山下みつお

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小倉城下町さんぽ 秋月街道㉔造化宮

神理教のある徳力山の頂上近くにある大元稲荷神社の手前に「造化宮」が祀られています。 手水舎の木額 「設神理以奨俗」(しんりをもうけもってならわしをすすむ)は明治17年10月、「幕末の三舟」の一人、山岡鉄舟より寄贈されたものです。 山岡鉄舟は幕末期の幕臣・剣術家、明治初期の侍従。通称・鉄太郎。千葉周作に入門し、幕府講武所で剣術世話役となる。1863年(文久3)幕府の浪士募集に際し取締役。68年(明治元)精鋭隊歩兵頭格、大目付を兼ねる。東征軍の東下に対し、駿府で西郷隆盛らと会見

    • 鷗外さんの小倉日記㉖二人の弟

      (八月) 二十一日。雨數ゝ至る。 晩貴志典正の女の葬を送りて東岸寺に至る。貴志は第十二旅團副官なり。 二十二日。午時雷雨。弟篤次郎書を寄せて曰く。酒井榮次といふものあり。東京大學法醫學教室の助手たり。 水沫集等を嗜み讀めり。 別紙に数條を記して疑を質す云ゝと。乃ち書を修めてこれに答ふ。 21日 時々雨。「数々」とはしばしば又はたびたびという意味。 夜、第12旅団副官•貴志典正の娘の葬儀で東岸寺に行く。 貴志典正は和歌山県出身、こののち明治36年に熊本連隊区司令官。 明治37

      • 小倉城下町さんぽ 秋月街道㉓徳力神宮

        国道322号線(旧秋月街道)「くら寿司」の先に徳力神宮(神理教)があります。 屋根付きのお洒落な鳥居をくぐって境内に入ってみましょう。 右手に「神理幼稚園」。 左手に池が、そこに小さな橋が架かっています。 その先の庭に道標が立っており、「従是東中津道」「従是北小倉道」「従是南田川道」と刻まれています。 大教殿(大正8年築)の横に教祖殿。 大教殿の前を過ぎ右手の山のほうに抜けます。 この山を「徳力山」といいます。 石段があり、たくさんの小さな赤い鳥居が。 長門市の「元乃

        • 鷗外さんの「小倉日記」㉕焼き鮎

          (八月) 十八日。夜雨曉に至りて歇(や)む。樒を賣る兒童花柴々々と叫びて街を走れり。今日は陰暦の七月十三日にして、盂蘭盆會に當れば、人家買ひて佛に供するなるべし。 朝餐畢れは又雨ふる。雨を冒して登衙す。 午時又歇む。米原氏雅女炙香魚一籠を送り、賀古鶴所葉巻烟草二筐を寄す。米原氏の書に云ふ十七日郷を出で、東京に赴くべしと。 次いで山路の書至る。云ふ、米原氏は女靜と共に我千朶山房に寄寓せんと欲し、米原氏の夫綱善も将に訴訟の事ありて東京に往かんとすと。晩又雨ふる。 夜阪田警軒の訃に

        小倉城下町さんぽ 秋月街道㉔造化宮

          復活した「将軍さまと白象くん」

          小倉城の横、八坂神社境内でゴールデンウイーク序盤の4月28日、再結成した「はくぞう座」(古賀えみ子代表)による紙芝居「将軍さまと白象くん」(無料)が開かれました。 この紙芝居は、2004年6月に出版された歴史絵本「将軍さまと白象くん」(橋本賢作さん)を元にしたもので、江戸時代の8代将軍徳川吉宗に献上されるべく、はるばるベトナムから長崎へやってきて、長崎街道を歩いて小倉、門司・大里から船で下関、そして江戸まで旅をした白ゾウの話です。 はくぞう座は歴史好きのシニアが中心になっ

