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反逆者、富士山 【前編】

【あらすじ】13372
2024年1月3日に発生した近畿地方東海道沖地震が引き金となり、同月31日富士山が令和の大噴火を起こした。
あれから10年、静岡市で高校時代を共にした日倉浩太(28)達はバラバラの道を歩んできた。しかし浩太にはどうしても見つけたいものがあった。
それは、なんの変哲もない当たり前の日常の風景である。すべてが溶岩の底に埋まった。いよいよ記憶の中のものすら消えつつある。
あの日、東京に上京していた親友、水岡賢(28)なら何か持っているかもしれない。一縷の望みに懸け会いにいくも、賢は富士山を憎み10年間時が止まったままだった。

【前編】黄色い青春
【後編】カラフルな雪

 【前編】黄色い青春


この作品には、富士山の描写が含まれます。ストレスが生じる恐れがあります。ご注意ください。

〜1〜

のっそりと玄関から出てきた彼を目にした時、僕は目を疑った。
「10年間時が止まったままだから」そう聞いていたから。
僕はてっきり、髪の毛ボサボサ・髭ボウボウのハエがたかって黒く汚れた、そいういうタイプの旧友を想像していたのに。

それが一体どうだろう?

キリッとしたメガネを鼻の上に引っ掛けて、髪は短くさっぱりと整えられていた。
「あ、賢? 水岡くん?」
"水岡くん"なんて呼んだのは何年ぶりだろう。もちろん、"賢"と声をかけること自体、10年ぶりなのだけれど。

賢が「ん?」と振り返る。
あぁ、この感じ。賢は振り返る時必ず「ん?」と声を出すのだ。首をゆっくりとこっちに向けてから、声を出すのだ。

あぁ。これだ。
賢だ。水岡賢だ。「久しぶり」変わってないな、全然。
心なしかふくよかになったくらいだろうか。

「……ああ、偶然」
「良かった引っ越してなかったんだ、表札なかったから」
「うん」と言いや否や賢が歩き始める。

10年ぶりの再会。果たして賢が開口一番何を繰り出してくるのかと思いきや、「……ああ、偶然」だった。

「あ、待って」
「……バイトだから」

明らかに避けようとしているのはわかる。
こんな深夜からバイト? ……なのは本当だとして。
こっちはそれを承知で来ているのだから、引き下がるわけには行かない。

ーー今更やめときなよ
1週間前、カフェラテをそっと置いて優香が顔をしかめた。
ーー多分、私たちの顔なんて見たくないはずだよ
僕自身、そうだろうとはわかっている。

忘れもしない10年前のあの日。
2024年1月31日。富士山が噴火したあの日以降、全てがバラバラになってしまった。
僕らの町は、マグマに焼き尽くされてしまった。
僕らの思い出は、火山灰の底に押しつぶされてしまった。

知らなかったのだが、火山が噴火すると火山ガスというものが噴き出すらしい。非常に有害で、地元一帯が立入禁止区域に指定されてしまった。
結局解除されたのは5年の年月が過ぎてからだった。

それでも僕は、賢に久々に会ってみたいと思ったのだ。
そして会って、見つけたいものがあったのだ。
だから。
「偶然。。。ではない、かな」
賢。僕は、お前に会いたくたくて、会いに来た。

「じゃあ運命?」
「え?」と思わず変なところから唾が出て、喉に引っかかった。
賢って運命とかそういうこと言う男だったっけ。

「……じゃないなら、またね」と歩を進めていく。

賢は変わった。
みんなが口を揃える。「あの日から塞ぎ込んでるんだよ」
でも普通に考えて、一番変わっているのは環境であって、賢は賢のまま。そう信じている。

「送ってくよ」
「……1人で行ける」
「ほら、俺も偶然、どうせ駅行くし、帰るし。運命だし」
「てっきり登山にでも行くのかと」

あ、忘れていた。
正確には忘れていた、というよりは気にしたことがなかった。
ふと、数時間前に閉店しているお店の窓ガラスの反射を見て、苦笑した。

まるで登山中かと思うほどの大きなリュックを背負っている自分の姿が映し出されている。
双眼鏡でも首からぶら下げれば、立派な登山者だ。

リュックからバナナを出して「食べる?」と聞いてみたが、「おやつじゃないからね」と一蹴された。
せっかく出したのに…。
仕方なく一口食べる。

ここで怖気付いていては、わざわざ来た意味がない。
家の前で7時間も待ち続けた甲斐がなくなってしまう。
正直な話、賢と再会できたあの瞬間、運命だと思った。

きっとこんなことを優香に言おうものなら、「会いに行っておいて運命だなんてバカなの?」と呆れられてしまうのは目に見えているのだが。
10年経ってももこの家に住み続けているという確証はなかったのだから。

