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パスカルの信仰について

 パスカルの「パンセ」を読み返しているが、「パンセ」は、おそらくはパスカルの意図に反して、様々な知性・思考の宝庫となっている。パスカル本人は最後にはキリスト教に服し、そこにたどり着くまでの道程を全て焼却したかったのかもしれないが、彼が流星のように宗教にたどり着き、冥府に至るまで、彼がばらまいた知性や思考は、科学・数学・哲学といった様々な功績となって残された。
 
 現世に生きる凡人である我々は時に、パスカルのような天才が死ぬまで数学に従事していてくれたら、とか、死ぬまで哲学をしてくれていればいかに多くの創見が得られただろうか、などと考えてみる。だが、それは凡人である我々から見た限りにおいて、有益だと見られる知識をパスカルという一個の運命から引き出そうとしているだけに過ぎない。
 
 天才には天才独特の運命があるものだ。パスカルは、歴史上もっとも優れた頭脳を持つ人間だったかもしれないが、彼は自らの理性があまりに強烈すぎるが故に、それと決別しようとした。
 
 それは彼が彼の半身を打ち倒そうとする徹底的な戦いだったのかもしれない。私は、以前は簡単に、「パスカルは最後にはキリスト教に入った」という風に考えていた。
 
 しかし、私自身がパスカルが死んだ年齢に近づいて、かつてとは違う風にパスカルという人物を眺めている。私はこう考えている。パスカルは遂に、神を信じられなかった。ただ、彼は神を、キリストを信じようとする戦いをやめなかった。
 
 私は、愚かな弱い人間ではあるが、平均人よりもおそらくは理性の強い人間であろう。…パスカルほどでないにしても。私は私の脆弱な経験と照らし合わせて、パスカルという一個人を想ってみる。
 
 理性というものは、決して、その人間から離れる事はない。愚かな人間は理性から見放されているゆえに、理性が生み出す様々な苦悩や葛藤といった問題をある意味で解決している。それは苦しみもがく人間が、昼寝している野良猫を羨ましく思うようなものだ。
 
 「パンセ」にはパスカルの世界省察と共に、彼の信仰に対する論理的証明が溢れている。私は、不思議に思う。神を、キリストを信じなければならなかった男が、何故、自らの信仰を様々な論理によって証明し、更に、他の宗教よりもキリスト教が一層優れている事を理屈によって証明しなければならなかったのか。私は彼の信仰が論理という筋道を辿っている事を注視したい。
 
 当然ではあるが、理性は論理を生んでも、心情を生み出しはしない。「神を信じなければならない」という理屈は「神を信じる」という心性そのものを生みだしはしない。また、神を信じるという心情が、「何故、私は神を信じなければならないか」という論理を必須とするわけではない。
 
 私は「幼いイエスの聖テレ-ズ自叙伝」という聖女の自叙伝を少しばかり読んだ事がある。そこには確かに信仰を抱いている女性のイメージが存在した。しかし私はこの本を面白く読めなかった。そこにあるのは夢見がちな少女が、自らの資質に従って、"ごく自然"に神を信じているという、そうした姿だった。
 
 聖テレーズは本当に神を、キリストを信じていたのだろうが、私には理性を欠いた、ごく自然な信仰の態度は尊敬に値するとは思えない。逆に言えば、私がパスカルを読みながら感じていたのは、信じようとして信じ切れない、自らの理性を欺く事ができない一個の天才の頭脳だったのではないか、という気がする。
 
 パスカルはキリスト教が何故最もすぐれた宗教であるかを"論証"する。パスカルは何故、神を信じなければならないかを"論証"する。何故、そんな風に論理に頼ろうとするか。パスカルが不信者や懐疑論者に苛立つのは、パスカル自身が不信者であり、懐疑論者であるからだ。パスカルは自分自身を神に向かうように説得する為に、天才の頭脳を駆使して様々な論理を発明した。
 
 それらはしかし、文章の上では、キリスト教を信じきれない「他人」に向けられたものとして現れてきた。パスカルは自らの半身をそれと知らず、彼の外部に見ていた。
 
 パスカルの信仰とはそのようなものであり、彼の不信と懐疑に満ちた優れた頭脳は最後まで働き続けた。彼の神学への傾倒は、彼が自らの強烈な理性を否定しようとする試みであり、理性を信仰に置き換える為に、理性の"論証"を利用とする終わりなき戦いだった。パスカルという一個人は、そのような戦いの途中に死んだ。人は常に戦いの途中で死ぬ。見事な人生の終わり、などというものは私には存在しないように思われる。
 
 私は、キリストの最後を想ってみる。キリストの最後の言葉は「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、どうして私を見捨てられたのですか)」だった。キリストその人もまた、死の間際においては生きて苦しみ、信じきれなかった。彼は苦悩していたのだった。
 
 神を信じきれなかったキリストは死後に「復活」する。旧約聖書と違って、福音書の神はもはや喋らない。救済は、死後と沈黙の領域によって繰り広げられる。生きている時には苦悩と葛藤の中にいた存在は、死後において浄められ、復活する。

  不信者パスカルもある意味では苦悩したキリストに似ている。私はパスカルが悟りを開いた、などとは考えない。彼も一人の人間だったのだ。そして彼は天才故に、凡人以上に苦悩した。
 
