淡交社特別講習会の資料を公開します

新型コロナウイルスの感染状況が相変わらず芳しくない中、主催者のご判断に基づき、「賢章院様御香を愉しむ~名香鑑賞とほたるの夕べ~」と銘打った特別講習会は、万全の対策を講じつつ開催が実現する運びとなりました。

なんと飛行機で文字通り飛んできて下さった参加者が複数おられ、感激したと同時に、名香(銘香)を火加減良く聞いていただき、参加して良かったと感じて戴かねばと緊張した次第です。

その結果の報告は後日とさせていただき、取り急ぎ、会に備えてまとめた資料を以下に貼り付けます。縦書きの文章をそのままコピーしますので数字等が読み辛い点、ご諒承下さいませ。

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資料A:

一. 香道の本質と聞香
 香道の本質に言及することは流派の御家元や御宗家のお仕事であり、余人に語れるものでは無いと考えますが、もし単純に『香道の醍醐味はどこにあると思うか?』と問われるならば、迷わずに『一炷聞(いっちゅうぎき)』と答えます。
 すなわち、僅か百分の一gほどの小さな香木片を適度な温度で加熱することによって、永い歳月…数十年あるいは数百年…に亘る沈黙を経て初めて現世に香気を解き放ち、それをただ無心に賞玩する聞香方式です。
 お香の会(香筵、香席)で行なわれることが多い「組香」では複数の種類の香木を用いてそれらの香気の特徴の違いを利用してゲームを組み立て、聞き当てることが出来た成績を競うかのような方式を採ります。これは、初心の段階で香道の稽古に飽きぬよう、遊びを楽しみながら聞香の奥深さに誘うための方便の一つと言えるのではないかと想像しています。
 聞香=香を「聞く」という行為=の醍醐味は、対象とする香木が上質であればあるほど深まるように思えます。香木は全てが個性的でかけがえが無く優劣をつけ難いとは言いながらも、やはり、とりわけ深く感銘を受け、言葉では表しきれないような心の動きを体験させてくれる特別な香木は、極めて希少に過ぎないとは言え、現代においても確かに存在するのです。

二. 名香と銘香
子供やペットと同様に、香木にも、大抵の場合、名前が付けられています。いわゆる「銘」です。人間と同様に香木も十人十色、千差万別ですから、同じ産地から同じ貿易船で渡来したとしても、塊が違えば別の香木として扱われます。そして内容が優れており愛玩される香木には、基本的には塊の数だけ銘が存在します。
数多い銘香の中でも、とりわけ優れた存在と誰もが認めるような銘香は特に「名香」と称えられて、古来、大切に扱われて来ました。つまり、銘香だからといって必ずしも名香とは限らないということです。

三.付銘
 触れるのが遅れましたが、香木に銘が付けられるようになったのは、文献で確認される限りでは鎌倉時代末期から室町時代のようです(早川甚三著『香道』参照)。
そして、付された謂れ(いわれ)には様々あります。幾つか挙げてみますと…
㈠ 出所から:東大寺、法隆寺など
㈡ 所有者から:大内、細川など
㈢ 渡来の年号から:慶長、寛文など
㈣ 木目の特徴から:縮(ちぢれ)など
㈤ 木肌の色目から:黒香、金伽羅など
㈥ 漂着の地名から:種子島など
㈦ 故実から:千鳥、月、中川、似(にたり)など
㈧ 和歌から:軒もる月、春の夜、初音、白菊など
 それらの謂れが記された文献(『六十一種秘銘』など)も残されており、興味深いので、一例を紹介してみます(表記は現代風です)。
・『千鳥』…足利義満が菊地氏を征伐するために九州に向かう途中、浜辺にて千鳥が鳴く声を賞して散策していると、近くの寺院から名香の香りが漂ってきたので、尋ねて求め得た。その縁により『千鳥』と名付けた。
・『月』…後醍醐天皇から足利尊氏公へ下賜され、その後、義教公の御時に光明院帝のご所望により塊の中ほどを献上した。雲井(宮中、天皇)より出て雲井に入ったことから、香銘を『月』と改められた。
(同じく六十一種名香の『名月』、『斜月』、『十五夜』、『有明』、『上馬』と同木であるとされています。)
・『軒もる月』…梅の花匂ひをうつす袖の上に軒もる月のかげぞあらそふ
                   (藤原定家)(新古今和歌集)

四.名香の種類
 数ある銘香の中で、名香と称えられるものは多くはありません。古来、幾多の銘香が鑑定され取捨選択された結果、最も上位に選ばれたのが「六十一種名香」とされており、続いて「百二十種名香」、「二百種名香」、「道誉所持百八十種」等の他、後嵯峨院・後柏原院・後陽成院・後水尾院・明正院・後西院・霊元院・東山院・中御門院・桜町院・桃園院や中院通村卿・東福門院などが合計して数百にも及ぶ勅銘香を遺されています。

