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小説「わたなべなつのおにたいじ」⑥

 その頃、清明は自分の部屋でパソコンのモニターを見つめていた。昨日は戻って来てからずっと、「鬼」にまつわるおとぎ話や民間伝承を片っ端から調べていたのだ。調べてみると、鬼と人間の関係性は、鬼丸の言う通り非常に密接と言える。「魂」という漢字にも「鬼」が入っているくらいだから、考えてみれば当たり前なのかも知れない。

 それに、鬼にもいくつもの種類があった。善から悪まで、その振り幅は非常に広く、中には「神」として正式に神社で祀られている鬼までいた。もっとも、やはり「人に災厄をもたらす者」という描写が、圧倒的に多くはある。

 それから、「鬼」と呼ばれる存在にも、数多の種類がある。清明はそれぞれそれを分類し、鬼にも5つの型がある、と結論付けた。

 一つは、民間伝承の地霊や祖霊が「鬼」となったもの、秋田のなまはげなどがそのいい例だろう。さらに、天狗や蔵王権現を始めとした、山岳信仰系の鬼、夜叉や羅刹、地獄の鬼といったような、仏教における悪魔的、あるいは人を戒めるための存在として位置づけられた鬼、そして、人為的要素の強い鬼。盗賊や凶悪な犯罪者が「鬼」と称され、恐れられた場合と、元は善人だったが、怨嗟や憤怒によって鬼へと変わってしまったような場合だ。

 同じように、渡辺綱についても調べてみた。有名なのは酒呑童子と茨木童子の逸話だろう。源頼光の配下として、金太郎のモデルになったとされる坂田金時らとともに、それぞれの鬼を退治、あるいは追い払って、時の帝に感謝される、と言ったような内容だった。いくつもの時代、多くの作者によってこの時の話が語られているが、どの作品にも「髭切」「鬼丸」「鬼切丸」と言ったような名刀の描写があった。

 「結構、有名なんだな・・・。」

 清明は、今まではさして興味も持たずに生きて来ていたが、鬼は現代の生活にも影響を及ぼしている。「鬼盛り」「鬼熱い」などの言葉は、同世代の人間も日常的に使用しているし、毎年節分には豆まきも恒例行事となっている。そういえば、渡辺姓の者は、節分に豆まきをしなくても鬼が寄ってこない、という話も出て来ていた。渡辺綱の鬼退治により、鬼は渡辺姓の人間を避けるのだ、と言う。

 気が付くと、夜はとっくに明けていた。清明はさすがに疲れを覚え、メガネを外して目頭を強く抑えた。その時、通知音と共に学校からのラインが送られてきて、那津に連絡を入れたのだった。

 もしかしたら、昨夜のうちに何か動きがあったかも知れない、と期待したが、那津の返答は大きく期待を裏切るものだった。

 「何も気付かない、とか、有り得ないだろ・・・。」

 清明は、今回の警備員の失踪事件が、間違いなく「鬼」の仕業によるものと、半ば確信していた。鬼について調べていく中で、その手の話はゴマンとあった。いわゆる「神隠し」というやつだ。大体、学校内という限られた場所で、警備を仕事にしている男二人が揃って一晩のうちに行方不明になるなど、普通に考えられる話ではない。

 清明は急に脱力感に襲われ、椅子から降りてベッドに寝転がった。目を閉じると、軽い眩暈とともに、昨夜の光景が瞼の裏に蘇る。目の前に、那津のしなやかな裸体があった。白くて、柔らかそうで、この世にこんなに美しいものがあったのかと、瞬間的に思った。

 こちらを振り向きかけた時にチラッと見えた胸の膨らみと、その頂点に位置する桃色の部分・・・。

 「忘れろったって・・・無理だろ・・・。」

 勃然としてきた自分を恥じながら、清明は眠気を押して起き上がった。

 その時、家のチャイムが鳴った。もしかして、連絡を受けて那津が来たのかも知れないと思い、一瞬心臓が高鳴ったが、応対に出たらしい母親の声で、その思いはかき消された。

 「あらぁ、博正くんじゃないの!まぁ・・・立派になったわねぇ!」

 清明が玄関に降りていくと、母と博正が笑いながら話をしていた。母の肩越しに博正がこちらに気付き、片手を挙げている。

 「よっ!清明!久しぶりだな!」

 約6年ぶりに会う博正は、かなり身長が伸びていて、髪型も「タラちゃんカット」からふわっとパーマを掛けたような長髪に変わっていた。いかにも人懐こそうな笑顔はあの頃と変わらず、笑うと目がなくなるように見えるのも、昔のままだった。

