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分別ある大人になりたくない ーー好き・嫌いを越えてーー

 うろ覚えで申し訳ないが、ニーチェの書いたものに「男の成熟とは子供の頃の情熱を取り戻す事だ」と書いてあった。私は、(ニーチェもいい事言うなあ)と思った。
 
 さて、最近、散々言われてきて、今や「常識」にすらなっている一つの事実がある。それはどんな事でも「好き嫌い」で片付けよう、という考え方だ。
 
 ネットニュースを見ていたら、タレントの岡田准一が丁度、そういう事を言っていた。
 
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 岡田は「教養とは知識をつなぎ合わせ、よりよい行動に結びつけていくチカラ」とコメント。「すぐに優劣をつけない力」と伝えた。

 そして「『小説は良いが、漫画はダメ』ではなく『それぞれ良いところがある』と判断できること」と続け、「教養が無いと『グレーゾーン』がわからなくなる 世の中、たいていは『好みの問題』」とつづった。
 
 (4月11日 スポニチの記事より)
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 最近はこういうフラットな見方をする人が「大人」という事になっている。中庸をわきまえた、分別のある大人というわけだ。(記事では「教養」という事になっている) たやすく判断もせず、あれもいい、これもいいと色々なものの良さを認めるのが「大人」である。
 
 そもそも岡田准一に教養があるのか、私には疑問だが、それ以前に岡田准一の「教養」は私の考える「教養」とは全然違うなと思う。
 
 そもそもで言えば、ネットのコメントを見ていると非常に多いと思うのが、「優れている人は人格者でならない」という考え方だ。優れた人が人格者であるべきだ、そうあって欲しい、というのならまだわかるが、人格者でないから、優れていない人だ、という判断も非常に多いと感じる。人格者というのは、すぐに声を荒げたりせず、穏やかで落ち着いている人間を意味しているらしい。
 
 しかし、過去の有名な哲学者とか、作家とか、評論家らの書いたものや論争を見てみればわかるが、彼らはたいていは人格者といったようなものではなく、自身の価値観をぶつけて、思い切り罵倒しあったり、戦ったりしている。
 
 岡田准一の言うような現代的な「教養」というのは、「それぞれ良いところがあっ」て、「たいていは『好みの問題』」だと認識するようなものなのかもしれないが、過去の教養のある人は、むしろその教養から作り上げられた価値観を巡って、激しく戦った。
 
 私の持っている結論から先に言うなら、教養というのは、岡田准一の言うようなものではまったくない。それは、現代的な、全てをフラットに見るのが素晴らしいという、教養の欠けた大衆的価値観の後からの追認でしかない。
 
 もっとも、岡田准一という人は芸能人だから、大衆受けする考えを持っている事は彼の職業ともぴったりしており、彼にとっては良い事だろうし、彼の客にとってもありがたい事ではあるだろう。
 
 「それぞれの良いところがあって、大抵は好みの問題」というような考えが何故、大衆にとって好都合かと言えば、大衆の好きなサブカルも、高級そうな芸術だのアートだの哲学だのも、みな同じ価値という事になるからだ。
 
 ベートーヴェンを聴くのも好き嫌い、V6やAKBを聴くのも好き嫌い。ライトノベルだって文学に劣らない価値があるし、漫画だって本に負けるメディアではない。そういう風に言われればもう小難しい本やら何やらを読む必要はなくなる。そんなものはもうどうでもいい。すべてが好き嫌いならば、楽しく面白いものばかり読んだり聴いたりすればいい。小難しい本を読んでカッコつけている人間は「時代遅れ」で「ダサい」のだ。
 
 私自身はむしろ、そういう考えとは逆に生きてきた。もちろん、素晴らしい漫画ーー例えば萩尾望都の「半神」のような名作であれば、くだらない本よりも遥かに優れている、と言えるだろう。
 
 だが、本というのは漫画よりももっと長い時間軸で紡がれてきたものである。更に、本の中でも、古典は、歴史的に淘汰され残った価値を持っている。だから私は(古典の方が漫画やゲームよりも優れている)と思っている。
 
