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「きみはオフィーリアになれない」 安達凛子 前編 #009

「おやすみなさい」
「ちょっと、ちょっと、待って! あたしはどうすればいいの?」
 凛子はそう叫んだが、もうなんの反応もなかった。
 これは本当にすべて自分の妄想なのだろうか? 夢にしてはディテイルがやたらと凝っているな、と凛子は考えた。
 だが、と凛子はぼんやりと思う。これから、どうすればいいのだろう?
 エイジと名乗る少年と会話をしているときには気がつかなかったが、いつの間にか顔が火照っている。頬を触る手が、小刻みに震えている。怖いのだ、と思った。恐怖は、想像をすることで生まれる。自分が奇妙な世界に迷いこんでいると気付いた瞬間は、何が起きているのかを理解することで精一杯だったが、いまは、先のことを考えてしまっている。
 覚めない夢はない。夢では、恐怖を感じても、いつかは覚める。どうやったら夢から覚められるか、そんな問題は今まで意識したことがなかった。
 問題は、と凛子は考えた。これが夢ではなく現実だった場合で、しかも、ここでただ待っていても、元いた世界に戻れないかもしれない可能性がある、ということだ。そっちがどんなふうになっているのかはわからないが、こんな無機質な、殺風景な、普段自分が目にしている、マンションの廊下だったりはしないのだろうか。もしここが自分が制御できる世界であれば、自分の好きなように作り替えたりはできないのだろうか。
 ゆっくりと立ち上がり、服についた埃をはらう。
 中央エレベーターのすぐ脇が自分の部屋だ。簡単にドアは開いた。部屋は空調が効いていた。
 自分の部屋に戻ると、ここが現実とは違う世界だとは信じられなかった。
 部屋の奥には、自分と同じ姿をした人間が倒れている。まるで蝋人形みたいだ、と凛子は思った。気味が悪かったが、近づいていき、身体を起こす。冷静に自分を見ると、鳥肌が立った。どうしようかと思ったが、そのまま引きずって、ソファの上に乗せる。人間ひとりが、こんなに重いということを初めて知った。
 テレビをつけると、テレビ放送はなく、砂嵐になっている。キッチンからコーヒー豆を取り出し、ミルにかける。まずは落ち着こう、と思った。
 コーヒーを淹れ、小振りのダイニングテーブルに腰掛けた。ここはどこなのだろうか、と思った。よく知っている自分の部屋だが、自分はなぜここにいるのだろうか。
 なぜ? 毎日、なんとなく働いて、なんとなく帰ってきて、寝て、そしてまた働く。なんのために?
 それは生きるためだ。生きて、自分の稼いだ金を使って、自分の生活を買う。家賃七万円のこの狭いマンションも、凛子の給料のかなりの割合を占めている。だが、稼がないと生きていけないし、生きていくためには稼がないといけない。
 自分の世界、それがなんだかよくわからないが、要するに、ここは夢なんじゃなく、死後の世界なんじゃないか、そんなふうに凛子は思えてきた。いや、と凛子はかぶりを振った。何を考えているんだろう。これじゃ、自殺をする人と同じ発想だ、と思った。

(つづく)


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