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「きみはオフィーリアになれない」 安達凛子 前編 #006

 どうすれば夢から覚めるのだろう、と凛子は考えた。夢から覚める方法について考えたことなどない。そういえば、寝ることも、そして起きることも、毎日何気なくやっていることだけれど、どうやってそれをやっているのか、そんなことを考えたことはないな、と気付いた。どうしても覚められない夢があるとして、そこから現実世界に戻るにはどうしたらいいのか、そんな問題に自分が直面するなんて、考えたこともなかった。
 凛子は靴を履いて、自分の部屋を出た。自分の部屋の扉を開けた先は、共用の廊下になっている。共用の廊下はマンションの外になっていて、転落防止の柵が設けられている。棟の中央にエレベーターがあり、凛子の部屋はエレベーターのすぐ横にあった。
 マンションのすぐ向かいに土手があり、そこを越えたところが川になっている。大きな川を渡す橋があって、自動車のヘッドライトが橋を渡っていくのが遠くに見える。凛子は柵に手を置き、その動きをじっと見つめた。遠くでクラクションの鳴る音と、そのさらに遠くに救急車のサイレンのような音が連なる。
 とても夢とは思えなかった。あまりにもリアルすぎる。もしこれが夢なら、いつ覚めるのだろう。逆に、夢でないなら、さっさと寝支度をして寝なければ、と思った。時計に目をやると、時刻は、既に二十二時をまわっている。
 不意に誰かに見られているような感覚がして、振り向いた。だが、背後には誰もいない。遠くの車の音は相変わらずひっきりなしに聞こえてくるが、人の音はしない。エレベーターも、ずっと止まっているようだ。もう夜だから、エレベーターが動いていなくても不思議ではないが、それにしても静かすぎる、と思った。
 不意に、ぺた、ぺた、という足音が背後から聞こえた。エレベーターとは逆の方向だ。共用廊下はまっすぐに伸びているから、姿が見えないということはないはずだ。ドアが開く音もしなかった。
 音のするほうを凝視しても、ぺた、ぺた、というサンダルのような足音は続いている。音はすこしずつ大きくなった。こちらに近づいてきている。
 凛子は夢だとわかりつつも、後ずさりし、足音の主とは反対の方向に駆け出したが、すぐに廊下の突き当たりについてしまった。
 ぺた、ぺた、というサンダルのような音は、はじめは速く近づいてきたが、しだいに音の間隔が長くなり、完全に停止した。
 凛子は壁にもたれかかりながら、これが本当に夢だったら、だいたいこれぐらいのタイミングで目が覚めるはずなんだけれど、と思った。
 じっと見つめていると、共用廊下の電灯だけの暗がりの中で、少しずつ、人の形に影が出来ていくのが見えた。
 凛子は座り込んだまま、じっとその影を見つめていた。
 その影を見つめているうちに不思議な気分になってきた。少なくとも、イヤな気持ちではない。まるで、自分のよく知っている人に向かい合っているような……。こういう気持ちになったことが、以前にもあっただろうか、と考える。凛子は、ふと、先輩のことを一瞬だけ思い出した。先輩は待ち合わせの時間に遅れることが嫌いで、必ず凛子を待ってくれていた。待たせてしまった申し訳なさと、そこに確実に待ってくれている先輩に会える嬉しさで複雑な気持ちになりながら、いつも凛子は小走りで駆け寄っていった。でも、だいたい凛子との距離は三十センチまでで、そこから先の距離が縮まることはなかった。

(つづく)


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