インターフォンを押す勇気も出ず、一晩越す覚悟を決めた時。
玄関のドアが開いたのだ。

賢が今からバイトなのは本当なのだろう。
そうなると、やはり駅まで行く道すがらしか時間が残されていない。
今日を逃したら、もう会ってすらもらえなくなるかもしれない。

「寒いね」
「……夏じゃないからね」

「カメラ、持ち歩いてないんだね」
「……もう高校じゃないからね」

「いや、ほら、意外と星見えるんだなって」
「……昼じゃないからね」

「でも少ないね」
「……静岡じゃないからね」

「年明けたら10年だね」
「……カレンダー9回貼り替わったからね、世間では」

あと10日もすれば、10回目の貼り替えだ。
賢は覚えているだろうか。10年前のこの時期。
一緒に帰ったあの土手を。


〜2〜

カメラが光った。
シャッターが光ったのではない。カメラのレンズが光ったのだ。
オレンジ色の夕日を反射して、僕の目玉を撃ち抜いた。

「も〜11回寝ると〜、お正月う〜」
カメラを肩からぶら下げた男がのっぺり歌う。
18歳の水岡賢だ。
レンズの反射が僕の目にチラついていることは気付いていない。

僕はこの時間。
この学校帰りの土手が好きだった。
河川敷ではトランペットを練習している人がいて。
水面はキラキラまばゆく光ってて。
駆け回っている子犬と小学生の笑い声。

ーー10年前は、そっち側だったんだよ。
ケラケラと駆け回る小学生に向かってそっと心で投げかける。
浩太は目を細めながら思った。夕日が眩しくて。
高校にもなれば、部活がありこうして4人で帰る機会もなくなった。

「言ったね? じゃ夜しか寝ないのね?」
隣を歩く美咲が突っ込んだ。
「お正月には〜……、、、30回昼寝するけどお〜」
随分字余りを早口で詰め込むな、と苦笑しつつ僕も真似て歌う。

「も〜3回寝ると〜、クリスマスう〜」

今度は優香が突っ込んできた。
「それ何の歌? クリスマスの歌?」
へ?

あ、確かに。
言われてみればクリスマスの歌かもしれない。
「それともお正月の歌?」
いたずらっぽく優香が顔を覗き込んで来る。

高校3年生だけは、期末試験が早く終わる。
後期はほとんど学校はなく、年内に期末試験も終わるのだ。
中高時代ほとんど一緒に帰ることもなかったが、卒業目前になって再び揃って帰る機会に恵まれた。
「なんだかんだ言って、結局小学校の友達だよね」
優香が良くニィッと笑って呟いていた。

優香の歯並びが綺麗で、歯が白くて、こういう歯憧れるなと密かに憧れていた。
高校生になり、歯並びの矯正には100万もかかることを知った時には、やはり優香の歯は100万の価値があるのだと感心したものだ。

「僕? 日倉こ、うた」
ニヤリと返す僕の目を、再びチラチラ狙撃する。
賢が腹を抱えてバカ笑いしているせいで。
そんな僕の眩しさなどつゆ知らず、「バッカじゃないの」と呆れた優香にどつかれた。

「あそだ、俺達あっちだから」
どつきあう僕と優香に嫌気がさしたのか、変な気を使ったのか賢が口を挟む。
"俺達"の中に含まれたであろう美咲は思わず「へ?」と口と眉をねじ曲げる。

賢は「いいからいいから」と美咲をなだめつつ、「猶予はあと3回! 頑張んないと」と得意げにウィンクを繰り出してきた。

賢は昔からそうだ。
いつも一人で勘ぐって、いらぬ心遣いを施してくるのだ。
僕が優香と良い雰囲気だとでも思い違いをしているのだろう。

「別にそんなんじゃねえから!」
僕の言葉は、もはや賢の背中には届いていなかった。
「用って何よ」と突っかかる美咲をなだめるのにいっぱいいっぱいのようだった。


いざ、優香と二人きりになったところで何を喋れって言うのか。
4人でいるから楽しいのだ。
・・・だから余計な気遣いなんかいらないっつーのに。

「眩しいね」
優香が赤く染まった顔を隠すように、ポソリと言った。
後ろ歩きで「あ、こうすれば?」と提案してみる。
長く長~く伸びた2つの影がゆらゆら揺れている。
ちょっと前までは影も短かったはずなのに。
唯一の救いは、まもなく冬至だということ。
1日1日と、日が伸びて、影が縮んでいく明日ももうすぐだ。

