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「個人」と「集団」に違いはあるのか?

少し前に劇場版の公開をもって完結した「新世紀エヴァンゲリオン」というアニメがあった。最初はただのロボットアニメという感じなのだが、なかなか込み入った設定で、終盤にいくにつれ、かなり哲学的・宗教的な内容になってくる。

作品を通して「人類補完計画」という計画が走っており、それを遂行するのが敵勢力組織の目的らしい。どういうものなのかというと、「人類をひとつの生命体に進化させる」ものなのだという。

簡単にいうと、人類の表皮を覆っている「A.T.フィールド」という微弱のバリアを解除して、すべてが混ざり合えばひとつになる、というのである。このA.T.フィールドは使徒と呼ばれる敵勢力が攻撃を防ぐための防御手段として利用しており、物語序盤から頻出するのだが、物語全体としてそういう道具立てだったのか、と驚く仕掛けになっている。

とても面白い設定ではあるのだけど、すべての個体がひとつにまじりあった状態って、本当に葛藤のない世界になるんだろうか、という素朴な疑問はある。

そもそも「すべての人類がひとつになる」というイメージが難しい。数人程度のグループでも難しいのに、それが人類全体となるとどうなってしまうのか、想像を絶する。

たとえば、個体としての考え方が似通っていたとしたら、因数分解的に消滅してしまう個体もたくさんいたりして。

人間は一人ひとり、それぞれ自分のなかに矛盾を抱えている。やたらと好戦的な人の中にも、優しい部分はある。逆に、優しい人のなかに修羅がいることも。

これは一人の人間の中では「葛藤」と表現されるけれど、実際にはそれぞれの性格に応じた分身が自分の中にいて、それが戦っているのかもしれない。

そうなると、もしもすべての個体がひとつに溶け合ったとしても、個人のなかの葛藤がより複雑になるだけ、といえないだろうか。もしもひとつの個体に統一されてしまったら、「他人は他人」と割り切れなくなり、現実よりも厳しい状況になるかもしれない。どうしても考え方が合わない人とひとつになりたくない、と思うのも自然なことだろう。

そう考えると、企業や国家も決して一枚岩ではないけれど、対外的にはスタンスを決める必要があり、その矛盾に少し似ているかな、と思った。一応、ひとつの組織としては態度を固める必要がある、と。

個人と集団は対になっているものではなくて、たんに規模の大きさにすぎないのかも。どれだけその範囲を広げても、狭めても、本質は何も変わらなかったりして。

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