江戸時代の村共同体と百姓一揆

羽田恭一郎氏を編集長とする『MAJiRES! VOL.1 / マジレス!(2010年刊行) 』に投稿したレビュー論文です。
大学生最後の2010年1月辺りに書いた記憶があります。私が大学時代に学んでいた江戸時代の村共同体について書いて、最後に現代につなげています。
10年以上前ですが、今にも繋がる問題を書いているので、是非読んで頂ければ幸いです。


江戸時代の村共同体と百姓一揆
                     やま、
 
はじめに

2010年1月31日放送のNHKスペシャル『無縁社会~“無縁死”3万2千人の衝撃~』が各種インターネットメディアで話題になった。これが話題となったのは、共同体損失への関心が高まっているひとつのしるしではなかろうか。本稿では、現代の地域共同体のあり方を考える手助けになるであろう、江戸時代の村と百姓一揆に関する文献を紹介することで、番組が問題としていたような現代社会に関する問題への一つのアプローチを示唆する。
江戸時代は、見直しが進んでいる時代の一つであり、例えば幕末の外交に関しても意見が変わりつつある。一般の書店にもこれまでは批判される一方であった江戸時代について、評価してみようと模索する文献が並んでいる。江戸時代は知れば面白い時代であったと個人的に思っている。解禁政策(1)を取っていながら人口が増加し、そして初期資本主義(2)およびリサイクル社会が発達し、糞尿から髪の毛までを再利用していた時代であった。
この時代の共同体は「村」または「都市」の地域共同体が基本であった。今回は「村」とその行動の一つの「百姓一揆」に注目して述べる。交通機関も発達しておらず、全国共通の教育制度も整っていないため、地域、藩などによって「百姓一揆」の形態は異なり、例外も多々ある。本稿では特に村と百姓一揆に絞って議論を進める。
 
第一章 村
 
従来の議論では、村が幕藩からの支配および搾取を受けていたことから、村というものが幕藩との対立を中心に捉えられてきた。
一般的なイメージでは、悪代官が登場するような時代劇の印象が強いだろう。その背景には貧農史観を初めとする負のイメージが流布されていた。
しかしよく分析してみると、対立する一方でお互いに補完し合う面も有しており、江戸幕府中心の国家と町村共同体の民衆社会はバランスを保ちながら維持されていた。
 
第一節 幕藩と村
 
幕藩から民衆を縛った公儀の法令を見ていきたい。仙台藩の飛び地である近江国蒲生郡では、1644年(寛永二一)から幕藩体制の理念が顕著に見える法令が出され、主な内容は表1のようであった(3)。1698年(元禄一一)に旗本・板倉氏が領地の蒲生郡土器村に通達した法度も同種の内容になっており、キリシタン改めや紛争などが禁止され、公平な村運営がよびかけられており(4)、地域の秩序維持と徳川幕府が掲げた理念とを組み合わせた法度を出していた。幕府および藩は国家統治を行うのに対し、村および都市は生業・生活の維持発展の目的の行動を行うため、両者が矛盾し、対立する事もあった。
 
表1 仙台藩近江国蒲生郡の法令(1644年)
①五人組内でのキリシタンの詮索および宗門帳の作成
②山林の境界争いや水を巡る争いなど、他領との紛争の禁止
③街道を往来する他の大名の侍衆への無礼の禁止
④年貢や諸役の徴収に際して、庄屋・肝煎の指示に背く者、また、庄屋・肝煎の非分に関する訴え
⑤竹木の無断伐採の禁止
⑥頼母子講などの禁止
 