「危ないよ?」と優香が得意げにサンバイザーを見せる。
「そんなの持ち歩いてんの、時代はミニマリストだよ?」
「眩しくない〜ッ」
きっとサンバイザーの下で、自慢の歯並びを剥き出しにして、微笑んでいるのだろう。

「ださっ!」そんなのつけたら顔見えないじゃん!

優花に睨まれて後悔した。
「嘘嘘、山姥にはピッタリ、その顔世間に晒さなくて済むもんね」
「はあ? じゃかっこいいサングラス買ってよ、クリスマスだし。山姥じゃないし」
「やだね!」

優香に追い回されてるこの感じ。
あぁ、懐かしい。
なのに、あっという間に息がきれる自分に虚しさを覚えてしまう。
もう10年の歳月が体力に表れる。皮肉だ。

「ねえ見られてる!」
唐突に優香が叫んだ。
思わず足を止めてみたのの、誰も気にしている人などいない。
これがいつもの土手だ。
別に高校生が駆け回っていても穏やかな時間が流れている場所。
それがこの空間だ。
10年経っても時々こんな時間に包まれてみたい。

「見えないの!? 冷たい視線」
大袈裟にキョロキョロと見まわして「誰? 誰から? 誰に? 誰さん?」とおどけてみる。
「え〜? 八百屋さんとかどっかのお母さんとか」
「どこ、どこにいんの〜」
「お天道さん」

優香の顔を赤く照らしてくれている夕日。
太陽って動いているのを感じたことはないけれど。
こうやって改めてみるとみるみるうちに沈んでいく。
悲しい気持ちになるから、余計に冬は嫌いだ。

「いっち番温かい眼差し感じるけど?」
沈みゆく太陽が切なくて、だけど温かくて。

「富士山」
優香が山頂を見ながら言葉を添えた。

僕が何よりこの空間が好きな理由。
「あ〜、それは。もっと一番。見守ってくれてるね」

夕日に照らされる富士山が、いつもこの時間を見守ってくれているからだ。


〜3〜

もし、もしも。
賢があの時のことを覚えていたら。またあの時みたいに笑い合えるかもしれない。

もうすぐ冬至。
もうすぐクリスマス。
もうすぐ、お正月。

「もーいくつ寝る……?」
賢の表情を密かに伺うが、暗くて見えづらい。優香の顔なら、サンバイザー越しでも容易に想像できたのに。

「……もーいくつ、起きれるとね」
賢が「あの日から時間が止まっている」と噂される所以はこれか。

「帰らない? 久々に」
「今家出たばっか」
「そっちじゃなくて」

賢の家に初めて訪れたのも、高三の年末だった。
「ジャーーーーーンッ!」と鼻高々にカーテンを開けた賢の背中越しに現れたのは、美しく組み立てられた都会の街並み。
しかしそれよりもなによりも、僕の目に飛び込んできたのは、真正面に小さく構えた富士山だった。

優花も美咲も一緒だったようで、目を細めて「眩しい〜〜ッ!」と歓声をあげる。
ずいぶん大きな窓だなぁ。

「ここまでくると富士山に見下されてるって感じはしねーよな!」
「見下ろされてるだけだから!」と美咲が賢の頭を叩く。

でも見守られてる感は残ってる。
その日以降、「東京なんて行くのかよ!」と袋叩きにしていた昨日が嘘のように掌返し。
僕も優香も美咲でさえも、東京からでも富士山がこんなふうに見えるのか、と脱帽したのだった。
いやはや、東京を侮っていた。

「もうすぐ皆バラバラだもんな〜」
別に東京を毛嫌いしていたのではない。
賢が東京の大学に進学してしまうことを惜しまずにはいられなかったのだ。

「山頂目指すルートはいくらでもあるから。それぞれの道で頑張ろ」
優香が100万円の歯並びを覗かせて胸を張った。

「って言うけど言うほどないよ、富士山でさえ4つでしょ登山道、ルート1から4」
「じゃあ誰が1行く?」
場所が違っていても、お互いに上を目指しているとわかれば、それだけで救われる。

