

+
あれから何年経ったんだ？
大丈夫かK。だいぶ追いつめられているようだけど。
そうしたら、グレーゴルの壁の絵が気になり出した。文庫をとり出して読みはじめる。もちろんカフカ。
光文社古典新訳文庫。丘沢静也訳。

ザムザはセールスマンだった。＿＿＿＿机の上の壁には絵がかかっている。ちょっと前、絵入雑誌から切り取って、かわいい金縁の額にいれたやつ。描かれているのは、毛皮の帽子と毛皮の襟巻き（ボア）をつけた女。背中をすっと伸ばしてすわり、ずっしりした毛皮のマフをこちらに突き出している。腕が、ひじまですっぽりとマフのなかに隠れている。（33）

⊿
ある朝～起きて、部屋の様子が描かれるが、そこでの記述。研究者の一人は、裸の女性だと言っている。マゾッホの本をカフカが読んでいたと…。で、マネージャーが来て、母親が必死に起きてこないグレーゴルをかばうトークだな…。

仕事のことしか頭にない子なんです。夜なんかまったく出かけないので、あたしのほうがいらいらしちゃうほどでして。この一週間だった、この町にいるのに、毎晩、家にいるんですよ。～糸ノコさわってりゃ、うれしいんです。先日も2晩か3晩で小さな額縁こしらえたんです。びっくりするほどきれいな額縁で、自分の部屋にかけてます。グレーゴルがドアを開けたらすぐにわかりますよ。

⊿
後半ちょっと前に母親と妹がグレーゴルの部屋から、荷物をみんな運び出してしまおうとするシーンがある。この時最後に残されたものが…

なにを救うべきか実はわからなかった。そのとき、すっかり裸にされた壁にただひとつ残っているものに気がついた。毛皮ずくめの女の絵だ。急いで這ってあがり、からだをガラスに押し付けた。ガラスがしっかり受けとめてくれる。熱くなっているお腹にガラスが気持ちいい。少なくともこの絵は、いまグレーゴルがおおいかぶさっているこの絵だけは、誰からも取り上げられないはずだ。
～グレーゴルにはよくわかった。母親を安全な場所に移してから、グレーゴルを壁から追い払うつもりなのだ。おお、やれるものならやってみろ。この絵は抱きしめて、手放さないぞ。手放すくらいなら、グレーテの顔に飛びついてやる。
――絵を救う時間は、まだあった。――しかしからだがガラスにぴったりくっついているので、力ずくで離さなければならなかった。

⊿
描かれている絵もフェティッシュだが、腹にガラスがくっついて離れないという、その腹の具合もなんかちょっとボンテージを思わせたりする。絵ではないがフェティッシュは他にも２～3あって…面白いなこういう読み方も。他の本も読んでみるか、こういうやり方で…。
山尾悠子の『夢の棲む街』Kの出版社から新たに出ると言ってな。
新編というからには、書き込みされているだろうから。以前のもので…読んで見よう。そして新編と比べ読みをしたら、少し本の読み方も身につくかもしれない。
カフカの壁の絵のように何かをキーに設定しよう。
『夢の棲む街』…夢？　
いや何か余りでてないな…何か良い言葉は…ないかな。
そう［コトバ］はどうだ、ろう。

踊り子たちの〈脚〉はなくとも、我々のペン胼胝のある手や運動不足でむくんだ脚を、コトバは覆い隠してくれる筈だ！
口々に賛同の声をあげて拍手喝采している演出家たちの横を擦すり抜け、バクは…

街の噂によればこれはかれらが彼女たちの脚にコトバを吹き込むことによってなされるのだという。黒びろうどの緞帳が幾く重えにも垂れこめた舞台裏で、毎夜演出家たちは踊り子の足の裏に唇を押しあてて、薔薇色のコトバを吹き込む。ひとつのコトバが吹き込まれるたびに脚はその艶つやを増していくが、下半身が脂ののった魚の皮膚のような輝きを持つにつれて畸型の上半身は徐々に生気を失ってゆき、舞台の上で猛たけ々だけしい乱舞をする時も、その上半身はただ脚の動きに身をまかせて力なく振り回されるだけか、または異様に小さくなったコビトの手で巨大な腹にしがみついているかのどちらかだった。

その踊り子たちが脱走したことが知れるや否や、劇場の地下から四方に張り巡めぐらされた通信線を伝令が走り、漏斗型の街の斜面を螺ら旋せんを描いて上昇していった。
〈薔薇色の脚〉が人語を喋しゃべるということがすでに、演出家たちにとっては驚きだったが。コトバがひとつ吹き込まれるたびに、私たちの脚は重くなる。私たちとて踊り子の端くれ、コトバのない世界の縁を、爪先立って踊ってみたい気があったのだ、と。それを聞いた演出家たちは怒り狂い、踊り子たちの脚からコトバを抜きとってしまった（雑役夫たちの言うことによれば、踊り子の足の裏に唇を押しあててコトバを吸い取ったのだそうだ）が、そのとたんに脚たちは力を失い、死んだように動かなくなってしまったのだ
という。

『夢の棲む街』は、演出家のコトバが薔薇色の脚を支配していく物語でもある。
演出家のコトバは薔薇色の脚に有無を言わせない。コトバを吹き込めば脚は色艶を増し、コトバのない世界の縁を踊りたいと脱走すれば、演出家はコトバを抜きとって動かなくしてしまった。コトバは肉体に対して圧倒的な力をもっている。

このコトバは、40年後の今どう変化しているか？　していないのか。それが楽しみになってきた。
聞けば、『夢の棲む街』は、山尾悠子と中川多理との全面コラボレーションで作られるとのこと。
若い現在時の作家の作るものと、時を呼応し合って、どのように変化して、『新夢の棲む街』として結実するのか。
楽しみを倍も３倍もにするために、『旧夢の棲む街』をもう一度、精読しておこう。
小説は出版時に現在と未来を強烈に孕むものであると思う。もちろん絵画もそうだ。自分にできていないからといってその主張を譲るつもりはない。常に今。だ。

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