 もちろん、全てがフラットに見える人は「それもあなたの主観ですよね」と言うに決まっている。彼らを説得するのは私も無理なのは知っている。実際、私の知り合いは知的な事に興味がある(と言っている)にもかかわらず、夏目漱石の「こころ」一冊すら通読できなかった。まあ、無理である。
 
 なので私は説得するつもりはないが、私は自分の経験と自分の意志について記しておく事にする。今から言うのは私の"主観"にほかならない。だが、これは客観的と私が考える歴史的価値観と対話して作られた一つの思想だとは言ってもいいだろう。
 
 もちろん、それを人は「それは所詮、君の主観に過ぎない」と言うだろう。しかし、人々がどれだけ集まろうと、それだってまた、「人々の主観」、集団の主観でしかない。だから、究極的にはその価値が問われるのはその主観の内実であり、それは、結局は歴史によって判定されるしかない。そしてその歴史とは、人々の内輪の価値観からは"他者"にあたっている。
 
 人々は好んで「未来」という言葉を使うが、人々の使っている「未来」とは実は現在の延長としての未来でしかない(テレビCMで使われる「未来」という言葉をイメージして欲しい)。本当の未来、本当の時間は現在の我々の想像する通りのものとは限らない。他者としての未来ーーそれが、歴史として我々に現れてくる時、果たして我々が集団主観によって是認しようとしてた価値観は生き残れるだろうか? それらは、「未来」という異質な他者によってはやがては測られていくだろう。
 
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 話が飛んだが、好き嫌いの問題は私にもある。私は例えば「スーパーロボット大戦」というシリーズのゲームが好きで、かなりの数クリアしている。
 
 とはいえ、それは好き嫌いの問題だと自認しているから、人に勧めたり、ゲームの面白さについて語ったりはしない。仮に語ったとしても、それはドストエフスキーを語るのとは全然違う事柄だ。
 
 逆に、私は森鴎外などはあまり好きではないが、その価値は認めざるを得ない。私は、自分の好き嫌いや、自分の現代的価値観を越える価値観を作り上げるようにして本を読んできた。正確には本と対話してきた。そして私は自分を否定し続けてきた。薄っぺらい自分を否定してきた。
 
 だから私の読書には"私"という一つの物語がある。物語がある、と言えば大げさに聞こえるかもしれないが、真面目に読書をしている人間には必ずこうした物語が形成されているはずである。そして、これは単に趣味的に面白おかしく本を読む事ではない。
 
 あれもいい、これもいい、ラノベも良ければ文学も良い、という人は、ある事柄に深く潜り込んだ事がないのだろう、と私は思う。深く本を読んでいく事は、自分をメタな位置に置いて、あれもこれも面白がる事ではない。
 
 自分というものを基準にして、自分を王様にして、自分を楽しませるあれこれを見たり、聴いたりする事。この時、この人物は自分自身を基準としており、自分そのものは動かない。ただ自分を楽しませる"下僕"を待っている。彼は下僕の出し物を順に見ていくのである。
 
 現代はこうした消費者=大衆が王様の位置にいるのだから、岡田准一の意見が承認されるのもわからないではない。
 
 古典を読み、価値観を身に着けていくという行為は、そういう自分を否定し、自分を越えていくものを発見する事だ。自分は王様ではないと認識し、一旦は、歴史的に規定された価値に対してその身を低くするのである。
 
 読書家ははじめ、従僕となる。従僕となって、過去の巨人の言葉に耳を澄ます。そうしてそれらの言説に親しんだ後に、いつしか自分の中に様々な疑問が浮かんでいるのに気づく。彼はそうした疑問を育てて、もう一度古典の価値観、それらが何故歴史的に評価されてきたのかという事実とすり合わせて、対決させたり、融和させたりしながら、自らの考えを作っていく。そうして主観と(歴史的)客観とが融和された価値観を作っていく。
 
 だから読書家というのは、自分がつまらないと思う作品でも我慢して読む。我慢して読んだ結果、結局はつまらなかったりするが、彼はそれが歴史的に何故評価されてきたのかを考える。また、自分はこの作品をどう捉えるべきかを考えていく。
 