村側は様々な手段で幕藩に抵抗し、法度の形骸化を図った。近江国蒲生郡中野村では、1638年(寛永一五)に「隠田(5)」を隠し通す掟が、1658年(万治一)には頼母子講禁止令に関して、小百姓が生活できなくなるとして内々に継続させ、そのことが藩に漏れた場合には「村を挙げて詫び言を申し上げに行く」という誓い書が定められていた(6)。しかし、幕府や藩が制定した法度や刑罰に依存する点も多く、近江国野洲郡安治村の掟では、窃盗は幕府や藩に届け出るものの、作荒らしについては村掟で過料を課すと定め、犯罪の種類によって処理の方法を区分していた(7)。
幕府は村支配に関して、村役人に依拠して年貢・諸役を収納していた。村役人は百姓身分であり、彼らがいなければ統治機構として廻らなかった。彼らの中には武士身分に昇格したものや、名字帯刀が許されたものもいたが、藩でも似たような事が起こっていたようだ。
社会と経済の変化は、幕府・藩と民衆のみならず、住民同士の利害対立や社会問題を引き起こした。そのため、幕府行政にとって民意の重みが次第に増大していき、目安箱の設置やお庭番を利用することで、民衆の要求や不満の所在を知る必要があった。1787年(天明七)の江戸打毀しの際には、お庭番の「風聞書」によって民衆の不満や要求の探りだしが行われた。また、1841年(天保一二)に三方領地替えを撤回させる際にもお庭番が活用され、「天意人望に叶う」として将軍が中止を命じるまでになった(8)。後述する百姓一揆も民意の発露の一つであり、幕府や藩が慈悲の名の下に譲歩する場合もあった。これは体制維持のための行為であり、一概に民衆の為だとは言えないが、結果的に民意が反映される場合もあった。
以上のように、民衆は「村」という単位でまとまり(9)、幕藩権力に依存・共存するとともに、対峙していた。幕藩権力側も同様に、村を利用し自らの体制を維持しようとしていた。

第二節 村共同体
 
まず、渡辺(1994)を基にして、村共同体について見ていく。表2は、共同体としての村と土地所有に関する5人の歴史研究者の説明をまとめたものだが、共通しているのは共同体としての所有は山林・原地の所有でしかなかったことである。仕事が農作業という事もあり、基本的に協力しなければならないという必然性があった。特徴的なのは領主権力に言及している木村氏であろう。村組織の力について弱く捉えていると言える。筆者としては、領主権力に関しては地域による差が大きいため、全ての村を統一的に述べることはできないと考えている。
 
表2 渡辺(1994)による村と土地所有に関する諸研究者の考え
中村吉治 村落共同体を「農業を行うために作る集団」と定義し、それは家と村との2重構造を取るとする。土地の所有問題は「基本的な生産手段としての農耕地所有という意味で基本問題だが、その基本問題は、農耕地以外の生産構造の中における基本として位置づける必要がある」としつつ、具体的には、本家を中心に分家、被官、名子、小作などが結合した土地所有のあり方だったと主張している。
島田隆 中村氏と同様に、共同体の土地所有としては、「本家を中心とした土地所有」が基本であると考え、高分け分家の非独立性や小作人の地主への身分的隷属などを指摘している。
木村礎 農民の土地所有は、本百姓層においてもきわめて制限されたものであるが、「制限主体は領主であって、村落ではない」ことが重要であると指摘し、個々の村落は農民経営の相互扶助組織であるものの村内農民の所有の防壁としての機能はほとんど果たせず、むしろ全体として、領主権力の代行機関として農民的所有を骨抜きにする方向性が強かったとまとめている。
古島敏雄 通常耕地は個別占有の対象であったが、「林野と用水は村落共同体の管理の対象」であり、その管理の実権は「村落支配機構の上層に立つものの手に握られていた」と考えている。
深谷克己 公法的所持・私的所持・共同体的所持の三契機から考え、「共同体的所持は林野や原地など村民の共同用益にかかわる土地」においてのみ見られるとともに、「田畑、屋敷地における各農民の個別占有による公法的所持も共同体的所持の論理によって支えられる」のではないかとし、共同体的所持は公法的所持や私的所持に対して手強く対抗しながら衰退していくと述べている。
(渡辺(1994) 168~169頁より、筆者作成)
 
