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「きみはオフィーリアになれない」 川嶋美禰子 後編 最終話

「なに?」
 女性は、珍しい花でも見るような目つきでこちらを見ている。この女はすべてをわかっているのだ、と美穪子は思った。この女は、すべてをわかったうえで、わからないふりをしている。
 自分が伊崎かんなという女性であること。
 私が川嶋美穪子という人間であるということ。
 自分が、川嶋美穪子という女性よりも、先に、瀧本達郎と一緒にいたのだということ。
 薄く口角を持ち上げるような冷たい笑みに、美穪子はそのような感情を読み取った。あるいは、自分の勘違いかもしれない。でも、それでもいい。
 自分は、この女性から、大切なものを奪い取るためにここまで来たのだ。
「だってここは……私の場所だもの」
「場所?」
「そう、私の場所。私が居るべき場所。あなたじゃなくてね、伊崎さん」
 名前を呼ばれて、女性は驚きで、少し目を見開いた。「前に、どこかで……会ったことがあったかしら?」
「いいえ、はじめてだと思うわ。でもね、私たちは初めてじゃないの。だって、あなたの中には、『私』が混じっているから。『私の一部』が、あなたを構成しているから」
「ちょっと待って、ごめんね。言っている意味がわからないの。いま先生をお呼び……」
「やめて」
 冷静に美穪子は言った。本当は緊張で、今にも倒れそうだった。めまいがする。心臓が今にも口から飛び出そうだった。
「かんなさん」
「……どうして、私の名を?」
「言ったでしょう。あなたは私なのよ。そして、私はあなたなの。少なくとも、この世界においては、瀧本先生が作ったこの世界においては、私とあなたはひとつなのよ」
 女性はソファから立ち上がったが、どこに行くでもなく、腕を軽く組んで美穪子を睨みつけていた。それまで自分に似ていると感じた女性は、怒ったような顏になると、自分にまるで似ていない、と思った。
「私はあなたのことを知らないわ」と女性は言う。「あなたは、瀧本先生とは、どういう関係なの?」
「私は……」
 美穪子は言い淀んだ。自分と瀧本の関係。そんなことは、今まで考えたこともなかった。
 自分は瀧本のそばにいて、それは疑いのない事実だとずっと思っていたからだ。それが二人の関係性だと思っていた。
 だが、ひとたび他者が介在すると、互いの関係について、客観的に説明する必要があることに気が付いた。
「私は……。瀧本の先生の、家族」
「そう、家族なの。でもね、私も瀧本先生の家族なのよ。瀧本先生とはもう何年も前に結婚して、ずっと一緒に暮らしているもの」
「それはあなたじゃない! それは、私なのよ」美穪子は叫ぶ。
「でも、自分と瀧本先生の関係を、あなたは言葉で説明できないのよね」
「それは……。その必要が、今までなかったから」
「でも、言葉になっていないじゃない。言葉になっていないものは、存在していないのと同じだわ」
「じゃあ、はっきりと先生に訊くわ。あちらの部屋にいらっしゃるのでしょう?」
 美穪子は部屋の奥に目をやった。女性はじっと美穪子を見据えている。
 美穪子は女性に近づくと、髪かざりに手をやった。赤い花の髪かざりだった。「綺麗な花ですね」
 女性は黙っている。
「確かに、私はあなたの映し鏡のようなものかもしれない。でも、私はそれでも良いの。瀧本先生と居られるなら」
 女性の髪かざりを手に取ると、瀧本の小さな頃の映像が頭の中に浮かんだ。
 思い出したわけではない。
 美穪子は、少年時代の瀧本を知らないからだ。
 おそらく、このかんなという女性が持っていた記憶が自分の中に流れ込んできたのだろう、と美穪子は思った。
 これは記憶の形なのだ。この世界、この夢の中では、あらゆる人の記憶が混じり合い、それが人の形を成しているのだろう。
「私の記憶も、あなたにあげるから」
 美穪子はそう言い、女性の手を握った。瀧本と出会ってから自分が瀧本と過ごした時間、そういったものを次々に思い出した。女性は何も言わず、されるがままになっている。
「じゃあ、私、行くわ。瀧本先生のところに」
 美穪子は、女性がつけていた赤い花の髪かざりを自分の髪にさした。女性はみるみるうちに透けていき、やがて消えてなくなった。
 この奥に、この奥に行けば、瀧本先生に会うことができる。今度は、自分はどういう形で瀧本と会うことになるのだろう? 
 瀧本に会ったら、今まで自分が言うことのできなかった言葉を言おう。
 美穪子は廊下を歩いていくと、瀧本の診察室のドアの前に立った。呼吸を整えてから、右手の甲で軽くノックをする。
 少し待つと、「どうぞ」と部屋の奥から、くぐもったような声が聞こえる。
 美穪子は引き戸の扉に手をかけ、そっと開け放った。

<完>


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