 彼はそういう繰り返しによって知性的な「自己」を作り上げていく。もしかしたら、作品を「つまらない」と思っている自分自身が「つまらない」存在かもしれない。そういう怯えが、読書家にはなければならない。
 
 すべてがフラットに見える人にはこうした自己陶冶の物語が存在しない。だから全てのものは、陳列棚に並んだ商品にしか見えない。夏目漱石も「なろう小説」と大して変わらないだろう、と彼らは考える。
 
 彼らは歴史的に作り上げられた時間というものの重みを感じられない。すべては自分の好き嫌いだから、決して自分達の外に出る事ができない。この社会に閉塞感があるのは、一つには大衆の主観という絶対的な呪縛から外に出る事が禁じられているからだ。だから玄人が一人もいない、素人の学芸会のようなものが、彼らの理想となるのだ。
 
 ※
 話を最初に戻すなら、私は現代人が規定するような、「あれのよさもこれのよさもわかる分別ある大人」になどなりたくない。
 
 しかし、こうして「あれのよさもこれのよさもわかる」と書いただけでも、この言葉そのものからすでに矛盾が生じている。「あれのよさもこれのよさもわかる」のであれば、それらの間の価値の等級が付けられるはずだ。
 
 結局のところ、「あれもいい」「これもいい」という人は、あれのよさもこれのよさもわかっていない。もしわかっていれば、それらの間に価値の差異が生まれるのを認めざるを得ないだろうから。
 
 仮にアニメ作品ばかり見ている人でも、アニメ作品の中にも深い人間性を表現しているものと、軽いエンタメ作品とが違うというのがわかってくるだろう。そうした差異が認識できない、認識できなくていい、というのはほとんどの人が物事の深みに入っていくという事をそもそもしないからだ。この社会はそもそもで言えば「玄人」を排除しようとしている。
 
 私は「あれもこれもいい」という分別ある大人になどなりたくはない。むしろ、自分が作り上げてきた価値観の中で、自分が素晴らしいと思っているものを否定されたら、ムキになって声を荒げる「子供」でありたい。最初にあげたニーチェの言葉とはそういう意味ではないかと思う。
 
 客観的に作り上げられた自らの価値観を持っている人間は、世界の価値観に抗して自らを信じているので、その価値観が否定されるのに耐えられない。彼は、その価値観が、浮薄な現代的な価値観よりももっと、歴史の奥深い流れと通底していると信じている。
 
 自らの中に内在する価値観が、表面的には人々から好ましいものではなかったとしても、いずれは、人類にとって、人間性にとって、より大きな価値があるものだと彼は信じているのだ。
 
 彼は自分の信じるものが否定されるのを耐えられないし、くだらないものに対してははっきりと「くだらない」と言う。彼は自分の価値観を世界に対して譲らない。世界はフラットな商品の陳列場ではない。深い価値を持つものとそうでないものがはっきりと区別される世界だ。そしてその区別は彼が、歴史的価値観に自ら参与して、自己の資質と歴史的に規定された価値とが、対話的な交流を行った結果現れたものだ。
 
 彼はすべてがフラットに見えるから大人なのではない。むしろ、子供の頃の情熱を「大人」の現実に抗するものとして、そういうものとして作り上げたからこそ、彼はむしろ「成熟した大人」なのではないか。
 
 私は現代の人々が称賛するような穏やかで落ち着いた大人などにはなりたくない。あれのよさもこれのよさもわかる物分りのいい大人になどなりたくない。というか、あれのよさもこれのよさもわかったのであれば、必ずその間には価値の差異が目立ち、等級が付けられていくはずだろう。
 
 いいものはいい、駄目なものは駄目と、自らの中に作り上げた価値観に準じてはっきりと言える子供っぽい情熱のある人間、そうした人間の方が私は「大人」だと思う。そんな大人がいたとしても、この世界ではものわかりの悪い子供として扱われるだろうが。
 
 どのような深みにも入っていかない人々にとってはすべては平板に見え、それ故に、そのうちのどれを取ろうが、それはその人の好き嫌いに過ぎない。彼らは決して激さないが、激するだけの、自分自身の存在を賭ける何物も人生に持つ事はない。私は、そんな分別ある大人になどなりたくない。

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