五.名香(銘香)の伝来と真贋
 香木は何一つ我が国には産出せず、古来、その全てを輸入に頼って来ました。数百年前に輸入された香木がいつ、何処で、誰によって、どのように採取されたかを伝える資料は、知る限りでは全く存在しません。
 従って出自は(ごく稀な例外を除いて)全く不明と言えますが、伝来は、ある程度判明している場合があります。貿易船が入港した際に大名家の名代が上質な伽羅を求めて駆け付けた記述が文献等に残されていることがあるからです。
 また、大名家の蔵品目録に記載されている事例や、いつ誰から譲り受けたかという覚え書き等が残されている事例も見受けられます。
 しかしながら、一般的に私たちが名香(銘香)に巡り合える機会は限られていますし、仮に香銘が記された香包を見かけたとしても、それが本物かどうかを知る術は無いに等しいと言えます。
例え香包に香銘や木所・味・位を示す記号が記されていても、中に収められている香木片が本物かどうかの保証はありませんし、更には、由緒書きが添えられていて箱書が認められていても決定的な証拠とは言えないのが、香木と言う存在の特異な性質なのです。
 では、香木の真贋を確かめることは絶対に不可能かと言うと、実は理論上はそうでもありません。間違いなく真正な本物を所持しておられることが歴史的に判明している存在、例えば香道家の御家元に鑑定をお願いして本物と聞き比べて戴くことにより、「当家伝来(所持)の〇〇と相違ない」との「極」を頂戴することが出来れば、晴れて名香(銘香)と認められることになります。

六.名香鑑賞会に炷き出す香木について
 香雅堂が所蔵する「賢章院遺愛と伝わる御香」には何種類もの「六十一種名香」や「百二十種名香」、「二百種名香」、勅銘香等が含まれていますが、いずれも御家元・御宗家に鑑定をお願いしたことはありません。それ故に、名香(銘香)として真正か否かは公式には不明であると認識しています。
(香包に用いられている用紙の素材、記されている香銘の書体や字配り、収められている香木の様子や香気の内容等から推察して、信憑性は極めて高いと判断はしています。)
 従いまして、「香銘その他からは名香と推察できるものの、真贋は定かでは無い」として、あくまでも単なる銘香として非公式な扱いとさせて戴きます。炷き出す手前作法につきましても略式であり、併せてご諒承のほどお願い申し上げます。
 なお当日に予定しているメニューは、次の通りです。予定時間内に終了できるよう、進行状況に応じて微調整を図る可能性がございますので、予めご諒承下さいませ。

一. 芦田鶴(花一、 サ、 中)(インド産白檀と思われる)
二. スモタラ(黄熟香と思われる)
三. 柴の戸(花三)(伽羅と思われる)(一説には真那賀、中下、甘 辛 苦
  とも)
四. 東泳(ラコク)
五. 狭衣(さごろも)(サ)(勅銘香)(赤栴檀と思われる)
六. から錦(ウ)(一説には伽羅、上下、甘 辛とも)
七. 夕きり(バン、 上、 ウツリカ)(東山院勅銘は伽羅もしくは寸門陀
  羅、上々)
八. 長月(ながつき)(一、辛、フルクサシ)(二條政所銘)
九. 月(一、上々、甘 辛 苦)(六十一種名香)

開催日時:令和三年六月十七日午後四時~六時
開催会場:椿山荘内料亭「錦水」八千代の間
主  催:淡交社
講  師:山田眞裕(麻布香雅堂主人)
協  力:麻布香雅堂

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資料B:
賢章院 ‐ 名君 島津斉彬の母

賢章院は、薩摩藩第二十七代藩主 島津斉興の夫人 周子(かねこ)の法名。寛政三年(一七九二)に鳥取藩主 池田治道の娘として生まれ、弥姫(いよひめ)と名付けられました。
周子は、島津斉興のもとへ輿入れの際、嫁入り道具として大量の書籍を持ち込み、その中には漢籍である「四書五経」「左伝」「史記」等が含まれていたといいます。和歌などの才にも秀でて、
薩摩藩の家臣たちからも「賢夫人」と呼ばれ、慕われていたそうです。
周子は文化六年(一八〇九)に長子 斉彬公を出産。当時、藩主など身分のある人の子は乳母が育てることが一般的でしたが、周子はそれをせず、自ら乳を与え、おむつのとりかえをはじめとする一切の養育をおこないました。また、斉彬が六~七歳になると、自身が得意とする漢籍の素読をはじめ和歌や絵を教えました。自分の持つ知識を惜しみなく与え、斉彬に深い愛を注ぎつつ、将来藩主となる身だからときびしく躾け、後の世に名君と讃えられた斉彬の人格形成に多大な影響を与えたと言われています。                                        周子は斉彬が十六歳の時、文政七年(一八二四)に病没。享年三十四歳でした。

島津斉彬 (一八〇九年~一八五八年)                                      島津家第二十八代当主であり、天璋院篤姫の養父。                                                           斉彬は、国事多難の時期に藩内をまとめ,富国強兵策を率先し強力に実行しました。植民地化政策を進める西欧列強のアジア進出に強い危機感をいだき、西欧の科学技術・諸制度を導入して、日本を西欧列強のような国に生まれ変わらせたいと考えました。鹿児島の磯に「集成館」という工場群を築き、ここを中核に製鉄・造砲・造船・紡績・ガラス・印刷・写真・食品加工等多岐にわたる事業を展開します。また、日本がまとまるには「第一人の和、継て諸御手当」(安政五年五月二十八日付幕府宛建白書)と記し、人の和を作るために、産業を興し、社会基盤を整備して、末々の者まで豊かな暮らしができるようにと訴えました。また斉彬は、身分にかかわらず優秀な人物を登用したため、西郷隆盛をはじめとするさまざまな人材が薩摩から輩出され、明治維新の原動力・日本の近代化の成功に影響を与えています。

           参考文献:「鹿児島大百科事典」
                「照国公御母堂賢章院夫人遺芳録」





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