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何故、政治は「神」なのか

 現代社会において真面目なもの、真剣なものとは何かと言えば、「政治」しかない。政治だけが人々が真剣になる唯一のもので、その他のものは趣味であり、お遊びであり、装飾でしかない。
  
 私は文学というものを中心に考えているが、文学などというのはもう誰も興味を持っていない。最近の芥川賞関連なんかを見ると、「文学の専門家」が文学に大して興味を持っていない図がよく現れていると思う。
 
 文学とかアートとか、口先で言う人間が存在する。そうした人達はそれを趣味的なものとして取り扱っている。生活を飾る些細な愉しみ、といった程度だ。要するに娯楽だ。
 
 もう一方で、文学やアートを真面目に語っている人達もいるが、単にそれが商売になっているから真面目に語っている、という人も多い。彼らはそれが金になっているから真剣なのであり、それで生活したり遊んでいるから真剣なだけで、文学やアートそれ自体には大して真剣ではない。
 
 文学やアート以外のほとんどのジャンルも、政治を除けば、真剣なものは存在しない。私は現代社会はそういうものだと思っている。
 
 ※
 だらだら書いていても仕方ないので、結論から書いていこう。何故、政治が「神」となったか。それは何故、人々が政治にだけは真剣なのか、という事と本質的には同じだ。
 
 かつての世界においては、人間は自然の脅威を感じていた。近代以前は人間は自然をコントロールする事が難しかった。それ故に自然の背後に「神」を感じていた。あるいは自然そのものを神とみなしていた。
 
 しかし、近代において、自然からその力を奪回し、自然をコントロールできるようになった。科学技術のおかげだ。人々は自然の秘宝を盗み、逆用して、自然から身を守ったり、自然を操作したりできるようになった。こうして、人々が自然から自分達の身を守る都市並びに「社会」ができた。
 
 例えば、魚を釣り竿で釣る場合と、養殖する場合の違いを考えてもらいたい。魚を外海で釣ると、よく獲れる時と、全く獲れない時がある。よく獲れた時には「神の恵みだ!」と思うのは普通だろう。というのは人間は自然がどういうメカニズムでそうした魚を生み出し、自分達が手に取れるか、はっきりわかっていないからだ。自然は神秘に満ちており、人間が得をしても損をしても、それは神の計らいだと納得するしかなかった。
 
 一方で、魚を養殖してしまえば、もう神の存在などどうでもよくなる。自然の神秘は暴かれ、自分達の理性で計算して、魚を繁殖させて、食用とする事ができる。自然は神秘なものではなくなった。神秘は人間の手に落ちた。人間の力が神の力を越えた、と言ってもいい。
 
 そうなると、この強大な人間の力をどういう方向に使うか、ただそれだけが真剣な問題となる。もはや自然も神も沈黙している。それらは大した力を持っていない。それ以上に、我々が持っている力をいかなる方向に振り分けるか、それだけが重要な問題になる。
 
 こうして、力をどう使うかという「政治」だけが現代社会における"絶対"となった。現代において真剣なのは政治だけだ。元をただせば、人間が自らの内に持った力があまりに強大になったからに他ならない。
 
 ※
 文学に話を戻させてもらおう。現代においては文学は不可能に近くなっている。
 
 文学の最高の形式というのは「悲劇」である。おそらく反対意見もあるだろうが、ここではざっくりと話を進めさせてもらう。
 
 悲劇というのは、主人公が必然的な成り行きでもって破滅していく話だ。どうして悲劇は高尚なのか。そこには人間の可能性と不可能性が現れ、また人間が自らの運命を甘受する様が、読者らに、各々が人間として自己の運命を甘受しなければいけない、そうした感情を喚起するからだ。

 自由意志と運命との抗争、そして最後に運命の勝利と人間の敗北がやってくる。人間は人間であるが故に自らの限界を受け入れなければならない。そこには、人間は神ではないから限界がある、という思考が背後にある。
 
 ところで、今言った「必然的な成り行き」とか「運命」とかいうのはどういう事だろうか。現代においてはある人間が悲劇に陥る事はできない。彼は単に「運が悪かった」という風にしか思われない。運が悪かった、というのは、他に道があったという事だ。だとすると、それは必然性を欠いている。
 