          復活した「将軍さまと白象くん」

          小倉城下町さんぽ 秋月街道㉒佐野経彦と門司港レトロ

          北九州都市モノレール「徳力嵐山口駅」手前に銅板屋根の乗ったおしゃれな大きな鳥居(昭和9年築)が目に入ります。 明治政府の政策で成立した教派神道十三派のうちの一派、古神道「神理教」の本部です。 教派神道とは、布教をする神道で、天理教、金光教なども十三派の一つです。 神理教はニッポニカ百科事典には「神道教団。教派神道十三派の一つ。佐野経彦(つねひこ)を教祖とする。医者でもあった経彦が、家伝の神道の再興を図って活動したのに始まる」とありました。 令和5年夏、名称を「徳力神宮」と

          小倉城下町さんぽ 秋月街道㉒佐野経彦と門司港レトロ

          小倉城下町さんぽ 秋月街道㉑失われた古代の徳力

          秋月街道をたどっていますが、今回はずっとずっと古い時代の徳力周辺の話です。 少し長文になりますがご容赦ください。 北九州は大陸に近く、古代から交流の盛んな地域です。 そのため古墳や遺跡も多く残っています。 例えば、八幡西の貝塚、若松区の小田山古墳群、小倉南区の重留遺跡、曽根の古墳群などです。 ここ徳力周辺も、田川方面に抜ける街道筋ということもあり、古代より人が生活しており、縄文後期から古墳時代、それ以降の時代まで様々な時代の遺跡が残っています。 文明は川の周辺に発達するとい

          小倉城下町さんぽ 秋月街道㉑失われた古代の徳力

          鷗外さんの「小倉日記」・語る会編「波瀾」「半日」と作家志望  令和6年4月

          明治32年6月から約2年10か月、陸軍第12師団軍医部長として(北九州市)小倉に住んだ森鷗外さん。かつて暮らした小倉北区鍛冶町の旧居では毎月、北九州森鷗外記念会が「森鷗外を語る会」を行っています。 この記念会は、鷗外さんが小倉での任務を終え、東京第1師団軍医部長として帰任するとき、3月21日、三樹亭で「送別会」を開きました。 26日、地元の文化人を中心とした1000人以上の有志が小倉駅で見送りましたが、その後鷗外さんを慕った人たちが21日にちなんで「二一会」を結成、その流れを

          鷗外さんの「小倉日記」・語る会編「波瀾」「半日」と作家志望  令和6年4月

          鷗外さんの「小倉日記」㉔林洞海

          (明治三十二年八月) 十二日。雨午に至りて歇む。僦房主人來り話して曰く。林洞海の父は素と小笠原藩の小吏にして出納を掌る。私ありて逐はる。三子あり。 相率て長崎に至り、蘭醫方を學ぶ。最慧なる者某早く歿す。次は洞海にして幕府に仕ふ。次は小倉の市醫たり。洞海の父は小林氏、市醫某は篠田氏なりきと。 12日昼になって雨はやみました。 鷗外さんが借りている鍛冶町の住まいの大家、宇佐美さんが訪ねてきて、旧小倉藩出身で幕府の偉い医者になった林洞海さんについて話しました。 林洞海さんは181

          鷗外さんの「小倉日記」㉔林洞海

          小倉城下町さんぽ 秋月街道⑳徳力団地

          北九州都市モノレール西側に九州最大の「UR徳力団地」があります。 総戸数2300、人口約4000人で、福岡県内の東峰村や赤村より多いです。 北九州市は戦後、工業が盛んになり人口も増加、核家族化も進んだため、住宅不足が深刻な状況となりました。  昭和40年代に入ると、住宅公団が九州では初めて手掛ける団地開発として、徳力地区に大規模な造成を始めました。 1966(昭和41年)年暮れに最初の区画が完成。以後3年余りをかけて、現在のエリアが出来上がりました。 当初の徳力団地は、

          小倉城下町さんぽ 秋月街道⑳徳力団地

          鷗外さんの「小倉日記」㉓醤油の味

          (明治三十二年八月) 六日。日曜日に當る。 暑中伺候と稱して来り訪ふもの終日絶えず。 七日。登衙して隔日休沐の事をさだむ。 八日。始て暇居す。夕に筑摩定三郎の東京に往くを送る。 九日。醬油東京より至る。此地の醤油と未醤と皆不熟にして食ふに堪へず。故に家人をして遠く搬致せしめしなり。 8月初めの日曜日の6日、暑中見舞いのお客が一日中ひっきりなしに訪れました。「お盆」の挨拶です。現在は近くの友人でもはがきで「暑中見舞い」をすませますが、本来、このように相手の家をたずねて挨拶す

