オープン・エンディングを糾弾するよりも大切なこと
オープン・エンディングというものが今や批判の対象になっていると知って大きなショックを受けました。日本がまさかそんな社会になってきているなんて、夢にも思いませんでした。
僕がそれを知ったのは朝日新聞での「映画『怪物』クィアめぐる批判と是枝裕和監督の応答 3時間半の対話」という記事(有料)でした。
是枝裕和監督、ライターの坪井里緒氏、映画文筆家の児玉美月氏によるこの鼎談で議論されているのは、主に「クィア」をめぐる表現や発信のあり方についてであり、それはそれでとても意義の深いものなのですが、僕が反応したのは、第2部で是枝監督が「この 10年で、『オープンエンディング』に対して結末まで描かないでずるい、逃げていると批判されるようになりました」と語ったところでした。僕は仰天しました。
オープン・エンディングというのは映画などで登場人物が結局どうなったのかを最後まで描かない手法です。『怪物』もそうでした。
僕はオープン・エンディングの映画が大好きです。全ての映画がオープン・エンディングでなければならないなんてことは言いませんが、オープン・エンディングとそうでないエンディングを比べてどちらが好きかと問われると、迷うことなく前者と答えます。
是枝監督としてはむしろオープン・エンディングを心がけてこれまで映画を撮り続けてきたようですが、この鼎談では「昔は言われなかったことを随分言われるようになって、オープンエンディングはこの時代にはそう受け取られるんだなと思っています」と発言しています。
それに対して坪井氏は、オープン・エンディングを「観客に結末を投げている」という捉え方をしていて、「視点が高いなと思ってしまいます。『最後どうなったのかは皆さんが判断してくださいね』って言っているそっちは、じゃあどこに立っているんですか、本当に結末を決めましたか、って思ってしまいます。」と切り返しています。
これには僕は憤慨してしまいました。
監督がどう考えていたか、何を思っていたかなんてことは、僕にとってはそれほどこだわることとは思えないのです。
映画は選挙ではありません。選挙であれば政治家という「人」を選ぶわけですから、その人が何を考えてどう判断しているのかということをしっかりと見極めなければなりません。
でも、僕らが映画を観たり小説を読んだりするときには、作家を選んでいるのではなく、作品を選んでいるのです。何故、「お前はどっちの立場なんだ?」と作者に突き詰めなければならないのか、僕にはさっぱり分かりません。
前に note に読書について書いた文章で、僕はこんなことを言っています:
そして、僕は映画を観るのも同じだと思っています。
監督が全く意図していなかったことを含めてどれほどのことを読み取れるか ── それこそが映画鑑賞の醍醐味だと思っています。
仮にそれが監督が思っていたことから完全に外れてしまっている感想であっても全然構わないと思っています。それが映画体験だと思っています。
せっかく作ったのに、人によってそんな風にバラバラの受け取り方をされてしまって構わないのか?と問われると、はい、それで良いのだと明確に思っています。
と言うか、世の中にいろいろな人がいる限りいろいろな受け取り方が成立するのは当たり前です。それを阻止して作家の解釈を押し付けるようなエンディングこそ、僕にとっては興醒めでしかありません。
それに、人によってバラバラと書きましたが、同じ一人の人間であっても、映画を観た直後に思っていたことが、暫く経ってみると(それが数か月後なのか数年後なのかは分かりませんが)、「ああ、あの時はあんな風に思ったけど、そうじゃないのかもしれんな」などと思い直すことなんてよくあることです。
そんな観客に対して、どうして解釈の余地を残さない提示の仕方が必要なのでしょうか?
僕自身は映像作品を作ったことはありませんが、小説を書いたことはあります。何百曲か作詞作曲もしてきました(残念ながら、それらは多くの人に知られ、評価されるようなレベルにも環境にもありませんが)。
もしもそういう僕の作品を読んだり聞いたりして、僕が全く思いもよらなかったことを読み取ってくれる人がいたなら、それが僕の信念と真っ向からぶつかるようなものでない限り、僕は間違いなく、「ああ、そういう捉え方、そういう感じ方があるのか!」と驚き、そして喜ぶと思います。作品ってそういうものだと思います。
もちろん、映画や小説のような物語ではなく、つまり、僕が今ここで書いているような、何かを論理的に説くような文章の場合は、僕も少しでも自分の意図が正確に伝わるように、むしろ解釈の多様性を抑えて、できるだけ取り違えられないように、慎重に表現を選んで書きます。自分はこういう立場に立ってこう考えているということをしっかりと明らかにして行きます。
でも、映画や小説は、主張や評論とは違うのです。
映画監督や小説家は単純な何かひとつのことを伝えたくて物語を紡ぐのではありません。もし、単純な何かひとつのことを伝えたいのであれば、映画を撮影したり小説を書いたりしている場合ではありません。そういう場合は論文を書いたり演説をしたりするべきなのです。
何を言いたいかを必ずしも明確に、ひとつに絞って言えないからこそ映画とか小説とかいう形を採っているのだと思います。
だからこそ、作品から多様な解釈をすることこそがそれぞれの観客や読者の果たすべき努めだと思っています。そして、その余地を残すことが作家の良心でもあると考えています。
どう解釈すべきかは観た側が、読んだ側が考えれば良いのではないでしょうか?
自分たちの側では何も考えず、自分たちの感想を言おうともせず、最初に作家に対して、「お前はどっちなんだ?」と問い質すのだとしたら、僕にはそれは怠慢にさえ思えてしまいます。
自分はこういう風に解釈した、こういう風に読み取れる、ということを提示することこそが「批評」の仕事であり意義であると思うのです。
「いや、俺は批評家じゃないから、自分の解釈なんか述べない」と言うのであればそれも良いでしょう。でも、それならそれで、作家が何を意図していたかなんてことを突き止める必要がどうしてあるのでしょうか?
「どうしてそんな宙ぶらりんな描き方をするのか? お前はどっちの立場なんだ?」と言われたらなら、「世の中にはいろんな立場があり、いろんなものの考え方がある、というのがこの監督の立場なんだよ」と僕なら答えます。
そして、解釈を観客に委ねるからこそ、そこに余韻というものが生まれるのだと思っています。
余韻というのは、僕は観客や読者にあれこれと考えさせてしまうことであり、その考えてしまう時間の経過のことを言うのだと思っています。
「彼はあの後どうなったんだろうか」、「あれはあれで良かったんだろうか」、「あれって何を意味してたんだろう?」、「果たして僕だったらどうしていたか?」、「昔の自分だったら違った感じ方をしていたかもしれないな」、「しかし、深いな。よくまあ、あそこまで考えたな」などと、いろいろ思いあぐね、いろいろ考えてしまうのが余韻だと思います。
単純な「ああ面白かった」や「なるほど、よく分かった」の後には余韻なんてないのだと思います。
映画や小説は選挙演説ではありません。僕らは選挙演説を聞いているのではないのです。
恩田陸は小説『鈍色幻視行』の中でこんなことを書いています:
名作と言われるものは、一言で片付けられないことを巡って、作者自身がいろいろ考えるのと同時に、観客や読者にもいろいろ考えさせるものだと思います。そうやって作品は僕らの血肉となるのです。
作者の意図を探る前に、まずは自分はどう捉えたのかを自分に問うてみることが肝心ではないでしょうか? 作者は決して逃げてはいません。逃げていないからこそのオープン・エンディングだと僕は思っています。
◇
この文章を書くに至ったきっかけは、三宅香帆さんのこの note でした:
エンディングについてはこんなことも書いていました:
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