 ベートーヴェンは難聴だったが、その難聴を乗り越えて、傑作を作り上げた。ベートーヴェンにとって彼の難聴は運命であり、その運命を受け入れつつも、それを乗り越えようとしたのだろう。そこに彼の精神的、人間的高潮が存した。
 
 ベートーヴェンの難聴というのは諸説あるが、現代の医学だと治るものらしい。…こうなると、話は変わってくる。苦しむベートーヴェンに対して「そんなものは薬で治るよ」と気楽に声を掛ける現代人がいる。そうなると、運命は消え、運命に対する戦いも消えてしまう。
 
 フランスの思想家シモーヌ・ヴェイユはひどい頭痛に悩んでおり、どの医者に見せても治らなかった。しかし彼女の思想はそうした身体的障害を乗り越えようとするものだと見る事ができる。ここでも、彼女の頭痛は、運命的なものとみなされていた。それが彼女の思想を飛躍させた。
 
 しかしこれもまた、薬一錠で治るとしたらどうだろう。思想の全ては、薬一錠で解決される。だとしたら思想やら文学は必要ないではないか。
 
 実際、現代はそうなっている。誰かが不治の病に侵されていても、人はそれを重い宿命とはみなさない。それはただ運が悪くて、「かわいそう」という事に過ぎない。
 
 ここで希望となるのは思想でも文学でもなく、政治である。この場合で言えば、医療の発展をどの方面に振り分けるかという「政治」だけが希望となるのである。それ次第によって治療薬ができる可能性もあるから。
 
 ベートーヴェンがもし今生きていたら、難聴治療を求める政治活動をしたかもしれないし、シモーヌ・ヴェイユがいたら頭痛薬の開発を世界に訴えるかもしれない。それはそれで大切だろうが、そうなったら、そこからは彼らの芸術も思想も生まれなかっただろう。あるいは、芸術や思想は自己の宿命を乗り越えるものとしては決して現れ得なかっただろう。それらは政治の影で趣味的にやるものでしかなかっただろう。
 
 ※
 悲劇というのは主人公が必然的な道筋で破滅していく物語だ、と先に言った。しかし今、この必然はもはや必然ではない。
 
 そして我々が必然的な悲劇、そうしたものに出会う時、我々はもうそれを神が、あるいは自然が、世界が我々に与えた宿命だとは見ない。我々はこう考える。「社会が悪いのだ」、と。
 
 私は「社会が悪い」という言い訳は良くない、と言うつもりは全くない。ただ、社会が良いか悪いか、自分達にとってそれが良いか悪いか、それだけが現代にとって大切な問題となってしまっており、それ故にそれ以外の全ては全部どうでもいいものとなっている、という現実をはっきり認識しておきたいだけだ。
 
 社会は強大な力を持っている。人間が集団となって作り上げた力はもはや絶対的なものとなっている。個人というのは存在しない。存在するとすれば、それは集団を構成する一部分でしかない。
 
 強大な力を持った社会をどの方向に動かすかが政治だ。だから、それぞれの人はそれぞれの事情を元に、自分の都合の良い方に政治を誘導しようとする。そしてそれ次第によって我々は救われたり、救われなかったりする。
 
 この時、個人にどんな運命も現れ得ないのははっきりとしている。個人の生活はただの生活として、それぞれが好きにやってくれ、という以外のものではない。政治の方は逆にその個人の好き好きの集まりだ。
 
 こんな世界には悲劇は現れ得ない。もし悲劇があるとすれば、それは個人はどこまで行っても悲劇と遭遇できないというアンチ悲劇でしかない。しかしそれが悲劇の名に値するかは疑問だ。
 
 こうして政治は神となった。政治だけが世界を動かせる。我々は一人の人間ではなく、世界を構成する一分子でしかない。一分子はいかに他の分子を扇動して、自分の都合の良い政治に持っていくか。その力だけが争われている。
 
 ここでは、自らに課せられた運命との葛藤というものがない。自らに課せられた運命は政治によって重くなったり軽くなったりするからであり、何かあっても、政治に参加すればいいのに、としか人は思わない。