幕藩体制下の村の特質について、佐々木(1992)では、表3のようにまとめている。村は生活・生産の面での協業の機能を有しており、その側面には村が支配単位として扱われていた現実があった。幕藩体制は民衆を村ごとに管理し、村に土地と人の管理、年貢・諸役の上納、公儀法度の施行などを任せており、村側はその責務を果たすために、年貢を納めないことを理由とする追放処分や、家屋敷の売買の処理、破産宣告などを行っていた(10)。同時に、生産確保の為に用水・治水・山論(11)・草刈などの仕事を共同で行い、農事の日程、作業工程などの村の規定を作成し、稲作の村仕事的性格を強めていった(12)。内部では総本家・有力分家が「長(乙名)百姓」「年寄百姓」などの特権的身分を形成し、分家百姓を「平百姓」「小百姓」「脇百姓」などとし、差別的に扱った例も多く見られる。農業生産に不可欠な刈敷肥料や牛馬飼料用の草の採取原としての山野、水の管理・用益権、村政の運営権、村の氏神の鎮守の祭祀権なども独占・寡占し、村落支配秩序を作っていった。それに対して、十七世紀から十八世紀にかけて、小百姓らが経済的自立と身分的解放の動きなど諸権利を獲得する運動が起こり、村落の支配秩序は崩壊していった。そして、山野の用益面では、一般百姓まで比較的平等に配分するシステムである村中入会と番水(順番配水)の制度が成立し、村寄合や氏神祭祀にも惣百姓が参加するようになった。村役人にも従来の名主(庄屋)、組頭の他に百姓代も新設され村方三役が成立した。
また、「徒党(下作人)」と「地宛(地宛百姓、のちの地主)」が利害を争っていた(13)。「小作料」と「年貢」は区別されており、年貢が下がった時も小作料が下がらない反面、不作の際、「寄合」で小作料の減免が決定し、実行されていた(14)。「寄合」の決定が地宛百姓側に傾いていたわけではなく、小作人たちにも向けられており、権利獲得運動の中でそのように対応をとらせるようになっていったのであろう。
生産活動が村共同体単位で進められるため、個々の農民が休日を勝手に取る事は許されなかった(15)。作物の特性上、定期的に休日を取る事は難しかったとも言われる。しかし、全く休みが無かったわけではなく、時代を経るに従い増加したこととされており、幕末の美濃西条村では年間で休日が25日、潤い休日も含めると30日はあったのではないかと指摘されている(16)。1818年(文政元)の庄内藩では定休日40日、その他に遊び日を入れると年間68日となり、1805年(文化二)の仙台藩では80日にもなったという(17)。これらの地域は、冬季には積雪により農作業ができない地域であり、農間期には養蚕・製糸を生業としていた(18)。そのため、農作業より休みを取りやすい地域であったのだろう。休日には花見や月見・船遊・潮干狩り・遠足・縁日・祭礼・茶の湯・生け花・踊りなどを楽しまれていた(19)。これは生活に余裕ができた一例であるとも言え、村共同体内の個人はそれなりの余暇を過ごしていたと言えるのではなかろうか。また伊勢参りや熊野詣・善光寺参り・大山・富士・御岳などのレジャー旅行(同時に新種の作物品種・技術の調査もしていた)もできるようになっている(20)。
この背景には、前記の理由以外にも村共同体・都市共同体が治安維持機構・街道や宿場の整備機構としての役割を果たしていたというのもあった。つまり、村落的共同体がより大きな共同体を支える役割を果たしていたのである。これは幕府・藩による強制の面もあったが、村や町がそれを使用する人々に対して最低限以上の整備などもしていることから村落的共同体の中の共同体意識があったのではないかと思われる。
江戸時代は時代遅れの旧態国家だと思われがちだが、その実、年貢の調整や生活の変容で、農業で生計を立てる必要が無くなった人もいた。また、禁門の変以後は途中の休止を挟みつつも参勤交代が維持されており、文化やシステム、それを用いる人の移動がある程度の間隔で行われ、職業を変更することもできた。
 
