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福田恆存の一文から「芸術の天才」について考える

 最近、福田恆存を読んでいるが(そうだよな)と思う事が多い。福田の言っている事は、芸術というものを通ってきた人間からすれば常識的と感じるが、果たして福田はまともに読まれているのだろうか?。私は実際読んで、その疑念を増した。
 
 「私小説のために」という短文の中に次のような一節がある。
 
 「ゴッホの末期の肖像画を見たまえ。それは醜悪であり、狂気であり、異常である。だが、自己の狂気と異常とをかほどまでに透視し、表現した芸術家ゴッホの眼は、はたして狂っていたか、異常であったか、ぼくはそこをいいたいのである。どうして完成と円満と美とに道を通じていないものが、あれほどの狂気と異常と醜悪とを描きうるであろうか。」
 
 この福田の芸術観は、私は常識的なものだと思う。また、これは小林秀雄の芸術観を通ってきたものである、あるいは、小林の芸術観と類似している、と思う。
 
 しかし芸術観なんていう仰々しい言葉を使わなくてもいい。福田の言っている事は「普通」の事だ。しかし、事、芸術においては、世間の「普通」の方が、芸術の世界に入るなり「異常」となる事もある。
 
 福田が言った事を具体的に考えてみよう。
 
 福田が言いたいのは、ゴッホが自身の狂気、醜悪、異常を見つめる眼は、全く異常でも醜悪でも狂気でもなかった、という事だ。ゴッホは健全な芸術家としての精神を有していた。福田はそれを「完成と円満と美とに道を通じて」と言っている。
 
 それではゴッホは通説とは違い、狂人ではなかったのか。彼は精神を病んだ人間ではなかったのか。もちろん、彼は実際に精神を病んだ人間で、発作に駆られて、自分の耳を切り落とす人物だった。
 
 おそらく人は、こう言われれば、ゴッホという人物像を捉えにくく感じるだろう。ゴッホは正常だったのか異常だったのか、どっちだったのか、と。
 
 結論はごく簡単で、ゴッホは異常にして正常な人物だったのだ。ゴッホはそうした矛盾を抱えた存在だったのだ。それ故に、彼は一方で美を目指す高い志を持ち、健全な視点で自己の狂気を眺め得たし、同時に、彼は自らの狂気を制御しきれずに、突然に耳を切り落としたりした。
 
 ゴッホの日記を読めば彼がただの異常人ではなく、健全な知性を持っていたのは明白だ。彼の中には健全な知性と狂気とが同時にあった。
 
 だから、自らの狂気や異常、醜悪を冷徹に眺め、自画像として描く事ができた。作品は彼の狂気と正気との統一として現れた。ここにはおかしな事はなにもない。
 
 今述べた事は私はごく普通の事だと思う。天才芸術家というのはそういうものだろう(ゴッホのようにわかりやすい狂気を持っていない場合でも)。
 
 しかし、人々の通念においてはどうなっているか。福田が言及しているのもそれである。天才芸術家と言えば、一心不乱に「意識を失って」、作品を作っている姿が目に浮かぶ。しかし、芸術とは意識的なものである。人間の健全な知性が機能していなければならないものである。芸術家におけるインスピレーションというものは確かに存在するが、それは芸術家の知性によって吟味され、計算されて表現されなければならない。
 
 だが同時に知性的に計算された表現の中に無数の無意識的なものが入り混じってくるのもやはり芸術家である。しかし、そうだとしても、芸術家が完全に無意識的だという事はありえない。
 
 福田は上記の文章の後でこう書いている。
 
 「ぼくはひところひとびとが騒いだ特殊児童の絵や作文のことをおもいだす。それにしても一流の画家たちが奇怪な絵のまえに立って讃嘆のことばを発し、そこにはついに自分たちの及びもつかぬ天才の顕現がある、といったのは、かえりみれば苦々しいことであった。このひとびとはいまだに狂気と天才との区別がつかないのであろうか。」
 
 ここで福田が言っているのは、私が説明してきた事と同じだろう。また、これは小林秀雄の山下清批判ともぴたりと重なる。
 
 福田は特殊児童を馬鹿にしているわけではないし、小林秀雄も山下清を馬鹿にしているわけではない。ただ、彼らを天才芸術家だと認めるのは間違っていると言っているだけだ。
 
 福田や小林は、芸術というのは、あくまでも人間的な知性が関与していて、そこに一つの美への道が理性的に辿られなければならない、と信じているだけである。そしてまた、同時にそこには理性とは違う無意識的なもの、ゴッホにおける「狂気・異常・醜悪」といった問題が絡んでくる。芸術においてはこの両者が統合されなければならない。
 
