山尾悠子と中川多理を巡るいくつかのメモランダム。「新編 夢の棲む街」山尾悠子/時には、自分でも文章をしたためたくなって…山本直海

描いたたくさんの絵とともに大学を退官する…これから…いや大学という枠が外れて…それは日本画の枠をも外れて…さらに絵画の枠も外れて…いや外して…描く原点に戻れるということだ。生きるためのようにして、そのような言い訳をして、大学で絵を描いてきた。誇れるのは、日本画というジャンルで横行する__。大学の先生と呼ばれる日本画家もする、売絵を描かなかったことだ。
『夜想』やパラボリカ・ビスで活動してみて、そこは…大学生の倶楽部活動見たいな匂いもしたが…そう昔から夜想で活動していた川口起美雄が大学祭みたいだと苦言を呈していたが…そこに集まっていたアーティストは、多く…全員ではないが…売絵を描かない…客やクライアントの注文で製作しない創作芸術家…だった。
日本画でも売絵と創作の区別もつかなくなってしまっている。絵画とイラストの区別もつかない。武蔵野美術大学あたりにおいても…だいたい先生がそれがついていない。今野裕一が特別授業にきて、夜想の生き様というような講義をして(それは自分が頼んだのだが…)質問が余りに多く…売れるにはどうしたらいいですか?…ということに終始し、終わったあとの職員室の教師たちに、何教えてんの!と一言怒って帰ってしまったのを…心の中で喝采して…特別講義大成功と思ったことがある。
パラボリカ・ビスを閉めて、それでも展覧会を開催している中川多理の展覧会があるので見に行った。今野裕一大丈夫か?という気持ちからも。会えればそれで良し。会えなくても気配で元気が分かる。それでも時々Twitterで呻き声が聞こえるのでそれほど元気とは思えないが…。
パラボリカ・ビスの展覧会は何度も見ているし、中川多理本人とも話をしたことがある。今回のパラボリカ・ビスはこじんまりとした倉庫で、棚の一角で展示が行われていて、[都落ち]という言葉がすぐに浮かんできた。今野は、ずっと拡大して生きてきた。簡単に言えば。それが初めての縮小戦になる。信長好きなので例を挙げれば朽木の撤退戦を思い出す。そのときは秀吉とか蜂須賀小六が身体を張って殿をつとめた。撤退戦の殿は、死を覚悟してのことだ。それには信長が捲土重来を期す覚悟があるかどうかということにかかっている。でなければ命は捨てない。今野のネットから伝わってくる雰囲気は、かなり悪い。捲土重来どころか…である。とすれば撤退戦を賄う仲間はいないのでは…と心配してのこともある。でも少しだけは安心した。中川多理の作品は、これまで通り、いやそれ以上に創作感に溢れたものだった。

創作とはどういうことか…。俺はもの書きじゃなくて絵描きだから、自分の掴んでいる創作の感じを伝えることができない。一番しっくりくるのは、『ここに物語が』梨木香歩の「ユートピアは存在する」というマルケスの『百年の孤独』の第一行目の創作についてマルケスが語っていることに対しての文章だ。

確かに彼の中には先行きの「見当もつかなさ」に目を開いている自分もいたろうが、なんとなく「見当はついている」静かな夜もまたいたはずである。作者自身にも次の瞬間何が現れるかはわからない、臨場感あふれる創作の現場では、書きたいというエネルギーの充溢と同時に読みたいという熱狂が彼を煽っていたに違いない。

創作の始まる瞬間というのは、設計図もなく、どうなるかも分からず、何か来るものを探していて、来たらすっと始める。こなかったらはじまらない。先行きは、なんとなく予感のように朧な形としては見えているような気もするが…そんな感じだ。マルケスはまったく先は見えないと言っているが、梨木香歩はそれはちょっとかっこよすぎるでしょう、なんとなくは見えているでしょうと言っている。なんとなくの勘のようなもので、はじめられるのが、創作作家というものだ。で、多分、なんとなくがより朧であればあるほど、ジャンプがあるというか、同じじゃないものが出てくる可能性がある。

それと対局にあるのが、たとえば良く言われるのだが、この作品と同じの描いてと言うやつだ。えええーという顔をすると、同じじゃなくてもいいからさ、こんな感じで…という。俺は、絶対にその注文に応じないが、応じて描くとちょっと違うな、こうならないかなと…素人と考えで、いや素人の考えなしで——言う。そこを万が一変えるとすると、分岐点はだいぶ前にあって、描き直しに近くなる。できあがりを、示されて絵を描くのは創作じゃない。ものすごく難しいし、ただクライアントに隷属することになる。クライアントのアートの見る力のところに。で、中川多理が今回、『夢の棲む街』の挿人形を作ったというので、ちょっと心配した。挿画ならぬ挿人形というからには、発注を受けたというに等しいのでは…と。中川多理注文には応じない。前髪ぱっつんのこんな感じの…でしたらいくらでも出します…なんて誘われても一斎関知しない。あとから服をこの色になんて言われても応じない。何か来るか分からない連続を手がこなしていって出きあがるのが創作出し、創作人形だから。

心配は杞憂だった。心配はあった。だって『新編 夢の棲む街』の後書きを読めば、性器があるのは、ちょっと…とか、差し障りのあるように文句はつけていないが、あくまでも小説家の頭の中にあるビジュアルに合わせての…あってるかどうかの評価であって…展覧会の中川多理の人形は、小説家の平面ビジュアルから見事に逸脱もしていて、合わせもあって…なおかつ凄いと思ったのは、人形にまとめられる筈もない薔薇色の脚が、人形としてぎりぎりの存在をしていることだ。言えば人形という域を拡張している。鳥の頭をした人形で域を拡張したときよりも難しい人形域で作品を作っている。人形は、たぶん、一人以上の人の所有欲を掻き立て、一人以上の見る人を魅了しかわいいと思われること…俺はそんなふうに思っているのだが…まぁ絵描きなのであってるか分からない。少なくても絵はそうだ。友人のダンサーも言っていた。一人観客がいれば言い。分かってくれる。そこに向かって踊るんだ。観客一人は必要。だけどできあがりに媚びた作品は、創作の作品じゃない。どちらかといえば商売に近い作品だ。商売が悪いって言っているわけじゃない。そうじゃない創作というジャンルで仕事をしている作家もいるということが言いたいことだ。作品に貴賎の差はない。区別はある。余計なお世話だが、『新編 夢の棲む街』を読んで、それから中川多理の作品の、創作性、オリジナリティを見て欲しい。原文との微妙な差異の中に作家がやろうとした(結果としてでてきた)創意を見て取れる。中川多理の作品を見るのにこれはとても良い機会だ。どうみようと勝手なところもあるが、これらの作品が小説の中の脚に似ているかどうかという見方はしてもらいたくない。違っているところに現代の創作性の角度が見えてくるからだ。俺はそこを見た。とてもぐっと来た。創作というのは、そのジャンルの枠の中に収まれば良いのではなく、創作というのは[今]という時代を孕んでいるのだから、[今]を描くに枠が必要なければ使わなければ良いし、使えるなら充分に使って表現すれば良いと考える。何しろこれは画期的に良い人形だ。と、素人の俺は思った。

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