 
第二章 百姓一揆から見る共同体

第一節 百姓一揆とは何か

 百姓一揆を最初に研究した黒正厳氏は、百姓一揆を「徳川時代の中央集権的封建社会に於ける身分的被支配階級たる農民が、支配関係に基きて必然的に生ずる精神的竝に物理的圧迫苦痛を軽減し亦は脱却せんが為めに、武士階級に対して消極的又は積極的抵抗を企つる違法的団体運動」(21)と定義している。ここで大事なことは、「一揆」と「百姓一揆」は違う運動であるという事である。前者は武力闘争であり、後者は「越訴・逃散・愁訴・強訴・打毀し・蜂起」など多くの者が申し合わせて行動する違法な訴訟活動であった(22)。百姓一揆に関するこの考えは、幕府の「徒党規制(23)」とも合致しており基本的な百姓一揆の定義と考えてもいいだろう。闘争形態について、保坂(2002)では表3のように分類しており、一般的に考えられている暴力なもの(強訴・打毀し・暴動)のみが百姓一揆ではなく、様々な戦い方があった。
 
表3 闘争形態
逃散  文字通り農民が自己の耕作地を放棄し、逃亡する事
愁訴  文章による嘆願および手続きを踏んだ上級者への合法的な訴え
越訴  訴訟の手続きの際に順序に従わず、本来代官に訴えるべきものを直接領主へ訴えたり、また藩を飛び越えて幕府の巡見使や、江戸の老中へ駆込み訴たりすること(本来筋違いの訴えであり、禁じられていたので、愁訴とちがって、訴訟人は処罰される覚悟の上であった。名主や庄屋など村役人が代表として訴えるときに、この形式をとる場合が多く、これを代表越訴と呼んでいる)
強訴  農民が集団で訴えること全般
打毀し 強訴に破壊行為がともなったもの
暴動  打毀しの行われる地域が拡大したもの
 (保坂(2002)22~23頁より、筆者が一部変更して作成)
 
第二節 百姓一揆の団結
 
百姓一揆は徒党を組む事から始まる。その団結を維持させなければならず、そのために使われたのが連判状である。連判の基礎単位は個人であった(24)。連判状は基本的に傘連判・車連判(25)の形式を取っていた。こういう形式を取ったのは頭取隠しを行うためであるというのが強く言われている。その一例が1710年(宝永七)周防国吉敷郡萩領長野村で起こった百姓一揆であり、幕藩側には一揆の頭取が分からなかったと記されている(26)。
しかし、連判状は頭取隠しだけが目的ではなく、団結することで平等で共同に責任を負う意味もあったのではないかと言われている。その例として、1835年(天保六)下総国印旛郡高野村において、博打などに手を出した若者を叱責したときに今後繰り返さないと誓った若者組議定書があり、この指定書は車連判だった(27)。この車連判は一揆の連判状として用いられた訳ではないので、頭取を隠す必要はない。したがって、連判は、頭取隠しのみならず、団結・平等・共同責任という意味も含めて用いられてきたと言えるのである。
他に特徴的なこととして、百姓一揆をする際に村が「起請文」と「神水」という形でカミ(神)を利用していたことが挙げられる(28)。「起請文」とは牛王宝印に約束・誓いを書き、それを破った際、神仏から罰を受けるという事を書いたものであり、「神水」とはそれを焼き、その灰を水に入れ、神前で廻し飲みをする行為である。これは中世の頃から行われたものであり、江戸時代には形式化していたと言われてもいるが、重大な決意の際にカミ(神)の権威を使って団結を深めていた。
百姓一揆の際、病気になったり、処罰を受けたりするときもある。そういう時に補償がなければ団結は強固になりえなかった。1817年(文化十四)武蔵国都筑郡中鉄・寺家村では病気・咎めを受けた際には、村が金銭補償し、犠牲となって罪を受けた場合は物質保証をするとある(29)。1713年(正徳三)下野国都賀郡下初田村ではもっと細かく決められており、手錠の罪の場合は諸役を務め、耕地を荒さない、牢の場合は手錠の際の同様の事に加えて、訴訟費用の負担・家維持の諸費用負担を課し、追放の場合は追放先へ賄い金の送付、死罪の場合は100両の弔い金を二年間送付などが決められていた(30)。組織をまとめるにはリーダーが必要であり、まとまって動く事から鑑みても強力な指導者がいなければ一揆自体が行われない可能性があった。彼らは、最悪の場合死ぬことがある立場を補償の有無だけで頭取になろうと決断したわけではない。場所や事例によって異なる場合もあるが、「家の誇り」や「教養人・知識人としての務め(31)」、「任侠心など村ではもてあますような強い個性(32)」などの理由によって、頭取を務めていた(33)。幕末になると、義民継承(34)を約束する場合もあった。1867年(慶応三)但馬国奈佐組一一ヵ村では頭取を「石代大明神」として祭る事が決められた(35)。頭取になった者は「死」を代償に権威を持ち、リーダーとして村内で振舞うことができた。
 頭取一人が処罰を受けるのが基本的であったが、一揆に関わった者全員で引き受けるという申し合わせがあった場合もある。1626年(寛永三)秋田藩船越天王村では、肝煎の不正を訴えていた9人の百姓の内、訴訟推進を訴えていた2人だけを処罰しようとした。その時残りの7人のうちの1人が「一旦申し合わせたのだから、2人と一緒の罰を受ける」として一緒に処罰された。幕府・藩は特別な人によって引き起こされた事にし、残りの多くの百姓はその人に同調したとして無罪にしたかったのに対して、村やそれを越えた百姓一揆勢は共同意思による決定であり、責任も共同で引き受ける事で幕府・藩に対置しようとする意図があった(36)。
一般的に、幕府・藩は百姓一揆に対して武力鎮圧を取る事はなかった。というのは、民衆が強訴の形を取る際には、訴願をすることによって、百姓一揆がやむを得ない行動であることを明示し、百姓一揆としてふさわしい組織を作り、行動をしていたからであった。それをせずに打毀しなどを目的としているような場合には、1825年(文化八)年信濃国松本藩のように「百姓騒動の作法に外れ」と言われ、大きな非難を受けたのである(37)。そのため、自ら行動を規制し、処罰のルールを策定することで暴走を押さえていた。
 