すくっと一つの掌が掲げられる。
「俺は人が決めたルートは行かないよ」

「かっこつけないとやっていけないの?」
美咲が力を任せて賢の手を叩き落とす。

賢は痛がりつつも掌を突き出して「ルート5。己の道を切り開く」と満面の笑みで僕達を見つめる。
「無理だよん」
美咲が間髪入れずに毒づく。
「は、余裕。俺オールマイティーだから」

「とか言って一ヶ月もしたら景色なんか見ないでグースカ夢見てんだろ」
僕は知っている。賢はたとえ窓際に座っていようとも、窓の外は見向きもしない。
授業中は必ず昼寝をするような男だ。
いつか、ミュージカルを一緒に見に行った時なんて開始5分も立たないうちにいびきをかいて船を漕ぎ出して。
こういった席では前のめりになることすらマナー違反なのに、隣に座るこっちがどんな辱めを受けたことか。

「見張られてるよ〜? 富士山に」
と窓を開けた優香だが、外の空気が寒すぎたのかすぐに閉めて可愛らしかった。

それにしても高三の12月に家が決まっているなんて流石に気が早すぎるのではないか??
もう少し地元で一緒に過ごしても良いじゃん! と尋ねたのだが、賢の決心は固かった。
年明けたらもうほとんど学校ないし、こっちで色々準備するんだと張り切っていた。「即断即決、善は急いで思い立ったが吉日」らしい。

賢の新居からの帰り道。
唯一免許を持っていた僕が運転手。
案の定助手席の賢は絶賛爆睡中。
優香と美咲みたいに、運転手を気遣って起きていようとかいう心遣いはできないのだろうか?

僕は例の時間の土手の他に、もう一つ好きな道がある。
東名高速道路の御殿場付近。
「僕、東名好きなんだよね」

優香が後部座席から顔を覗かせて、
「え? ああ……! わかる!!」

ちょうどカーブを進んでいくと、富士山が綺麗に見え始めるところがあるのだ。
「景色が綺麗」

美咲が賢に「ねえ、ほら、起きないと見れないよ」と声をかけるも「うーん」と唸り声を上げるだけ。

やっぱり、富士山はこれだけ大きく構えててくれないと!
「おかえりって出迎えてくれてるよ。日本一の山が直々に!」
「ただいま」
「ただいま」
「んんん? もー着いた?」
瞼を擦りながらめんどくさそうに首をクリクリと動かしている。

静岡東京往復は、運転初心者にはかなりこたえたが、一瞬で疲れなど吹き飛んだ。


もう2度と、あの美しく綺麗で大きな富士山を拝むことはできない。
だけれど再び一緒にあそこに帰りたい。

「帰らない? 久々に」
勇気を出して聞いたこの一言に、自分の声が震えているのがわかった。
そして自分の声に、なぜか涙が込み上げてきた。

「今家出たばっか」
「そっちじゃなくて」

ズンズンと前を歩いていく賢は、もう何もかも忘れてしまったのだろうか。

「……そんなに寝たいの?」
寝たいから家に帰ろうと言ったわけじゃないんだけど。。
でも賢から質問してくれたことが素直に嬉しかった。
少なからず会話をしようという意思があるということだからだ。

「僕は別に、昼寝はしないよ〜」
「……昼じゃないからね」
そうじゃないって。

「星、いっぱいの星、見に帰らない?」
「……静岡じゃないならね」

「高校あったとことか、見に行かない?」
「……もう高校はないからね」

「じゃあ、いつになったら帰れそ?」
「……カレンダー9回貼り替わってからね」

ねえ、賢。本当に、
「ホントに、このままで良いの?」
「……なんとかなるよ」

ファミレスでホールとして働く賢を眺めながら思った。
結局賢が真正面を向いてくれることはなかった。

だけど、とりあえず。
10年ぶりに、横に並んで歩けた。
それだけで、良しとしよう。


〜4〜

「自分はあの時1人でこっちに来てたっていうのがね」
湯気が立ち上るコーヒーをそっと置いて、優香が座りなおした。

「そんなこと別に……」気にする必要ないのに。
冷まそうとふーっと息をかけただけなのに、一瞬で視界が白く染まる。
熱いのは苦手だ。メガネが曇る。
曇っているのは僕の性格と心だけで十分なのに。
だから何かと曇りがちな冬も嫌いだ。

