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目に映るすべてのものは誰かがデザインしたもの

4月から、事業創出系の学校に通い始めた。自腹ではなく、会社の経費である。会社にそういったプログラムがあり、応募したらメンバーに選出してもらえたので、通うことになった。

学校といっても、授業は月に数回程度、平日の夜に行われる。いろいろな課題が出るのでそれをこなしていき、一年かけて事業計画書を作成するといったものである。おそらくフィールドワークなどで休日も利用して活動を進めることになるはずだ。

今まで、新規事業の創出についてはいろいろと業務でやってきたことがあるのだけれど、学校で体系的に学び、訓練したことはない。今回の勉強は非常にいい経験になるのでは、と思っている。

早速課題が出たので取り組んでいる。課題は、コンビニで売っている日用品を買ってきて、そのデザインについて考える、というもの。問題点をできる限り多く列挙し、問題点を解決したものを試作する。そうした活動を通じて、そもそもの用途や特徴を考える、というものだ。

コンビニで売っている日用品に問題点なんてないと思いきや、ちょっと頭のおかしいクレーマーの気持ちになって考えてみたら、20点ほど抽出することができた。たとえば紙コップなら、「カフェサイズ」という記載があるのに、そもそも紙コップが熱いものを飲むのに適していなかったり。

しかし、そうやって「欠点」を挙げれば挙げるほど、そういった部分はすべて折り込み済みで、「なるべく広い用途で」「なるべく安く」「なるべくたくさんの人に」届くよう工夫されていることがわかる。

日用品みたいな分野は長い歴史があり、工夫され尽くしているので、そうそう新しいことは思いつかないだろう。まあ、それでもときどき、イノベーションは起こったりするのだが。

そもそも、日常的に触れるものでデザインされていないものは存在しない。いま書いているこのnoteも、そもそも高度にデザインされたパソコンを使い、noteという会社が提供しているサービスのデザインに則っている。部品に使われるネジの一本に至るまで、誰かがデザインしたものだ。

もっといえば、日本語のフォントもデザインされたものだし、日本語の文字そのものもデザインされたものだ。単語や文法も、長い時間をかけてデザインされてきたのだろう。

都会と田舎では、都会のほうが暮らしやすいという人は多いけれど、そんなのは当たり前の話で、都会は目に映るものすべてがデザインされているのだから、人間が暮らしやすいのは当然だ。

田舎に行けば人工物が減るので、とたんに暮らしにくくなる。むしろ高齢になるほど、都会での生活のほうが暮らしやすくなるはずだ。

デザインとアートは違うという。アートは芸術的なことを指すが、デザインは、それをもって何かの問題を解決するものだ、と。そういったことは以前から知っていたのだけれど、「こういうふうにデザインすれば、こういう用途に使えるかも」と思考が広がっていくのは面白いな、と思った。

何気なく使っているものでも、じつはもっと自分の用途に適した形状や素材があるかもしれない。

何か新しいものが生まれるとき、それまで当たり前と思っていたことでも、むしろ不自然に思えるようになる。「こんな簡単なこと、なんで最初から思いつかなかったんだろう?」という認識の断絶があるのだ。

そんなレベルのものはなかなかすぐには思いつかないかもしれないが、本質について考えるうち、ひらめくかもしれない。

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