おわりに
 
本稿では、江戸時代における村という共同体と共同して行う百姓一揆について、既存の文献を紹介する形でまとめた。
まず、第一章では「村」について、幕藩と村の関係、および共同体としての村について述べた。従来の議論では、村と幕府・藩との関係に関して、村側が被害者として描かれることが多かった。しかし、村側も権力者に媚び諂うだけではなく、様々な形で対抗してきた。幕府・藩も百姓を完全に無視することはできず、民意を取り込むなどのガス抜きで対応していくことにより、百姓の不満が幕藩体制の打倒に向かうことを避けようとしていた。共同体としての村に関しては、個人を抑圧するものとして描かれることが多いが、それは一面しか捉えていないと感じる。生活・生産の面で協力し合わなければ、自分の耕作地の整備さえもしてもらえないので、「害」が降りかかるからである。また村内が一致団結していたわけでもなく、内部対立も含んでいた。特権的な百姓に対して、闘争を経て、権利を勝ち取ったところも存在する。共同体の共同体意識もあったようで治安・整備に関して共同体の力を必要としていたのが実情である。
これは現代の場面では、例えば小中高にはクラスが存在し、似たような状況が発生していたのではなかろうか。生徒は先生に対して媚諂うだけではなく、様々な形で反抗を行い、先生も生徒のガス抜きを行ったりする。またクラスの特性上協力し合わなければならない面が多々あり、給食の配膳などの共同作業は、毎日のように行われる。それは皆のために個人の時間を潰している事になるだろう。またクラス内にも様々な対立もあった。そう考えると村共同体的なものは学校という中に未だに生き残り続けているのも事実である。筆者が同窓会に参加して幸福感などを得るのも、一緒に何かをしたり、そこに縛られていたという面が大きかったのだと思う。
第二章では、「百姓一揆」の定義と団結について述べた。百姓一揆に関しては武装闘争的なもので描かれることが多いが、それはごく一部であり、様々な闘争形態があった。また武士と諍いを起こすような闘争は、ほとんど無く、現在のデモに近い形式で行われていたと想像するのが良いと思う。「一揆」と「百姓一揆」は違ったものであり、百姓一揆の団結というのは、カミ(神)・平等意識・共同責任・頭取の犠牲を媒介としてできたものであった。武士に対して対抗するのは人数を使った威圧であり、団結を維持しなければ自らの要望を聞いてもらえることが無く、団結の維持が課題であった。百姓一揆が過激にならなければ幕府・藩が武力鎮圧することは少なく、基本的に頭取の命だけで済まされることが多かった。幕府・藩としては一揆を主導した者と同調した者に分けて対処しようとしているが、百姓側は総意であるとして幕府・藩の二分化策に対抗した事例もあった。
ここ最近、共同体に属する個人の責任感というものが欠如しているのを感じる。それは大学祭の時に痛切に感じた。大学のゼミで店を出した際(大学による強制参加)に全く参加しない人がいたということがあったのだ。半強制的に私はリーダーとされたのだが、協力してくれる人と協力しない人がいて、正直残念な思いがあった。ゼミ内での平等意識はあったと思うが、共同責任を負わない人を私は等しく見ることはできなかった。これは私の実感であり、参加しなかった人達にも彼らなりの理由があったのかもしれない。
 本稿では江戸時代の村と百姓一揆を取り扱った。このような共同体を考察することは、現代社会では形骸化したかのようにも思われる共同体に属する価値や意味といったものを再考するきっかけとなるのではないか。
 