僕ら4人のうち、賢だけは東京に来ていたので甚大な被害を免れていた。
とはいえ、関東地方にも相当の被害が出ていた。
被害で言えば、日本丸ごとだ。
噴火後2、3時間で東京でも火山灰が降り注ぐ。
飛行場はことごとく封鎖される。
静岡空港、中部国際空港に加えて、羽田も成田も。
風向き次第として、関西国際空港、伊丹空港、神戸空港も次々と取りやめになった。
電線に火山灰が積もって電気が行き届かなくなり、上下水道に火山灰が混ざり込み水道もストップ。
道路が使えなくなり物流もノックアウト。

一人暮らし間もない高校3年生が、一人で暮らしていくにはどれほどの苦難を乗り越える必要があったのか。

「別に美咲だってさ……」
ハンカチでレンズを拭いながら、この問答は何回目だろうと思考を巡らせる。
美咲だって、賢のことを恨んだりしているはずがない。

コーヒーが苦すぎたような、コーヒーを飲むのがもったいないような。
メガネをかけなおした浩太の視界には、どちらとも読み取れる優香の表情がクリアに見えた。
「でも付き合ってたならさ、実は喧嘩したままだった、とか色々あったのかもしれない」

優花がコーヒーを飲み干して。
「私さ、確信あったんだよね。寝てたら見れたの。富士山の。初夢、2024年1発目」
「あぁ、言ってたね」
「一富士だよ? 元日本一。絶対今年は最高の一年になるなって」
「これ以上ない根拠だね」

もっと日本一で居てほしかった。
なぜか声が続かなかった。言葉にならなかった。
本当に願っているのはただ、それだけ。
たった、それだけなのに。

別れ際、優香が言った。
「思い出したくて。久々にさ、当時流行ってたアニメとか色々。見返したの」
「何流行ってたっけね〜」
「面白かったよ。あ、怒るシーンでさ、火山が噴火する演出とか入んの」
「あ〜! そんなのあったね懐かし」

宿題で0点とって帰った時のお決まり演出。
でも確か、2024年時点でも、ヒロインのお風呂入浴シーンとか、廊下に立たされるシーンとかかなり減らされていたような。
餓鬼大将に殴られるシーンも、煙がモクモクして殴られているシーンは映さないとか。
日本の昔ながらの定番シーンが、こういう規制によってどんどん無くなってしまうのは寂しさを感じる。

「懐かしかったよ、流行語。『富士の病に犯された』」
あ〜! あったね、あった!
「あと『富士山封じ』『日本が謀反』」

流行語は、かなり企業の意向が反映されていて、本当に流行っている言葉がノミネートされてないじゃないか! なんてことはザラにあるとはいえ、当時を思い出すには有効だ。
特に印象に残っていたのは、もう20年も前になる2013年。
「今でしょ」「倍返し!」「じぇじぇじぇ」「お・も・て・な・し」の4連発。
うわ〜、もう20年も前なのか。信じられない。

「だけどね、どこ探してもないの。どこにもないの」
「ない?」
「18年も住み続けたいつもの街並み」

僕も何度もカメラロールをスクロールした。
スクロールしすぎて一時期指紋が潰れていたのには驚いた。

「ビックリした。いつも通りの日常って思った以上に撮ってなかったんだなって。毎日見てたのに、店の並び順とか、全然覚えてない。情けない」

そう、そうなのだ。
僕が賢に会って聞きたかったことはそこにある。

「無駄にあるのは、洒落たスイーツとダンス動画」
優香がアメリカ人になったかのようにオーバーに、恋ダンスとTTダンスとジャンボリミッキーの振り付けを踊り出す。
こんなに顔が沈んでいるダンスメドレーを見たのは初めてだ。

「僕もインスタ見返すと楽しくて。ほら、ハワイ旅行。海綺麗でしょ」
中学の卒業旅行で行った、家族とのハワイ旅行の写真。
カメラロールにもお気に入りで保存してある。
家族と行った最後の旅行。本当は高校卒業旅行はハンガリーに行く予定だった。
「もう別に良いって」と言ったのに、最後の家族旅行だから、と母が聞く耳を持たずに計画を立てたのだ。
どうやらハンガリーでも温泉が有名なのだという。
結局高校は卒業式すらなくなった。そして今では学校そのものも存在しない。
いつか行こう。

「ホントだ、綺麗!」
優香が写真を覗き込んで目を輝かせた。
確かにハワイはパイナップルが驚くほど甘くて美味しかった。一緒に食べたエビも大きくて、毎年卒業旅行に行きたいと願ったくらいだった。
今思えば、多分ハワイではしゃいだから、母は高校卒業での旅行も絶対行こうと決めたのだろう。
「楽しかったなぁ。一生忘れない」
「うん、すっごく楽しそう」

忘れたって良いんだよ、こんなの。思い入れないもん、どこだよこれ。
確かに最後の家族旅行は一生の思い出になっている。
でも、最後に過ごした1日は?
毎日過ごしたあの日々は?

