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【第47回】表現の自由 ―児童ポルノの規制をめぐって― #山花郁夫のいまさら聞けない憲法の話

保護法益は何か

いわゆる「有害図書」に、漫画やアニメも含める条例改正が行われていることと関連して、児童ポルノ規制の問題について検討したいと思います。

これまでの流れからすると、混乱するかもしれませんので、論点整理をしておきますと、未成年者を保護するために未成年者の人権を制約するというパターナリズムの問題ではなく、未成年者が被害者となっていることを理由とする、表現の自由の規制にかかわる問題です。

「児童買春、児童ポルノに係る行為等の規制及び処罰並びに児童の保護に関する法律」、いわゆる「児ポ法」については、改正のたびに漫画やアニメなどの創作物を対象としようという動きがあり、(私自身もかかわってきましたが)毎回のように、規制派と、表現の自由派との間での論争が行われました。

人権制限の理論について他者加害禁止法理を理解されていれば、憲法軽視派と憲法遵守派の闘いといってもいいかもしれません。

だれの人権を侵害するのか

これまで、公共の福祉論などを通じて人権規制の在り方について検討してきました。創作物規制の問題については、憲法の人権問題についての論理の道筋が理解されていれば、応用問題にすぎないはずです。

実在の児童が被写体となって描かれているわいせつ表現物については、いくら表現の自由といっても、児童が性的被害にあっているという実態が存在すれば、他人の権利を侵害してはならないという他者加害禁止法理からしても、これは制限される理由として十分なものと言えます。

また、法律の作り方としても、児童ポルノ作成の過程は、児童買春と関連性が認められるといってよいでしょうから、同一の法律で規定することには一定の合理性があると考えられます。

しかし、いくら未成年者を対象とする性的な描写であったとしても、漫画やアニメなどの創作物である場合、その規制をできるとすれば、だれかの人権を侵害しているものでなければならないはずです。

架空表現

もしその創作物が、特定の人物をモデルにしているのであれば、これは性的な描写だから、ということそのものが理由ではなく、名誉権やプライバシー権の侵害だという理由で、その表現が制約される可能性というのは否定できません。しかし問題は、まったく架空の少年、少女を描いている場合です。

規制すべきと主張する人たちの中には、このような描写そのものが、少年、少女に対する人権侵害だ、ということを大真面目で主張する人もいます。そのように感じられるのだ、という感性まで否定するつもりはありませんが、たとえば刑法でも、「大阪人はケチだ」ということに対して名誉毀損罪ないし侮辱罪が成立しないとされていることは、法律の世界では常識に属する事柄です(このことは、違憲審査に関連して、司法権の概念、具体的事件性の要件と言われるものと関連します)。

たとえば、「女性が参加する会議は長くなる」という趣旨の発言が、女性蔑視であると感じ、それが批判の対象となることはあり得ますし、そのことでJOCの会長の職を辞任しなければならないという社会的な制裁を受けることはあるかもしれません。

しかし、これを女性に対する人権侵害である、法的制裁の対象とすべきだ、処罰せよ、刑罰を科すべきだということになると、さすがにそれは行き過ぎでしょう。人権制限の根拠となる他人の「人権」を「子どもの人権」や「女性の人権」まで抽象化してしまうと、女性の権利を主張する団体がおじさんたちに向けて非難している言葉も、論理的には「中高年男性に対する人権」侵害として規制対象となりうることを容認しなければならないはずです。このように、一般的な呼称を保護して表現行為に対して刑罰を持って臨むとすると、言論空間は窒息してしまいます。

L.R.A ―手段規制の可能性―

このように、一方で表現内容の規制というのは論外と思われますが、これまで検討してきたように、他方でわいせつ表現と感じられる創作物を目にしたくない、という感情は法的な保護に値するものといえます。

したがって、とらわれの聴衆の目に触れないようにするなど、頒布・販売方法については、工夫の余地はあると考えられます。創作物についての規制があり得るとすれば、内容規制よりもより制限的でない時・場所・方法に対する規制、具体的には販売方法に関する規制によるべきと考えられます。

文化のすそ野について

この問題について感じるのは、漫画やアニメを活字文化に比べて一段低く見てはいないかということです。これが小説であった場合、事前に指定して販売規制を行うという話になったら、たとえ内容がどんなに卑猥なものであったとしても、「表現の自由との関係で問題があるのではないか」と、もっと躊躇されるのではないでしょうか。

日本で有名な映画監督が、若いころに日活ロマンポルノで仕事をしていたというケースは少なくありません。ちょっと乱暴な言い方かもしれませんが、当時日活は一定の割合で女性の裸さえ写っていれば、作品の内容には口を出さない方針であったという話があります。それを逆手にとって、当時若手の映画関係者の中に、はかなり芸術的な作品を作っていた人たちもいて、のちの活躍につながっているそうです。

『シコふんじゃった』や『Shall we ダンス?』の周防正行監督や『家族ゲーム』の森田芳光監督、『おくりびと』の滝田洋二郎監督、『桜の園』や『12人の優しい日本人』の中原俊監督など、紹介し切れないほどのそうそうたるメンバーが、当時若手として仕事をしていたのです。

当時は「見たくない」という人からは眉をひそめられたような活動が、現在の芸術文化の礎になっていることもあるということは、籠に乗っている人だけを見て芸術や文化活動を評価するだけではなく、籠を担ぐ人やそのわらじを作る人にも正当な評価が与えられるべきという教訓を得られないでしょうか。ことわざの意味とは少し違うかもしれませんが、今、籠に乗っているポジションにいるこの人たちは、下積み時代にわらじを編んでいたんだなぁ、という話です。

他者加害とはいえないような創作物規制をするということは、文化の屋台骨を削ることになるであろうことはもっと意識されるべきだと考えます。


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