 ※
 パスカルが何故、その強烈な理性を否定して信仰の道に入らなければならなかったか、そのヒントもまた「パンセ」のうちに現れている。
 
 それは何かと言えば、「パンセ」の内に出てくる「宇宙」という言葉だ。強すぎる理性は、狭い世界に閉じこもっていられない。理性は徹底的に、限界まで運動していく。それ故に、人間のちっぽけさ、虚しさが徹底的にあぶり出され、それを救う者としての神が登場してこざるを得ない。
 
 シモーヌ・ヴェイユの「重力と恩寵」は「パンセ」に似た書物と言っていいだろう。二人共、虚弱体質であり、身体が弱い分、彼らの理性は野を駆け、海を渡り、宇宙に至る。彼らの思考が宇宙的なのは彼らの身体の虚弱と関わりがあるように私には思われる。
 
 宇宙、空間、時間といった巨大な理性の探索する世界の中で、人間のちっぽけさ、虚しさ、弱さが現れてくる。パスカルのような人間は、世俗的な小さな事で満足する事ができない。むしろ、そういう小さな事が何であるかを徹底的に洞察し、それらの限界まで到達する。するとそれらは領域は有限で、小さな世界に見えてくる。そうなるともうこの小さな世界に耽溺する事はできない。
 
 パスカルは神は「隠れている」事を強調している。何故、神は隠れなければならないか。それは、神が偉大であり、「全て」である為だが、神が隠れていなければならないのは、パスカルやシモーヌ・ヴェイユといった人間という種の中では天才の部類に入る人々ーーそうした人々の「理性」に見つからない為なのだ。
 
 理性によって探索され、発見され、洞察されてしまえば、神の存在もまた限定的なものとなって、それは人間的な水準の、限界あるものとなってしまう。だから神は隠れていなければならない。隠れているからこそ、憧れ、指向し続ける事が可能になる。神は理性の探索から逃れ続けている。しかしおそらくは神を理性の外に逃がすのも、理性の見えざる仕事なのだろう。
 
 パスカルにおける思考の宇宙性、人間の小ささ、虚しさ。もはや宇宙を包み込む思考にすら飽いた時、この天才が指向したのは思考を包む、もうひとつの見えない宇宙、すなわち「神」だった。
 
 「空間によっては、宇宙が私をつつみ、一つの点のようにのみこむ。考えることによって、私が宇宙をつつむ。」(「パンセ」p226 中公文庫 旧版)
 
 上記のパスカルにおいてはまだ、教養と知性の最大限の拡張としての思考の存在意義が信じられていたが、やがてこうした思考では飽き足らなくなってくる。思考を包むもう一つの存在、「神」を彼は指向するようになる。
 
 ※
 パスカルの信仰とはそうしたものだったと私は思う。「パンセ」は紛れもなく歴史の上に残る天才の書物であるが、それは彼の運命の軌跡を描いたものであり、悟りを開いた賢人が真理を語った言葉ではない。
 
 私達のまわりには真理の託宣をくれる通俗人が溢れている。彼らはすぐに答えに到達してしまうので、どのような運命にも出会う事はない。彼らには問いがないから、答えも存在しない。
 
 私はパスカルの運命の軌跡を遥かな流星を眺めるように眺める。そして不信者の自分自身を天空からの視線で地上に見出し、私が私を生きなければならない悲しみを感受する。私とはこれなのだーーだが、仕方あるまい。私は空を見上げる。流星は消えている。
 
 パスカルという偉大な天才が様々な方向に放った知性の数々は人類の至宝なのかもしれないが、パスカル本人にとってはそんな事はどうでも良かった。そこには一つの"人生"が存在した。私は、パスカルが神を心から信じたとは信じていない。ただ、彼は神を信じようとした。その為に苦労したのだった。
 
 神を信じるという、おそらくは同時代の周囲の凡人ならば簡単にできる事が天才の彼にはできなかった。彼はその為に精密な論理を組み上げてみせた。私はそれを読んで、神を想わず、パスカルという一個人を想っている。そしてできれば、パスカルという一個人、その存在の向こう側に「神」を見て取りたいと思っているのだが、おそらくそれは叶わないだろう。
 
 パスカルは一つの運命を生きたのであって、「パンセ」という書物には彼の戦いが刻印されている。これは人生を豊かにする教養書ではない。そうではなくこれはパスカルという一個人の運命が刻印されている書だ。これを読んで人生は豊かになりはしない。ただ、これを読んで、若干の人間は自らが自らの「人生」に入っていく事を余儀なくされるというに過ぎない。
 
 自分以上に苦しみ、もがいた人がいる事を知ってはじめて人は、自らに苦痛を与える道を手探りで進んでいく事が可能になる。一つの本が他人に与える影響とはその程度のものであって、「自己」が存在しない人間にはどんなカンフル剤も効かない。
 
 「パンセ」のような書物は人々への応援歌を歌ってなどいない。ただそれは一つの実質としてはっきり存在している。しかしそれが単なる観念ではなく、一つの重量として存在する為には、それをそう意識し、理解しようとする読み手が必要とされる。
 
 神を読んだパスカルを読む我々ーー時が経って神の存在は希釈され、世界はもう全て干上がっているかのようだ。しかし「パンセ」を通じて、一個の運命が紛れもなく存在した事を我々は意識し、理解する事ができる。そしてこの書物は、我々の知性の遥か上を、長い年月通り過ぎている。だがパスカル本人にとってはそんな事はどうでも良かったのだろう。彼はもっと「高いところ」を目指していたから。



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