 「おう、久しぶりだな!帰って来るって、昨日の今日でかよ!」

 そう言いながら、清明もまた、笑顔で博正を出迎えた。幼稚園から小学校高学年まで、毎日のように遊んだ親友との再会は、こんな状況でもやはり嬉しいものだ。

 「なんか、たくさん頂いたわよ!お礼言ってね!そうそう、博正君、玄関で話もないから、遠慮しないであがって!」

 「すみません・・・朝から・・・。」

 そう言いながら上がって来た博正は、同じ廊下に立つと清明よりもかなり身長が高くなっていた。玄関ではほぼ同じ目線の高さだったが、頭一つ分くらい、差がありそうだ。

 「お前・・・だいぶ伸びたな!」

 清明は驚きを隠せない。それに、ふわっと何とも言えないいい匂いがする。香水か何かを付けているらしい。

 「そうなんだよ・・・14歳の夏に一気に20cmくらい伸びちゃってさ、自分でも驚いてるよ。」

 二人で廊下を歩きながらそんな話をして、リビングへと向かう。母は飲み物の支度をしているらしかった。

 「ここに来るのも、6、7年振りだよな。変わってなくて嬉しいよ。」

 博正がそう言って、部屋を見回す。

 「おかげさまで、何も変わってないよ。お前の方は?」

 「うーん・・・自分ではあんまり意識してないけど、結構変わったかな。前の家はもうないから、この先のマンションに引っ越したんだよ。まだ荷ほどきもしてないけど。」

 「この先って・・・昔文房具屋だったところのマンションか?」

 「そうそう!あそこでよく買い物したよな!マンションになっててびっくりしたけど、ちょうどいいかな、と思って。」

 「あそこ、賃貸じゃないだろ?」

 「ああ、そうだよ。買ったんだ。」

 「買った!? お前が?」

 「まあ、そうなるかな。名義はもちろん親だけどね。」

 「相変わらず・・・世間離れしてるよなぁ。」

 一緒に遊んでた頃からそうだったが、博正は家族ともども浮世離れした感覚の持ち主だった。と言って、金持ちを嵩にかけるようなところは全然ない。何度もお互いの家を行き来して遊んでいたが、両親ともにいつも笑顔で迎えてくれたし、見たこともないような茶菓でもてなされた記憶がある。

 「そうそう、そういえば、正式に平安高校の二年生に編入することになったから、またよろしく頼むよ。それと、那津は元気?」

 なるほど、そういうことか。そういえば、昔から博正は那津のことが好きだった。ここに来たのも挨拶がてらの情報収集、ということらしい。

 「マジか。向こうで大学まで出たんだろ? なんで今更、高校通うんだよ?」

 那津のことには、あえて触れないで答えた。

 「あ、ああ、大学卒業したって言ったって音大だからね。音楽のことならともかく、普通の勉強なんかほとんどしてないから。」

 「まあ、そりゃそうだろうけどさ。音楽で食べていけるんだから、それでいいんじゃないのか?」

 「うん・・・確かに生活はしていけると思うんだけど、ほら、まともに学校生活って送れてないから。向こうでも同世代の友達なんていないしね。みんな年上ばっかりで・・・。やっぱりこう、人並に学校生活はしておきたいなー、って。」