          鷗外さんの「小倉日記」㉓醤油の味

          小倉城下町さんぽ 秋月街道⑲徳力宿

          (小倉南区)徳力は藩政時代、秋月街道最初の宿場で、享保年間に公式の御用をする本宿だった石原町が大火にあったため、安永年間(1770年代)に本宿が移されたそうです。 小倉藩の宿駅には「本宿」と「半宿」があり、「本宿」は諸大名の参勤交代や公儀の旅行などで、小荷駄の運送継ぎ立てを行うもので、宿役人である問屋がこれに当たります。本宿には一戸につき宿役給三斗が与えられるなどの特典がありました。小倉藩内の「本宿」は、大里・下曽根・徳力・呼野・松江・八屋など。 「半宿」は藩用の小荷駄継ぎ立

          小倉城下町さんぽ 秋月街道⑲徳力宿

          小倉城下町さんぽ 秋月街道⑱徳力と豪商

          北九州モノレール守恒ー徳力公団前間の「鳥居前交差点」横の蒲生八幡の大鳥居を過ぎると左手に「コメダ」。 すぐ横の川は北九州屈指の桜の名所・志井川です。 まもなく満開の桜が両岸から川を覆い、夜ともなると幻想的な景色で楽しませてくれます。 「徳力(とくりき)」の地名は神功皇后が船を造るため御船木を受けとったという古い言い伝えにより徳利木・採木と称されていましたが、細川忠興が慶長年間に「徳力」に改めたといいます。 「コメダ」の後方、左手に山に沿ってマンションが見えます。 この山は

          小倉城下町さんぽ 秋月街道⑱徳力と豪商

          鷗外さんの「小倉日記」㉒同郷の朋

          (明治三十二年) 八月一日。夜來雨ふる。午後山路蕗村長崎より至る。名は忠恭、元と都野守氏。郷人なり。宿す。 二日。北方に至る。輜重兵第十二大隊營及小倉衛戍病院を看る。夕に蕗村を延いて三樹亭に至る。 三日。雨。歩兵第十四聯隊營、衛戍病院分舍及衛戍監獄を観る。夜師團將校倩ふ所の獨逸語の師山崎常吉來り、教授法の得失を問ふ。 四日。蕗村を停車場に送る。夜井上中将を訪ふ。その家を挙げて筑後船小屋の泉に往かんと欲するを聞き、起居飲啖の事を告ぐるなり。是日暑甚し。 五日。朝井上中将を停車場

          鷗外さんの「小倉日記」㉒同郷の朋

          小倉城下町さんぽ 秋月街道⑰守恒から徳力

          日本地図を作った「四千万歩の男」伊能忠敬も守恒を通過しました。 伊能忠敬の日記に、測量隊は1813年(文化10年)10月10日に守恒村を測量しながら通過した記述があります。江戸から664日目でした。 この日は曇りで早朝、田川郡香春町(米屋源右衛門宅に宿泊)を出立、小倉に向けて測量を始め、昼食では徳力村の庄屋「勘左衛門」が接待したそうです。 測量隊の食事は、幕府からの依頼を受けた各村々が準備しました。 もちろんお酒はご法度です。 忠敬さんは白いご飯が大好きだったそうで

          小倉城下町さんぽ 秋月街道⑰守恒から徳力

          鷗外さんの「小倉日記」㉑ベルツの実験

          小倉城下町さんぽ・鷗外さんの「小倉日記」㉑ベルツの実験 (明治三十二年七月) ベルツ博士は1876年(明治9年)に来日、東京医学校(現東京大学医学部)で教鞭を執り、約30年にわたって東京に留まり、日本に近代医学を根付かせた功労者の一人です。 1899年(明治32年)7月の終わり、ベルツ博士が鷗外さんを訪ねて小倉に来ました。 ベルツ博士については次のようなエピソードが残っています。 ベルツ博士は日光東照宮へ観光に行ったのですが、馬を6回乗り換えて110kmの道のりを14

          鷗外さんの「小倉日記」㉑ベルツの実験