ヤマダヒフミ

小説  ブログ https://yamadahifumi.exblog.jp/ なろう…

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空港

 私は空港職員をしている。年齢は56才だ。  私が空港職員を志すきっかけになったのは、二十代の頃、当時付き合っていた彼と一緒に行った海外旅行だった。もっとも、私の旅行は、旅立ちの空港でほとんど終わっていたと言った方がいいだろう。  私達は空港に行った。私は空港で、夕日を見た。大きな通路を歩いている時、滑走路の向こうで輝く夕日を見た。つまらない事に思われるかもしれないが、私はその風景にひどく感動した。彼は、じっと夕日を見つめている私に「何してるんだ、急がないと」と言った。私

    • 福田恆存の一文から「芸術の天才」について考える

       最近、福田恆存を読んでいるが(そうだよな)と思う事が多い。福田の言っている事は、芸術というものを通ってきた人間からすれば常識的と感じるが、果たして福田はまともに読まれているのだろうか?。私は実際読んで、その疑念を増した。    「私小説のために」という短文の中に次のような一節がある。    「ゴッホの末期の肖像画を見たまえ。それは醜悪であり、狂気であり、異常である。だが、自己の狂気と異常とをかほどまでに透視し、表現した芸術家ゴッホの眼は、はたして狂っていたか、異常であったか

      • 走る

         僕は川べりを走っていた  僕はまるで自分を十四才かのように感じていたが  既に四十の齢を越えていた  少しも大人になる事ができず  ああだけはなるまいと誓った大人になりおおせて  川べりを走っていた    川べりには様々なものがある  植物、赤い花、空、雲、テニスをする老人、犬を散歩する人、ランナー、鴨  それらは夕暮れの金色の光に包まれて  輝いていた  あたかもクロード・ロランが描いた至福の風景のように    走る事で何が得られるわけでもない  走る事で何が見えるわけで

        • 近代文学者としての福田恆存

          ※有料記事ですが無料で最後まで読めます。金銭に関しては投げ銭です※  最近、福田恆存を読んでいる。福田恆存は面白い。    福田は「保守主義者」のレッテルを貼られているが、実際、どのあたりが保守主義者なのか、判然としない。逆に言うと、今の「自称保守」はあまりにもわかり易すぎる。    私は現代の政治党派が、自分達の都合で小林秀雄や福田恆存を担ぎ上げるのに嫌悪感を抱いている。小林や福田が生きていればまず間違いなく全面的に嫌悪したであろう人々が、小林や福田を担いで騒いでいる。

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          死んだミューズ

           福田恆存の「批評の悲運」というエッセイにこんな文章がある。    「もし近代日本の作家たちのうちに美を探ろうとするなら、それはミューズへの情熱そのものの美しさ以外にありはしない。」    福田はこの文章に続けて、近代日本の作家の作品それ自体は美ではなかったが、少なくとも美への渇仰はあった、と説明している。    私は福田の文章を読んで、嘆息せざるを得ない。2024年の日本という国で「ミューズ」なんて言葉を言えば、誰でも失笑するだろう。まあせいぜい石鹸の商品名として思い当たる

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          何故、政治は「神」なのか

           現代社会において真面目なもの、真剣なものとは何かと言えば、「政治」しかない。政治だけが人々が真剣になる唯一のもので、その他のものは趣味であり、お遊びであり、装飾でしかない。     私は文学というものを中心に考えているが、文学などというのはもう誰も興味を持っていない。最近の芥川賞関連なんかを見ると、「文学の専門家」が文学に大して興味を持っていない図がよく現れていると思う。    文学とかアートとか、口先で言う人間が存在する。そうした人達はそれを趣味的なものとして取り扱ってい

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          福田恆存に学ぶ

           最近、福田恆存を読んでいますが、面白くて、色々と勉強になっています。    福田の感想については後に置いておくとして、まず自分が思ったのは(これを今の自称保守が読むのは無理だな)という事です。福田恆存と言えば「保守主義者」のレッテルが貼られていますが、その関連で読んでも、さっぱりわからないだろうと思います。    私からすれば、福田恆存は「保守主義者」である以上に、「近代文学者」です。日本近代文学の文学者の一人であって、それ故に日本と西欧の板挟みになるという、漱石・鴎外以来

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          「弱者男性」とタル・ベーラ

           最近、「弱者男性」という言葉が流行っているそうです。どうも経済的に貧しい男性や人間関係が充実していない男性を指すようです。    それで、これに関してトイアンナという人が記事を書いていました。本も出しているそうです。まあ、流行りのワードに乗っかって本を出すライターなので、何も期待する事はありません。    こういう話に関しては何も思わないというか、(うんざり)です。(お前らなあ、世界では八億人も飢えてんだぞ)と小言の一つでも言いたくなります。    興味本位で「弱者男性」の

          「弱者男性」とタル・ベーラ

          分別ある大人になりたくない ーー好き・嫌いを越えてーー

           うろ覚えで申し訳ないが、ニーチェの書いたものに「男の成熟とは子供の頃の情熱を取り戻す事だ」と書いてあった。私は、(ニーチェもいい事言うなあ)と思った。    さて、最近、散々言われてきて、今や「常識」にすらなっている一つの事実がある。それはどんな事でも「好き嫌い」で片付けよう、という考え方だ。    ネットニュースを見ていたら、タレントの岡田准一が丁度、そういう事を言っていた。    ※※※  岡田は「教養とは知識をつなぎ合わせ、よりよい行動に結びつけていくチカラ」とコメン