 「なに、青春を楽しみたいってやつ?」

 「まあ、そんなもんだよ。」

 そう言って、二人は笑いあった。この辺りの息は相変わらずピタっと合う。

 「で、どうなの? 清明は彼女とか、できた?」

 話を戻そうと、博正も必死だ。その考えは手に取るようにわかる。ここで那津と付き合ってるとか言えたら、どんな顔するのか、見てみたい気もする。

 「いやー、そんなの全然だよ。こっちは身長も止まったし、ルックスもこの通りだし。彼女要素どこにもないよ。そっちこそ、向こうで金髪の彼女とか、できたんじゃねーの?」

 「まあ、確かに、何度もデート誘われたし、メールとかやり取りした子もいるけど、彼女にした子はいないよ。だって、全員年上だぜ?」

 博正のいいところ、というか、悪いところ、というべきか、平気でこういう発言をしてくる。もっとも、本人に悪意は全くない。見たこと、感じたことを、そのまま口にするだけで。

 「うらやましい環境だよなぁ。そういえば、昔からモテモテだったもんな。」

 事実、博正は幼稚園の頃から数多くの女子を夢中にさせた。時には、その保護者や教師までが、博正に並々ならない好感を寄せることもあった。

 「そうかな? まあ、そうだとしても、気になった子に振り向かれたことは一度もなかったよ。」

 わかるぞ、わかる。そこで「それは誰?」って聞かれたいんだよな。だけど、そうはいかない。少なくても、俺をダシにはさせない。

 「それが現実だよ。博正も人並みに苦労してみろよ。この年代の男子はみんな、同じ悩み持ってると思うぜ?」

 博正は、露骨にがっかりした様子を見せた。さすがにちょっとかわいそうな気がしてきて、那津の話を持ち出す。

 「そうだ、博正が帰ってくるって、昨日、那津に伝えたんだよ。那津も喜んでたぜ?」

 実際の反応とはちょっと違うが、まあ、これくらいは許されるだろう。予想通り、博正は急に眼を輝かせて、身を乗り出してきた。わかりやすい。

 「そ、そうなんだ? なんて言ってた?」

 前のめり過ぎて、テーブルに膝をぶつける音が聞こえた。

 「あー、なんて言ってたかな・・・通学途中にさらっと話しただけだから・・・。なんだったら、直接会いに行ってみるか?」

 「え! えぇっ! 今から!?」

 今度は大袈裟にのけぞって驚きを示す。今時、ドラマだってそんな露骨な反応しないが、博正にとってはいつものことだ。

 その時、母が紅茶と焼き菓子を手に、リビングに入って来た。

 「ずいぶんと話が盛り上がってるわね。これ、早速だけど頂いたお菓子。一枚先に頂いたけど、とっても美味しかった!」

 博正は情けないような愛想笑いを浮かべてる。さぞかしタイミング悪いと思ってることだろう。

 「それは、良かったです・・・。」

 「で、ご両親はお変わりないの? たまにテレビなんかでご活躍は拝見してるけど、あれっ切りご無沙汰になっちゃって・・・。」

 そこからは母のターンだった。あれやこれやと、次から次へと話題が移る。時折、博正からの目配せにも気付いていたが、知らないフリで紅茶とお菓子を楽しんだ。なるほど、確かにうまい。

 母がパートに出る時間が迫って来た。この辺でもういいだろ。

 「母さん、そろそろ出掛ける時間じゃないの?」

 ハッとした母親は、博正に「ゆっくりしていってね」と告げると、準備のためにリビングを出て行った。

 「・・・おばさん・・・相変わらず話好きだよね。」

 ポツンと博正が言ったのを聞いて、たまらず噴き出してしまった。


 結局、シリアルが空になるまで食べ尽くした鬼丸が、テレビで朝の情報番組を興味津々で眺めていた。まだ調子が出ない母親に休むように促してから、私が食器の後片付けをしていると、鬼丸がリビングから声を掛けてきた。

 「お那津!『板』が何か言っとるぞ!」

 鬼丸はスマホのことを「板」という。教えたが、覚える気はなさそうだった。私は手を止めてスマホと取ると、着信はまたも清明からだった。

 「はいはい、また何かあった?」

 「おぉ、実は家に博正が来ててな。那津に会いたいんだって。」

 そう言った電話の向こうで、「あ、会いたいなんて言ってないだろ!」と言う声が聞こえてきた。声は変わってるけど、話し方で博正とわかる。

 「そうなんだ?お母さんが体調良くなくてまだ寝てるから、30分後にミッキーDでどう?」

 清明が了承して、みんなで会うことになったのはいいけど、鬼丸はどうしたらいいだろう。鬼丸にそのことを尋ねると、どうもハンバーガー自体に興味が湧いたようだ。私の経済状態から考えても、刀にしてカバンに入れていこう。

