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なぜ科学者は原爆をつくったのか

ゴールデンウィーク後半の4連休初日、新宿のTOHOで映画「オッペンハイマー」を見てきた。

3月の終わりに封切られた映画で、今をときめくクリストファー・ノーラン監督の最新作である。

まだ封切られてから一ヶ月ちょっとというのもあるが、ものすごくたくさん人が入っていた。しかし、三時間とかなり長尺の映画で、しかも派手なシーンは少なく、3つの時間軸が並行して進行していき(これはノーラン監督がよく使う手法)、基本的には政治的な会話ベースで物語が進んでいくので、寝てしまう人も結構いたようだ。

かなり大きなスクリーンで見たのだが、高速で流れていく字幕を読む作業が多く、逆にちょっとみづらいな、と感じるほどだった。

何の映画かというと、実在した科学者であるオッペンハイマーの伝記映画である。しかし、生い立ちその他にフォーカスするのではなく、彼の主要な功績である「原子爆弾開発」周りの出来事にフォーカスされている。彼はいわゆるマンハッタン計画における、中心的な人物である。

原子爆弾を開発するためにマンハッタン計画というものがあり、オッペンハイマーという人物がいたことも知ってはいたのだが、どういう人物だったのか、ということについてはなんの予備知識もなかった。

しかし、大量破壊兵器である原始爆弾を開発した人は当然いるはずで、その人がどういう動機でそれを作り、どういう人物像だったのか、というのは当然興味がある。

原子爆弾(というよりは核分裂エネルギー)の根本的なアイデアとなったのはアインシュタインの相対性理論だが、それを応用し、発展させたのはオッペンハイマーをはじめとするマンハッタン計画の科学者たち、ということになる。

オッペンハイマーは原子爆弾を作り上げた自分のことを死神と苦悩することになるのだが、確かに結果からすればそうだと言わざるを得ない。

なぜ原子爆弾みたいな大量破壊兵器を作ったのか。まず、放っておいてもロシアやナチスがそれを開発しているという情報があり、ロシアやナチスがそれを作り上げるより先に自分たちをそれを持つ必要があると考えたこと。次いで、それを持っていることそのものが戦争の抑止になる、というものである。いわゆる核抑止デタントの考え方である。

アメリカは、政治的には原子爆弾を日本に投下したことが戦争を終結させる最善の手段であり、それが平和のために必要なことだったんだ、というスタンスを崩さない。というか、それを崩すと国内が混乱するので、その姿勢を貫くことが必要である。もちろん日本人はそうは思っていない。

こちらから見れば正義で、あちらから見れば悪、という感じで、どこから、どの視点から見るかによって見え方が変わる。誰にも「正義」とも「悪」とも断定できないような感じだ。

オッペンハイマーもどういう人間だったのか、この映画を見てもなかなか釈然としない。たとえば、「原子爆弾がどう使われるかは考えず、それを作り上げることに夢中な」いわゆるステレオタイプなマッドサイエンティストだったのかというと、そうでもない。では、平和のために原爆を使うことを推進していたかというと、そうでもない。

科学者ではあるが、ずいぶん政治的な活動もしていたようだ。共産党員だと疑われたり、私生活では不倫をしている描写もあったり、など、なかなか「こういう人物だ」と断定できない描かれ方をしているのである。

この映画を見て、不快に思う日本人も大勢いるだろう。原子爆弾の完成を賛美している描写があるからだ。しかし、「映画は」それを賛美していない。あくまで、「賛美している人々を描写している」。

原子爆弾がこの世にあるということは誰かはそれを作ったわけで、その「誰か」はこういう人だったのではないか、という映画である。そういう意味では、ノーラン監督は非常に難しいテーマに挑戦したんだな、と思う。

ちょっと話題が飛ぶが、野球の大谷翔平選手の元通訳・水谷一平氏ががギャンブルで大谷選手のお金に手をつけ、巨額なギャンブルをやっていた、というのが少し前に話題になった。

そのとき、元テレビマンのYouTuberが「テレビはいかにも水谷一平氏が大谷翔平のベストパートナーであるかのように報道しまくっていたが、本当にそうだったのかはわからない」的なことを言っていた。要は、テレビによる印象操作で「彼は大谷の無二の親友」だと刷り込まれていたのでは、というのだ。

テレビは何かを伝えるときになんらかの意図をもって、印象操作を行う「印象操作中毒者」だと評していた。そういう方針のメディアに普段から浸っている人は、多面的にものを見る訓練はできていないのでは、と思う。

戦争は悪だ、絶対に起こしてはならない、というのは日本の報道の基本的なスタンスである。確かにその通りなのだが、その逆の論理(「戦争をやるべきだ」という論理)で考えたことが「ない」と、結局それもまた宗教的であり、真実を見失うかもしれない。多面的にものを考えたことがない人には、理解が難しく、退屈で眠くなる映画だっただろう。

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