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「きみはオフィーリアになれない」 安達凛子 前編 #007

 不意に、凛子のすぐ右のドアに、何かをこすりつけるような音がした。ドアに何かがこすりつけられているようだった。はじめは猫かと思ったが、しばらく規則的にそれは続き、やがて、ぷつりと絶えてしまった。凛子は身じろぎもせず、聞こえてくる音をすべて聞き取ろうとした。だが、もう何もそれらしい音は聞こえなかった。
 夢ならそろそろ覚めて欲しい、と凛子は思った。いつも、どんなに長い夢を見ても、記憶に残るのはいつもほんの断片で、こんなに長い夢は見ない。
 小さく、ノックのような音が、コン、コン、と二度、聞こえた。
「誰?」
 おそるおそる、凛子はドアに向かって声をかけた。もしここが夢の中なら、少なくとも知らない人ということはなさそうだけれど、と凛子は考えた。
「開けて欲しいの?」
 また遠慮がちに凛子は声をかける。返答はない。声が届いていないのかもしれない。
 凛子は全身に鳥肌が立つのを感じた。ノックをしてきている、ということは、ドアのすぐ向こう側に人間がいる、ということだ。鍵でもかかっているのだろうか。
 凛子は立ち上がり、ドアノブに手をかけた。だが、鍵がかかっているのか、扉は開かない。
「誰かそこにいるの?」
「クラゲさんですか」
 暗闇の奥から、声が聞こえてきた。少し掠れた、少年の声だ。声はひどく幼い。まるで小学生のようだ。
「え?」
「クラゲさんですか」
 声の主は再度、そう問いかけてくるが、凛子には意味がわからない。いえ、違います、あたし、と曖昧に返事をする。
「そこ、クラゲさんのへや」
「クラゲさんの部屋?」
「こんにちは」
 わけがわからないまま、「こんにちは」と凛子も返事を返した。
「クラゲさん、どこ」
「ちょっと待って、そのクラゲさんっていうのがあたしにはわからないんだけど」
「クラゲさんは、クラゲさん」
「あなたのお友達?」
「おともだち……」数秒ほどの短い沈黙があった。「わかんない」
 会話が噛みあわず、内容も要領を得ない。相手は、こちらがクラゲという人物の部屋に入っている、と認識しているようだ。クラゲと呼ばれている人物は聞いたことがない。海月、という名前なのか、それとも、あだ名か何かなのか。何より、凛子は自分の部屋があるマンションの廊下にいるのだ。誰かの部屋にいるわけではない。
 だが、話の内容からすると、声の主は、こことは違うどこか別の空間にいて、ドアを隔てて、ここと繋がっている、そういう状況のようだ。もちろん、常識では考えられないが、会話の内容から判断するとそういうことになる。もしここが夢だとしたら、夢なんてそんなものかもしれない、とも思う。ただ、もしもここが死後の世界なら、それはあまりにも地味だな、と凛子は思った。
「あのね、ごめんね。あたしは、クラゲさんじゃないの。それに、だれかの部屋の中にいるわけじゃないの」
「でも、そこは、クラゲさんのおへや」
「きみは、どういう部屋にいるの?」
「どういうおへや……。わかんない」
 凛子は戸惑って、闇の奥を見つめる。「あなたの名前は?」
「エイジ」

(つづく)


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