 鬼丸が短い刀で良かった、と思ったが、持っているリュックではどうしたってはみ出してしまう。仕方なく、クローゼットの奥からスポーツバッグを取り出して、何枚かの洋服で隠すように鬼丸をくるんで持っていくことにした。

 ミッキーⅮは大通りに出て少し行った先のショッピングモールにあった。平日の午前中だと言うのに、駐車場にはそこそこ車が止まっている。

 時間より少し早く着いたはずなのに、入り口の前には清明と博正がもう着いて待っていた。

 「ごめんごめん、待たせちゃった?」

 小走りに近付いていきながら、二人に声を掛けた。

 「全然!全然、今着いたとこ!」

 私が言い終わるか終わらないかのタイミングで、博正が両手を大きく振りながらそう言った。話し方や素振りは確かに博正だけど、背がものすごく高くなってるし、声も記憶してるより低くなっていた。髪型もなんだかおしゃれになっていて、別人を見ているような気がする。

 「うわー、博正!背伸びたね!今、何cmあるの?」

 「あ、180cmちょうどで止まったみたい。那津も、見違えた!すごく大人っぽくなったね!」

 そりゃそうだ、と思ったけど、悪い気はしない。

 「とりあえず、中、入ろうぜ?」

 清明が落ち着いて入り口を促した。博正が先頭で店内に入っていくのを見ながら、清明が目配せしてくる。恐らく、場違いに大きなバッグについてのことだろうと思ったので、私も目配せで鬼丸を持ってきていることを告げた。清明が小さくうなずいたので、うまく伝わったみたい。

 3人で注文を済ませ、それぞれトレーを手にして席に着く。食べたり飲んだりしながら昔話と最近の出来事について、話が弾んだ。博正が平安高校に正式に編入したこと、高校に通いながら、楽団で音楽家としての活動もすること、近所のマンションで一人暮らしを始めたことなんかも、その時に聞いた。

 久しぶりに合っても、昔と変わらない雰囲気がとても心地いい。博正がおどけて、清明がまじめに突っ込み、それを見て私が笑い転げる。それぞれ大きくなったけど、やっぱり幼馴染って、変に肩肘張らなくていいし、昔から知ってる、ってだけで自然と打ち解けられるものがある。

 「そういえば、学校の停電って、直ったのかな?」

 唐突に博正が話を切り出した。博正は本来なら今日から学校に来る予定だったらしいが、停電騒動で初当校は来週に持ち越されていた。

 「まあ、直ってなくても、土日もあるし月曜には普通に登校できるだろ。」

 清明が話題を終わらせようと、ごくさりげない感じでそう言った。平静を装っているが、内心ドキッとしたことだろう

 「そういえば、まだ学校見てないんだよね。様子見がてら、今から行ってみようよ。通学ルートも知りたいし。」

 博正は清明の気遣いを、物の見事に粉砕した格好だ。とは言え、学校の様子は私も気になるし、清明はもっと気になっているに違いない。私と清明は無言で顔を見合わせた。どう返答したものか、お互いに探りを入れている感じだった。もちろん、私はそういう判断には疎いので、すぐに視線を外して清明に丸投げした。 