全然思い出せない。
今になったら、母の声すら思い出すことができないのだ。

「わかってるよ? いつもの日常なんて。仮に残してても全部泥ん中。あ、マグマかな? 津波かな」
優香がニカっと頬を緩めて100万円の歯並び顔を覗かせる。

そう、それなんだよ。
「賢なら何か残ってるかもって思ってさ」
それで会いに行った。
結局、横に並んで歩くことしかできなかったけど。

横に並んで歩くことができただけで、十分幸せだった。
もう一生、並んで歩けないと思っていたから。

「あ、一緒に写真撮ろ?」
優香の回答なんか待たずして、セルフィーを起動する。
「急。でもいいね」
苦笑いする優香をカメラが映し出す。

「いつも記念。あ、バナナでも持つ?」
「持たない」

パシャリ。

「送って」
「今やる」

30手前の男女が道で自撮りなんて、側から見たらどう思われてるんだろう。
いつしか、自撮りの腕が上がった気がする。

これほどまでに、今の当たり前の日常を大事にしたいと願っているのに、テキトーな日々を送っている自分が嫌になる。
震災、コロナ、富士山噴火。
今度は隕石でも落下してくるかもしれなっていうのに。
結局だらしない日常に戻っている自分に嫌気がさす。

「優香さ。今日家出る時、旦那さんと何話して出て来たか。ちゃんと覚えてる?」


〜5〜

あ、もう2034年版のガイドブックが並んでる。
帰り際、書店に立ち寄ってふと気づく。
しかし手にとって漏れるのは、静かなため息。

かれこれ9回繰り返していることになるのか。

五重塔のイラスト、桜の綺麗な背景、舞妓さんや浅草の雷門。
華やかな表紙が彩られている。

なのに、なのに。
富士山がいない。
富士山こそ、ど真ん中を飾る日本の主役ではなかったか?

風呂上がり。
ガラガラとビール片手にベランダに出て思う。
この空気が澄んでいるこの時期なら、富士山が見えるはずではないのか。

どんなに目を凝らしても、その山が見えることはない。
ただ静かに、とうとうと東京の夜景が広がっている。

高校時代、好きだった女の子に告白をして撃沈した時。
賢が言った。
「女なんて、星の数ほどいるんだからさ」

美咲が言った。
時代遅れのポージングを添えて。
「バカじゃないの、そんなにいないでしょ。35億」
星の数は2000億個を超えるらしい。

優香が言った。
「あれらしいよ、肉眼で見えてる星は4000個くらいしかないらしい」

うーん。
いよいよこれは慰められているのかわからなくなってきたぞ。

「それでも太陽はたった1つしかないんだよぅ!!」

太陽を失った夜景には、瞬く星と煌めく電球が気まずそうに点滅していた。

「でもさ、もしアイツがホントに太陽なんだったら、日倉の顔が曇ることないはずだろ?」
こういうことを言える賢が、恨めしくもあり羨ましくもあった。


やはり外は冷える。
感傷に浸っている場合ではない、風邪をひく。
ビールよりビールを持つ自分の手がキンキンに冷えていく。

すごすごと部屋に戻って、優香との写真を見返す。

やっぱりバナナ持てばよかったなぁ。


時々ふと見返してしまう動画がある。
あの日のニュース映像だ。
実際に僕が見た映像ではない。なにしろあの日はネットなんか見られるような状況じゃなかったから。
情報が少ないくせに、余計な情報が錯綜していてそれどころじゃなかった。

動画の中のアナウンサーが原稿を読んでいる。
「先日の地震以降各地で寒い夜を……」
突然の速報のチャイムとテロップ。
「ここで速報が発表されました。富士山で噴火警戒レベル5、避難に引き上げです。今後も最新情報をご確認ください」
一瞬にして画面にデカデカと「噴火警戒レベル5」と表示される。
ご丁寧に点滅までしている。賑やかなニュース画面だ。