 しかし、そういうものは「特殊児童の絵や作文」には存在しない、と福田は言いたいのであろう。
 
 最近で言えば「サヴァン症候群」の人は天才だ、などと言われたりする。実際、サヴァン症候群の中に天才はいるのかもしれない。ただ、私が恐ろしく感じるのは、「サヴァン症候群の人は天才だ」という時、そう言う人は天才というものを自分達とは関係のない怪物のようなものとみなしているのではないか、という事だ。
 
 狂気と天才の区別がつかない、というのはそういう事だろう。モーツァルトがいかに、自己の中から音楽が無限に湧き出てくる天才だったとしても、彼が理性的に音楽というものに関与する、そうした普通人とも一致する精神が存したからこそ、我々は彼の音楽に入っていく事ができるのだ。
 
 確かに、凡人である我々から見れば天才は到達不能の高山のように見えるかもしれないが、実際にはそうではない。彼はあくまでも人間であり、悩んだり苦しんだりする存在だったのだ。また、そうした普通の知性が、芸術作品を作る際に作用した事が、我々にそれを鑑賞し、そこに共感する道筋を作っている。
 
 特殊児童の絵や作文といったものの中には、確かに「天才的」なものもあるだろう。実際、私は、精神を病んだ人が描いた絵を見て、(天才的だ)と感じた事がある。しかし、それは本物の天才とは違う。本物の天才は、自己を冷徹に見つめる理性を持たなければならない。
 
 ゴッホは無意識になって一心不乱に絵を描き殴った天才ではない。彼は自らの存在、その狂気をはっきりと認識する理性を持っていた。その理性を作品に参与させたからこそ、その作品は彼の主観(狂気)と客観(理性)が統合されたものになっているのだ。
 
 しかし、世間の人はそんな風には考えないだろう。彼らにとって芸術とはせいぜい、生活を飾る装飾品として機能すればいいといった程度だから、天才というのをたまに面白がるぐらいでいいのである。
 
 そしてまた、小林や福田の言った事も「障害者に対する差別だ」とでも言えば、彼らの市民的良心は満足されるわけである。彼らは芸術というものを心の底では軽蔑している。だから天才ではない人間を天才にしたり、天才を凡才に引き下げたとしても、どうでもいいわけだ。
 
 「小林と福田は障害者を馬鹿にしている」という風に、人々は切り捨てる事が可能だと考えるだろう。そこで芸術そのものを一緒に切り捨てたとて、彼らは一向に困らない。そんなに真面目に絵画を見ているわけでも、小説を読んでいるわけでもないからだ。
 
 私は、私に対しても「あなたは障害のある児童を馬鹿にしている」と言われるだろう、と予測している。それについて先回して言っておくならば、「特殊児童は天才ではない」と言う事は、特殊児童の権利やその存在を蔑ろにするのとは違うという事だ。
 
 逆に言うならば、特殊児童というカテゴリに入れられた人間でも、自他を冷徹に見つめる知性を持った個人であるならば、天才になる事は十分可能だろう。ここで言及されているのは、あくまでも天才とは何かという話なのだ。
 
 しかし人々はそもそも天才などに興味がないので、彼らは天才を違う遊星を飛んでいる宇宙人か何かだと思っている。彼らは天才の作品を外面的に、興味本位でしか楽しめない。彼らは天才の作品を内面を通じて参与する事ができず、それ故に芸術作品それ自体から疎外される。
 
 芸術作品から疎外された彼らは、かえって作品の方を貶めようとするだろう。一見それを崇拝しているような時でも、彼らはそれを心の底では軽蔑し、自分とは関係のないガラクタとみなしている。
 
 こうしてこの世の天才はよくわからない宇宙人であり、彼らはもともと「才能」があったから仕方ない、自分達とは何から何まで違うのだ、といった話になる。誰を天才にして誰を天才にしないかもただのお遊びでしかない。全てが外面的にしか見えないのだから、狂気と天才も同じように外面的に眺めるだけだ。
 
 彼らにとって天才とはせいぜい、耳目を楽しませる外面的な作品を作った人に過ぎない。こうなれば至るところで天才が噴出してもおかしくない。
 
 こうした人々は天才と呼ばれる人々を次々に消費していくが、天才がその作品に込めた内面的な宇宙(ゴッホで言えば狂気と理性的精神の統合)に一つの存在として参与していく事、そうした事は決してありえない。彼らは外面から外面へと移行して、世界を外面的なものとみなし、自己を外面的に眺めて、それ以外には世界は存在しないのだと断定し、その世界だけで十分満足するだろう。

 天才とはそういうものではない。しかし、天才が我々とは無縁の「宇宙人」である方が、天才が行った粘り強い努力をしなかったと、我々凡人が糾弾される事はないのだから、その方が我々凡人にとっては都合が良い、という事もあるだろう。

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