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「きみはオフィーリアになれない」 安達凛子 前編 #008

「エイジくんか。クラゲさんがどういう人かはわからないけど……たぶん、知らないと思う」
「おねえちゃんは、どうやってここにきたの」
「どうやってって……」
「おさかな」とエイジと名乗る少年はゆっくりと発音した。「おさかなに、かまれた」
 そうだ、あの白い魚……。あの魚に噛まれてから、この奇妙な空間に迷い込んでしまった。これはあの魚の毒による幻覚なのだろうか? だとすれば、ここは夢の中、自分の妄想の中、ということになるが……。
「あなたも、あの魚に噛まれたの?」
「うん」
 凛子がどう返そうか考えていると、エイジと名乗る少年は、続けた。
「おさかなにかまれると、ここにこれる。みんなそれぞれ、ちがうへや。ほかのひと、だれもいない。ドアをノックして、ほかのひととつながる」
 急に会話が途切れ、トン、トン、というノックの音が聞こえた。
「ノックしたら、おはなしできる」
 ネットみたいだ、と凛子は思った。相手の姿は見えないが、コミュニケーションを取ることはできる。
「勝手にお話はできないのね?」
「うん」
 凛子は床に座りこみ、深呼吸をした。エイジと名乗る相手の少年の態度が、まるで掴めない。
 以前、乖離性同一性障害に関する本を読んだことがある。乖離性同一性障害、すなわち、多重人格だ。多重人格者は、本人の自覚なしに人格交代が行われることが多いが、症状が進行すると、自分の中の内なる他人、すなわち、「他の人格」を意識し、人格を意識的に「交代」させることができるようになるらしい。その際に、自分の中に他の交代人格と交代するための「空間」が生まれるらしい、が……。
 それにしても、こんな具体的な場所ではなく、もっと暗闇の中のような場所で、人格が交代するときは、自分にスポットライトが浴びせられるような感覚になるようだ。凛子は床に座りながら、コンクリートのマンションの床をそっとなでる。ざらついた感触。指に、埃とわずかな砂利が付着した。こんな具体的な場所が、自分の頭の中にあるものだろうか?
「だれもこれない。じぶんだけの、おへや」
「あたしはいま話してるけど、いいの?」
「おねえちゃん、おはなししてるだけ」
 本当にインターネットのチャットみたいだ、と凛子は思った。自分の好きなときに相手に呼びかけ、好きなときに会話を打ち切れる。しかし、ちょっと考えればわかることだが、これが本当に他人の思考と繋がっているわけがない。あくまでもここは自分の夢の中で、エイジという少年は、自分の妄想にすぎないのだ。
 自分の妄想? でも、こんな意味のない妄想をするものだろうか?
「エイジくんは、いつからそこにいるの?」
「ずっと」
「ずっと、って?」
「ずっと」
「そこから出たことないの?」
「……」
 エイジは黙った。
「ちょっと待って、あたしもずっとこのままなの? 出れないの?」
「でるって、なに」
「どうやってここから出ればいいの?」
「……?」
 しばらく沈黙があった。物音一つ聞こえないので、凛子は、エイジと名乗る少年がそこにいなくなったのではないか、と思った。

(つづく)


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