別の放送局でも同様だ。
「静岡県・山梨県は午後7:20分、富士山頂火口東側10キロに避難指示を出しました。順次誘導が開始しています」

「今日:夕方」と携えた富士山の映像が映し出される。
「日中の富士山です。火口付近、危ない場所には絶対に近付かないでください」
すでに富士山は、あの左右対称の神秘的な山ではない。
東側の斜面がごっそり削られたような。UFOが着陸したかのような大きな窪みが出来上がっている。

ニューススタジオには、専門家っぽいおじさんがアナウンサーの隣にスタンバイしている。
「噴火警戒レベル5は初めてですよね」
「はい。2021年ハザードマップが更新され、御殿場まで被害が予想されています」
この専門家、ネクタイは奥さんに選んでもらったのだろうか。
きっと奥さんは今頃目を輝かせながらテレビに齧り付いていることだろう。
子どもがリビングを喜んで走り回っているかもしれない。

「御殿場ですか」
「ただ、ただしですよ。どこから噴火するかわからないこと、偏西風で首都圏も火山灰や小さな噴石が降る恐れがあります」

画面が中継に切り替わり、避難所前にいる記者が映し出される。
まだ若く(と言っても今の僕と同じくらいか?)、辿々しく状況を伝えている。
「私は現在、浜松市の避難所に来ております。続々と避難者が到着しています」
きっと静岡放送局の若い人が叩き起こされて派遣されているのだろう。
この状況でどんなふうに説明しろというのか。

避難所に入っていく避難者達が映し出されている。
この中に知り合いがいるかもしれない。
この動画を見つけた時に何度も見返した。今更見返したところでどうにかなるものでもないのだけど。

「避難所の市の担当者によりますと、公民館や市街地へ避難している人、人々、あ、方々もいるとのことです」

あぁ、頑張れ。記者さん。

テロップが表示される。
「2024年1月31日 11時28分」

原稿を読み上げるアナウンサーが映し出される。
「SNSなどの誤った情報には騙されず、確実な情報の取得をお願いいた……」

チャイムと速報のテロップ。
「速報です、噴火速報が出ました。気象庁によりますと、先ほど11時28分頃、富士山で噴火が発生しました。火口は東側の山腹。今月3日に山体崩壊を起こした斜面付近とみられており、気象庁は詳しい状況を調べています。なお、近隣地域住人の避難は既に完了しているとのことです」

僕の鼓動が高鳴っているのを感じる。
全身の血液が目まぐるしく身体中の血管を駆け巡る。

「中継:現在の富士山」
こちら現在の富士山の様子です、とアナウンサーが話しているが画面はブラックアウト。
白く細い字で「自主規制中」のテロップ。

アナウンサーの声だけが懸命に状況を伝えている。
「山腹から真っ黒い噴煙がモクモクとあがっております。間も無く溶岩流、火砕流、火山弾など噴石の被害が予想されます。数時間で、首都圏でも火山灰が降り始めることが予想されます、応急処置として濡らしたタオルやハンカチを口に当てるだけでも対策を……」

突如鳴り出す噴火警報のアラート。
「噴火警報が出ました、神奈川県で警戒レベル5! 避難指示です!!」

真っ黒の画面が叫んだ。


〜6〜

朝7時にもなると、さすがに明るくなってくる。
もう少し早く明るくなってくれたら、冬も好きになれるのに。

バイトを終えた賢がほっとした顔で出てきた。
「風呂、行こ?」
強引かとは思ったが、こうするしかない。
賢の口が再び真一文字に結ばれる。警戒感丸出しだ。
もう2度と微笑みかけてくれることはないのだろうか。

それでも構わない。
たとえ嫌われるとしても。ストーカーだと警察を呼ばれるとしても。
後悔のないように生きていこうと心に決めた。

「始発で来たの?」
さすがの賢も今回は素通りできないようだ。
「終電で。待ってた」
「入れば良かったのに」
「入りに行こ? 風呂。あったかぁいの」
「いや、金落としてくれたら良いのに。あ、いや、ほら寒いし」
「こんくらい余裕、あん時と比べれば」全然大したことない。