 こうして現代は政治が神となっている。だから、その残余としての娯楽、お笑いやエンタメがやたら崇拝されもする。それらは趣味物でしかないわけだが、娯楽に面した時のへらへらした顔を裏返せば政治に向かう真剣な顔となるわけだ。この二面性しか現代人は持っていない。こうした世界では、過去に芸術とか文学とか呼ばれていたものは存在するのは極めて難しいだろうと思う。

《補足 宗教という必然から、政治という必然へ》

 以上の文章を書いた後に思いついた事があったので、付け足しておきたい。
  
 以上の文章を読むと(かつては思想や文学は存在したが、今は存在していない)という風に読める。確かに、それはそうとも言える。
 
 ただ、考え直すと、そもそも思想とか文学とかいうものは、文中で言っている通り、個人的なものであるから、そもそも個人というものが何らかの形で存在していないと成立できないのではないかと思う。
 
 何が言いたいかと言うと、中世のように宗教が神であった時代において、個人というものは存在できなかった。もちろん、一人の人間を個人と呼ぶならそれは存在している。私が言おうとしているのはそういうものではない。
 
 宗教が絶対的な価値観としてある時代においては、宗教の価値観が個人に対して絶対的な必然であるから、そもそも必然が絶対である時代には、必然との対立項である「自由」というものが見出されない。個人というものが存在し得るには、何らかの形で自由が必要だ。
 
 また、現代のように、文中で言ったように、政治という神が絶対である時代は、個人は自由に見えてもその実、そうした自由は政治的方向にしか向かう事を許可されていないので、自由は存在せず、あるのはただの必然でしかないという事になる。
 
 見方を変えて、資本主義が絶対であるとしても、自由は資本主義が沿う方向にしか動く事を許されない。だから個人というものは存在し得ず、社会の中を流れていく破片が個人の残骸だという事になる。
 
 シェイクスピアの偉大な悲劇においては、個人の内的自由と、内的自由を制限する必然とが強烈に葛藤している。この葛藤がシェイクスピアのドラマの中心部となる。
 
 これは、シェイクスピアが存した封建社会が崩れておく過程においてやっと現れたものと言えるのではないか。
 
 ここで何を言いたいかと言うと、文中で私が「個人」といったものは、社会秩序の移行期、要するに旧秩序の崩壊と、新秩序の到来、その間にわずかに存するものではないか、というような事だ。
 
 実際にはそれは「存する」というより、世界から見捨てられた形でかろうじてそこにいる、といった程度のものかもしれないが。
 
 文学や思想にとって大切なのは、ある社会制度が正しいか間違っているかではなく、むしろそれらの制度の崩壊期、ないし移行期といったものにおいて、わずかに個人の頭の上に、社会が作っていた傘が外れ、はじめて天を望める…そうした事ではないか。
 
 夏目漱石の「それから」の主人公・代助は自らの恋愛というものを、「自然」という風に言っている。「自らの中の自然」と。これは江戸時代においては不可能な考え方だったろう。この「自然」という観念は私には、社会という天井を割って、その先の、自然としての「空」に達していると感じる。これは明治時代が社会秩序の移行期だったからではないか。
 
 結論を言えば、「必然」が強すぎれば、人間は必然の従う通りに動く自動機械となる。現代は、一見、自由が強すぎる社会だが、それは社会が我々に要請する自由(商品の購買というような)でしかないから、実はもう一つの必然でしかない。実際には自由とは、一つの拘束から別の拘束への移行に際して刹那的に現れるものに過ぎないのかもしれない。
 
 文学や思想は過渡期における、そうした個人を描いたり、あるいはそうした葛藤を引き受けた個人の脳髄に宿るものではないか。そう考えるなら、現代の必然とは、資本主義が我々に強いた自由であり、また、我々にとっての念願は政治の成功でしかなく、個人の自由も思想も文学もありえない事になるだろう。
 
 この時代においては、政治をどの方向に向けるかという集団的自由は担保されているように見えるが、実際にはその自由以外の個人としての生の自由・思想というものは考えられない。我々の保有している自由は投票の自由であり、商品購買の自由であり、そうした政治・経済を基調としたものでしかない。
 
 ここでは既に絶対的な必然が重くのしかかっている。それ故に、我々はそれを前提した上でしか、何も話せない。要するに、もっとも自由であるはずの精神すら、社会制度に拘束された上で、やっと自らの上の「自由」について、さも全てが許されているかのようにもそもそと喋りだすのである。

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