 
(1)江戸幕府は出島・対馬・松前・薩摩を開いているので、「鎖国」という用語は不適切であると筆者は考える。
(2)津川(1990)や島(1994)などで、大阪の堂島では米の先物取引が行われていたことが示されている。
(3)水本(2008)301頁。
(4)水本(2008)301~302頁。
(5)隠田とは年貢逃れをするために密かに作られた田のことであり、発覚すれば死罪が適応されることもあった。
(6)水本(2008)317頁。
(7)水本(2008)318頁。しかし、仙台藩近江国は藩から離れた飛び地であり、他所よりも村民による自治が重大な役割を担っていたことも考慮しなければならない。
(8)歴史学研究会等(2005)119~121頁。
(9)百姓一揆では、民衆は村を大きく超える「地域」を単位として集っていた。
(10)佐々木(1992)233頁。
(11)山林、原野など入会の帰属や用益権をめぐる紛争
(12)佐々木(1992)233頁。
(13)佐々木(1992)235頁。
(14)佐々木(1992)235~236頁。
(15)鬼頭(2002)284頁。
(16)鬼頭(2002)284頁。
(17)鬼頭(2002)284頁。
(18)鬼頭(2002)285頁。
(19)鬼頭(2002)285頁。
(20)鬼頭(2002)285~286頁。
(21)保坂(2002)20~21頁。
(22)保坂(2002)20頁。
(23)保坂(2002)19頁。
(24)保坂(2002)144頁。
(25)円環状の署名
(26)保坂(2002)152頁。
(27)保坂(2002)160頁。
(28)保坂(2002)145頁。
(29)保坂(2002)146~147頁。
(30)保坂(2002)153~154頁。
(31)幕府・藩の役人と論争する際に必要な知識が必要だった
(32)座敷牢に入れられたことのある者もいた
(33)保坂(2002)128~129頁。
(34)村落共同体の代表として年貢の重圧による生活の困窮を領主、幕府に直訴した人物を伝えていくこと
(35)保坂(2002)154頁。
(36)保坂(2002)128~156頁。
(37)保坂(2002)139~140頁。
 
参考文献
 
歴史学研究会、日本史研究会『日本史講座<6> 近世社会論』東京大学出版会 2005
水本邦彦『日本の歴史<10> 徳川の国家デザイン』小学館 2008
大島真理夫「近世初期の屋敷地居住集団と中後期の本分家集団」(歴史科学協議会『歴史における家族と共同体』青木書店 1992)
佐々木潤之助「近世における家と村」(歴史科学協議会『歴史における家族と共同体』青木書店 1992)
渡辺尚志『近世の豪農と村落共同体』東京大学出版会 1994
保阪智『百姓一揆とその作法』吉川弘文館 2002
保阪智『百姓一揆と義民の研究』吉川弘文館 2009
鬼頭宏『文明としての江戸システム』講談社 2002
津川正幸著『大阪堂島米商会所の研究』晃洋書房 1990
島実蔵著『大坂堂島米会所物語』時事通信社 1994

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