まだ年末。
本当に寒い時っていうのは、骨の髄まで冷えてくる。
骨まで冷えた後にどれほど暖かいコートを着てももう遅い。
体が温まることはないのだ。

賢が黙って歩き出す。
「ちゃんと運動してる? 毎日何歩歩いてる?」

少し考えてスマホの歩数計を開く。
覗き見ると「今週の平均3776歩」だそうだ。
平均3000歩って少なくないか?
……バイト中は携帯を置いているからだろうけど。

それよりも3776って。
「なんか良いことありそう」

「んにゃろ」全力でスマホを振る賢。

なんだ、やっぱり賢は変わってないじゃん。
よかった。


朝の銭湯は、おじさんばかりだ。
のんびりとした時間が流れているのは心地よい。
そして、一晩越した今。この暖かい湯船によって自分の体が溶け出していくのを感じる。
幸せ。

ただ1点を除いて。

というのも、僕の目の前。白く塗りつぶされた壁が立ちはだかっている。
「真っ白だね」

まるで聞こえなかったかのように賢がぼーっとしている。
バイト終わりだから本当に聞こえていないのか?
「落書きしたくなるね。富士山でも描いちゃおっか」

「……あの3週間、蘇るね」
あくびをおさえて賢が呟いた。

「真っ白なのか真っ暗なのかわかんなかったなぁ」
「……お先は真っ暗」
「正直、真っ白というより黄色かったねぇ〜」
「火山灰、灰なのに灰色じゃないという」

灰色の定義変えた方が良いと思う。
確かに、木を燃やした後の灰は灰色だけど。火山灰の灰は全く灰色に見えないのだから。
コイツらのせいで、僕の青春は黄色く染まった。
高校時代は青かったけど。

「……そもそも灰じゃなくてガラスの破片だからね、火山ガラス。珪肺症を引き起こす」

火山灰は雪や雨のようにシンシンと降り注ぐというより、タイミングによって全然降る量が変わることに驚いた。
確かに最初は白というか灰色の火山灰が降っていたのだが、数時間で黒い灰が降り注ぐようになった。そして空気が塩味に変わるのだ。
雪より厄介なのは、雨が降ると重さが増すということ。
そもそもが重いのに、雨が降ろうものならバッタバッタと家屋を潰しにかかる。
排水溝なんてあっという間にふさいでしまうので土嚢に入れて処理していくしか方法がない。
「手とか顔とかすぐザラザラ。風呂、恋しかったね、髪とかベタつくし」

「……思い出しただけでムカつくし」
「あぁ〜〜〜幸せっ」
声が響き渡る。もう少し大きな声も出したくなる。
足を伸ばしてお風呂に入れる。
しかも賢と一緒に。。。

「やまびこだぁ。わっ!」
「……ダメ」賢が小声で戒める。

「東京だってね、やばかったでしょ?」
「0.5mm積もっただけで電車はお手上げ。車はスリップ、道路見えない。ワイパーかけたら磨りガラス。同時多発的に交通事故多発。雨降って除灰作業もやり直し」
「あ、多発って2回言った、多発の多発」
当時、線路にちょっと積もっただけでなんで電車動けなくなるんだ? と疑問に思ったのだが、どうやら物理的には走れたらしい。
線路には電気が走っていて、電車の位置情報を確認しているようなのだが、火山灰が積もると位置情報が確認できなくなり、走らせることができないのだという。
大都会東京もチョロいもんだ。

「……お前、まだ好きなの?」
「え、あ、山姥? そそ、すっかりサンバイザー似合う女になってるよ。ゴーグルとマスク生活慣れて化粧下手になったって」
「違う、裏切り者」

賢の真意はもちろんわかっていたけど、聞かれたくなかった。
どうしても誤魔化したかった。
でも、ダメだった。

「反逆者、富士山。非国民が」

まるで僕の顔を丸ごと真っ白いぬっとりしたペンキで塗りつぶされたような、そんな感覚だった。
顔からドロドロの液体が、ポタポタとゆっくり滴っていくような。

賢だって言ってたじゃん。
「昔言ってたじゃん、もう一人の恋人って」
「……そう思ってた。裏切られた。心底失望した」

そうなんだけど……。そうなんだけど……!

「お前も家族皆殺しにされたろ。俺らの故郷、焼き尽くされたろ。ううん、違う。一人の日本人の命を奪った。それを40万回繰り返した。時限式極悪連続殺人鬼」

「……うちの場合は直前の地震だけど」
「それ生き延びて管繋がってる何万人にトドメを刺した。残虐非道」

自分でも不思議だ。

そうじゃん。
そうだよね。
僕は一体、この後に及んで何を未練がましく想い続けているのだろう。


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【前編】黄色い青春
【後編】カラフルな雪  ←

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