          分別ある大人になりたくない ーー好き・嫌いを越えてーー

          「ハムレット」と「こころ」 ー近代文学の始まりにおける"宿命"ー

           福田恆存に「人間、この劇的なるもの」という評論がある。これは福田の文章の中で最も優れているものではないかと思うのだが、その中で福田は、近代文学というものはその始まりに位置する、シェイクスピア「ハムレット」、セルバンテス「ドン・キホーテ」の二作で、既にその可能性は徹底的に探索されつくされていた、と言っている。    何故「ハムレット」と「ドン・キホーテ」なのか。それは特に、作品内部に批評性が盛り込まれて、しかも作品全体が見事な統一を保った物語性があるから、という事になるだろう

          「ハムレット」と「こころ」 ー近代文学の始まりにおける"宿命"ー

          書評 「生成と消滅の精神史」 下西風澄・著

           下西風澄の「生成と消滅の精神史」を読みました。書評を書いていこうと思います。    まずこの本はどういう本でしょうか。「精神史」とあるように、人間の精神の歴史を取り扱った本です。この場合の精神とは、心・内面・意識といったものです。ただ主に取り扱うのは哲学なので、哲学的に取り扱われる意識というのが、この本における「精神」に最も近いかと思います。    もっとも、著作中では「精神」という言葉よりも「心」という言葉が使われているので、以下では、「心・意識・自我」といった言葉を使っ

          書評 「生成と消滅の精神史」 下西風澄・著

          賢くない人に賢さを売りつける商売 (千葉雅也「センスの哲学」のレビューを読んで)

           年間読書人さんの千葉雅也「センスの哲学」のレビューを読みました。だろうな、というか、千葉雅也ってそういう感じなんだろうな、と思いました。    私自身は千葉雅也や東浩紀といった人にそもそも興味を持てませんでした。(多分、偽物だろうな)という事でスルーしていました。世界には他に読むべき本がたくさんあるので、現代の偽物と付き合って時間を浪費する事もない、というスタンスでした。    最近、意外だったのは、マルクス・ガブリエルという日本のメディアが持ち上げているドイツの哲学者が、

          賢くない人に賢さを売りつける商売 (千葉雅也「センスの哲学」のレビューを読んで)

          パスカル「パンセ」の一文から考える芸術の本質

           パスカル「パンセ」はおそらくは著者の意向と異なって、様々な方向に、彼が見つけた真実の光を放っている。    パンセ482の文章は、私には芸術の本質を見事に語った短文のように見える。しかしパスカルは実際はここでは芸術について言及しているわけではまったくない。    ただ、私がそう読み取った、というだけの事だが、パスカルの異常な知性の洞察は様々な方向に光を放っている為に、私がそのうちの一つの光を感受し、延長して考える事も許されるのではないか、と私は思う。    「神は天地をつく

          パスカル「パンセ」の一文から考える芸術の本質

          教養(歴史・世界)が学べる本を紹介してみる ①ヘーゲル「歴史哲学講義」(岩波文庫)

           前に、「一冊で教養が学べる本」といったものを批判した。今回はその反対に、教養が学べる本を紹介してみよう。    もっとも、教養を身につけるというのはゲームの装備品のように身に着けられるものではない。それはどっちかと言うと登山に近い。しかも、山の頂点に登って終わりではなく、尾根から尾根へ渡っていく終わりない登山だ。ここで紹介する本はその入りにはいいだろう、というような意味だ。    一番目の本は、ドイツの哲学者ヘーゲルの「歴史哲学講義」だ。私は友人二人にこの本を勧めたが、二人

          教養(歴史・世界)が学べる本を紹介してみる ①ヘーゲル「歴史哲学講義」(岩波文庫)

          朝三暮四氏のなろう批判について

           自分は「小説家になろう」というサイトを利用しているのだが、最近はどうもこのサイトは人気がなくなってきたな、と思う。使っている肌感覚の話だが。  それで興味本位で「なろう批判」でウェブ検索してみたら、朝三暮四という方のなろう批判をしている記事が目についた。これを読んでみると、非常に真っ当な「小説家になろう批判」になっていた。正直に言って、自分はネットでここまでまともな批判がお目にかかれるとは思っていなかった。  言っている事は全部もっともだが、例えば 「⑩大衆読者に対し

          朝三暮四氏のなろう批判について

          パスカルの信仰について

           パスカルの「パンセ」を読み返しているが、「パンセ」は、おそらくはパスカルの意図に反して、様々な知性・思考の宝庫となっている。パスカル本人は最後にはキリスト教に服し、そこにたどり着くまでの道程を全て焼却したかったのかもしれないが、彼が流星のように宗教にたどり着き、冥府に至るまで、彼がばらまいた知性や思考は、科学・数学・哲学といった様々な功績となって残された。    現世に生きる凡人である我々は時に、パスカルのような天才が死ぬまで数学に従事していてくれたら、とか、死ぬまで哲学を

          パスカルの信仰について