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「きみはオフィーリアになれない」 安達凛子 前編 #003

 凛子はその魚を一目で気に入った。休みの日に、先輩が車に水槽と用具一式を積んでやってきた。そして、飼い方の説明をしてくれた。エサは水槽に生えている水草とコケだけで十分で、特別に追加する必要はないらしい。
 その日から魚との同居生活が始まった。水槽やコケを食べているところを見たことがなく、死んでしまうのではないかと焦ったが、魚はときどき生きていることを思い出したようにぐるりと水槽をまわる。光沢のない純白のウロコをしていて、見つめていると、鏡を至近距離で見つめているような、不思議な気分になった。観賞用としてはあまりにも無愛想だけれど、もともと無愛想な自分の部屋にはよく合う、と思った。しかし、こんなに手がかからないのならば、なぜ先輩はこの魚を自分に預けたんだろう、という疑問は残った。
 冷房が効いてきて凛子は身震いした。リモコンに手を伸ばし、設定温度を少しだけ上げる。しばらく休んだおかげで、少しだけ体力が回復してきた。先輩の葬儀場で、先輩の奥さんの美奈さんに会ったことを思い出した。美奈さんは先輩と同じ研究室に所属していて、仲間内ではあまり目立った存在ではなく、いつも黙々と自分の作業に取り組んでいて、仲間同士の集まりでは隅のほうで控えめに笑い、みんなに注文を聞いては店員と小さな声でやり取りをする、そんな人だった。
 このたびは、御愁傷様でした。葬儀場であたふたと立ち回る美奈さんに対し、そんな間の抜けた言葉しかかけられなかった。美奈さんは、凛子ちゃん、少し痩せたんじゃない? と静かな笑顔で微笑んでくれた。やり取りはほんの一瞬しかなかったが、この薄い微笑みをもつ人は、これからどうやって生きていくのだろう、といったぼんやりとしたことを、不謹慎だと思いながらも、漠然と考えていた。
 気付くと凛子は立ち上がっていた。先ほどまでの重苦しい空気はいつの間にか消えていた。引き戸になっている大窓をあけて、ベランダに出る。また熱気を感じたが、イヤな感じはしなかった。ベランダの柵にもたれかかり、夜景を眺める。街を走る車の音が、夏の虫のような音の背景となって暗闇にこだましている。
 先輩の死は事故死だった。少なくとも、そう聞いている。雨の日に、バイクで制限速度を超えて暴走した結果、カーブを曲がりきれずにガードレールに激突したそうだ。即死だったらしい。原因はわかっていない。そもそも、バイクは先輩自身のものではなかったそうだ。先輩がバイクに乗るのが趣味だったということも聞いたことがない。詳細は聞かされていないが、凛子は、先輩は事故に巻き込まれたのだろう、と思った。
 先輩の死に顔は、直視していない。あとから、事故のわりには綺麗な死に顔だったと、知人が言っていたが、きっと、それは直前に復元されたものなのだろう、と思った。それを専門でやる業者がいるということを、どこかで聞いたことがある。
 ベランダの柵にもたれかかり、暗闇の底を眺める。ここから飛び降りたら、どうなるだろう。地上七階のベランダから落ちたら、もちろんただではすまないだろう。

(つづく)


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