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「きみはオフィーリアになれない」 安達凛子 前編 #004

 凛子は手すりを掴むと、台によじのぼるような動きで、柵の上に立った。普段は全く意識しない、ビル風のようなものが身体のまわりを駆け抜けていく。あと少し、ほんの少し重心を前にずらすだけで、死ぬことができる。凛子は背中にぞわっとしたものを感じ、柵から降りた。こんなことをするのは初めてだった。全身から汗をかいていた。
 きっと綺麗な死に顔ではいられないだろうな、ここから落ちたら。顔面はぐちゃぐちゃで、復元など到底できなくなるはずだ。
 顔が復元不可能なほど痛んでしまった場合は、どのようにして棺桶におさまるのだろうか。
 ひとつだけ言えることがある。ここで死んだら、先輩に会える。けれど、ぐちゃぐちゃの顔になってしまったら、どんなふうに先輩と顔を合わせればいいのかわからない。ぐちゃぐちゃになった顔でも、綺麗に復元してくれる、魔法のような技術をもった業者はいるのだろうか。
 ベランダから室内に戻る。テレビの脇でブルーの光を放っている、水槽に目をやる。
 この子に噛まれたら……と、凛子は思った。
 この子に噛まれて、それで死ぬことができたなら。
 きっと綺麗な死に顔のままでいられるだろう。
 先輩がこの魚を連れてきた日の会話を思い出していた。あらかた説明が終わったあと、「あ、そうだ」と先輩は切り出した。「この子には毒があるんだよ」
「え?」凛子はぎくりとして、作業をしていた手をとめる。
「この子ね、実は毒があるんだよ。でも大丈夫。普通にしてたら噛むことはないし、噛まれても大したことはない。でも、絶対に噛まれないようにして」
「絶対? どうしてですか?」凛子は驚いて聞き返した。
 あの後、先輩はなんて言っていただろう。
 思い出せない。
 この子には毒がある。
 凛子は水槽の中を凝視する。
 この子の毒でもし死ねたら、綺麗な死に顔でいられるだろうか。
 大したことはないと聞いてはいるが、ずっと噛まれ続けたら、あるいは……。
 睡眠薬だって、大量に飲めば死ぬではないか。
 天国で先輩に会った時、恥ずかしくない顔でいられるだろうか。
 凛子はそっと手を水槽に近づける。
 上から水の中を覗き込む。
 袖をまくって、そのまま深く腕を水中に差し入れる。
 水が袖の中にしみ込んできて、べったりと皮膚に張り付いた。
 魚はぴくりともせず、水草の中でうずくまっていた。凛子は短いため息をつき、少し安心している自分を感じた。
 何をやっているんだろう。私は。
 手を抜こうとしたそのとき、魚が不意に動き、凛子の手首に噛み付いた。牙をむいたその顔は、今まで見せたことのないような凶暴な表情をしていた。魚の歯が手首に深く食い込んでいる。
 噛まれた……と、ぼんやり思った。
 そもそも、毒はどうやって作っているのだろう。歯から毒を流す魚などいるのだろうか。
 凛子は反射的に手を抜き、魚を振り払おうとした。だが、予想に反して、手は全く動かない。水槽の中がまるでセメントで固められたように、ぴくりとも動かなくなってしまった。
 痺れている、という感覚ともまた違う。すべてが石になったかのようだ。

(つづく)


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