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忘れる読書

昔から自分はあまり記憶力が良くないのではないか、と思っていた。例えば小学生の頃は漢字の書き取りの練習とかをしたのだけれど、なかなか漢字を効率よく覚えられない。

授業も割と真剣に聞いているのだが、内容の多くを忘れてしまったりする。だから、忘れないようにあらゆることを記録しておくという意味で、書く、ということに昔から関心が深かったのかもしれない。
 
自分が忘れっぽいというのも多分あるのだと思うのだけれど、そもそも「忘れる」ことが理不尽に感じた。せっかく覚えたことを忘れてしまうのは、なんだか、もったいないような気がしたのだ。

なぜ人は、記憶を完全な形で保っておくことができないのだろうか。ドラえもんの秘密道具で「暗記パン」というのがあって、そのパンに文字を書いて食べるとずっと覚えていられる、みたいな道具があった。

もっとも、そんなパンに書いて覚えるとしても2、3枚が限度だと思うし、見た目はそのまま食パンで、あまり美味しそうではなかったので、さほどうらやましくはなかったのだけれど、そのように、簡単にものを記憶しておける道具や工夫はできないだろうか、とずっと思っていた。


 
昔から本を読むのが好きだったので、いろんな本を読んできた。いまでも、大体年間アベレージで120冊ぐらい本を読んでいて、ここ10年ぐらいはそのペースなので、この10年で1200冊ぐらい本を読んだと思う。

さすがにそんなに読むと、内容はほとんど忘れている。内容どころか、その本を読んだことすら忘れていて、同じ本を二回読んでしまったこともある。僕にとっては読書は食事などと同じで、読んでいる最中は楽しいけれど、そのうちなくなってしまうものなのかもしれない。
 
あるときから、「忘れてしまうこと」が全然もったいないと思わないようになった。別に忘れてしまっても、さほど問題にはならないからだ。

忘れてしまうような情報は、そもそも「忘れるべきである」ものなのだろう。記憶しておく必要がないと脳が判断したからこそ、記憶から抹消される、それだけのこと。

だから、1200冊の本を読んだとしても、1200冊分の記憶など必要ないのだ。むしろ何の外部記憶端末の助けも借りず、内容ありありと思い出せるものこそが自分が読むべき本だった、と考えたらいい。忘れるのは、機能の欠陥ではなく、機能そのものだと捉えるのだ。
 
最近実感しているのは、たいていの記憶は、その情報に触れて、かなり時間が経って生きてくるということだ。僕がこうして毎日描いているエッセイでは、たまに以前読んだ本の引用したり、見た動画の話をしたりする事はあるが、それを読んだり見たりした直後に記事にしていることは少ない。

何年も前に読んだ本の内容が、たまたま最近起きた出来事に重なって、ふと脳裏をかすめるのである。それは確かに、とっさには思い出せないぐらい記憶の奥底に沈んでいたものではあるのだけれど、ふとしたきっかけで、必要なときに復活するのなのかもしれない。

つまり、これまで読んだ1000冊以上の本の記憶は、大部分は記憶の奥底に失われてはいても、「ふとしたきっかけ」で、「必要な時に」蘇ることがあるのだ。


 
大量の情報を記憶して、必要な時に素早く取り出す能力を問われる受験のようなシステムにさらされ続けると、記憶できないぐらい大量の情報に触れて、重要な情報のみを取り出すことの重要性があまりフォーカスされないのかもしれない。

試験で出る範囲を徹底的に覚えて、ただそれを復元することを求められる試験で良いスコアを取ったとしても、そんなのは曲芸の一種のようなもので、あまり本質的ではない。それよりも貪欲にあらゆる知識を吸収して、その上澄みだけを覚えておくほうがはるかに意味がある。
 
最近は前ほどメモを取ったりすることもなくなった。しかしそのかわり脳は以前よりうまく使えているような実感はある。「記憶」に重きを置かなくなったのは、進歩かもしれない。

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