 「あ・・・ああ、じゃあ行ってみるか。ここからでいいだろ?」

 好奇心の方が勝ったようだった。

 「うん、それで大丈夫。」

 博正がみんなのゴミをまとめながら返事をした。すぐにでも行きたいようだ。時計を確認すると、時刻は3時を少し過ぎたところだった。

 「そうだ、那津、あの親戚の子、一人で留守番なんじゃないのか?なんだったら、連れてきたら?」

 清明が急に私に話を振って来た。一瞬、何を言ってるのか理解ができなくて、気まずい沈黙が訪れたが、清明の必死の目配せで、鬼丸のことだと気が付いた。

 「あ! あー、そうね! そ、それがいいかも! うん!」

 博正が何か言いたそうだったが、言葉が口に出る前に、続けた。

 「じゃあ、私一回家に帰って連れてくるよ!二人は大通りの交差点で待ってて!」

 「そうだな!そうしよう!」

 なんだか二人だけの学芸会みたいな不自然さだった。私はそそくさと立ち上がり、じゃあ大通りで、と二人に告げて、足早に家路に着いた。自分の部屋まで戻って、鬼丸を人の姿に戻す。カバンの中で事情を聴いていた鬼丸はすぐに了承したが、さすがにこの服装では目立ちすぎる。そこで、私の子供の頃の服で、それっぽいものをいくつか引っ張り出して鬼丸に着替えさせた。靴だけはどうしようもなかったので、家のサンダルを履かせる。

 「なんだか落ち着かんのう・・・。」

 鬼丸は自分の着ている服をしげしげと見つめながら、不満げなつぶやきをしていたが、今はあまり時間がない。

 「ごめん、落ち着かないと思うけど、明日にでも新しいの買うから、今日はそれで我慢して。」

 私は鬼丸をなだめて、待ち合わせをした大通りの交差点へと向かった。鬼丸は時々つまずきながらも、何とか転ばないで着いて来ていた。

 「紹介するね、この子は親戚の子で・・・」

 そこまで言って、固まった。まさか『鬼丸』と紹介するわけにもいかない。名前を考えるのを忘れていた。清明がやれやれ、と言うように俯いて首を振っている。

 「鬼丸じゃ。よろしく頼む。」

 私も清明も、思わず飛び上がりそうになった。が、博正は鬼丸以上に空気を読まない存在だと言うのを忘れていた。

 「へー、珍しい名前だね!僕は、大胡博正。よろしくね!」

 ニコニコと、何事もなかったように鬼丸に手を振っていた。

 「じゃ、じゃあ、行くか!」

 清明が上ずった声で出発を促した。確かに、これ以上二人で話されてるといろいろと神経が持ちそうにない。

 こちらの心配をよそに、博正は鬼丸よりも久しぶりに見る地元の変貌に驚いている様子だった。あそこはスーパーだったとか、本屋だったとか、そんな話をしているうちに、あっという間に学校へと着いた。

 清明の話は、正しかったようだ。ここから見える職員室では蛍光灯が明々と灯っていて、中では数名の職員が何かの作業をしているのが見えた。それに、正門前にはパトカーが止まっており、敷地の中にもパトカーと警備会社の車両が数台、止められている。見慣れないバンやトラックも止まっているが、いずれもどちらかの関係車両だろう。

 「あれ、なんかパトカー来てるね。何かあったのかな?」

 博正が聞いてきたが、二人とも「さぁ」という風に首を傾げて誤魔化した。その時、清明が私の腕を叩きながら、「おい、あれ!」と敷地の片隅を見て呟いた。

 清明の視線の先を見ると、帽子を目深に被った人影が、日除けのための樹木の陰から教室棟を覗き込むようにしているのが見えた。まもなく6月だというのに、コートを着ているのもおかしい。見れば見るほど、怪しい感じがする。

 「あ、なんだろ、あの人。行ってみよう。」

 博正は私たちが止める間もなく、そちらに向かって走り始めた。いかにも怪しい感じなのに、博正にはそういう危機観念まったくなかったのを忘れていた。そういえば、子供の頃にもこんな感じで危うく溺れかけたことがあったのを思い出した。その辺は大人になってない。

 「あ、待てよ!」

 清明がそう言った時には、博正は10mも先に行っていて、振り向きもせずに人影の方に向かっている。

 私も清明も慌てて後を追ったが、慣れないサンダル履きの鬼丸は走りにくそうだ、と思っているうちに、派手に転んだ。

 「鬼丸!」

 私が手を差し出すと、鬼丸は一つうなずいて刀へと形を変えた。私は鬼丸をつかみ取ると、振り向いて二人を追い掛ける。博正はもう50m近く先を行っている。私は走る脚に力を込めた。自分でも驚くほどに速く走れる。あっという間に清明を追い抜き、間もなく博正に追い付く、というときに、人影がこちらに気付き、踵を返して走り始めた。走り始めこそ速かったが、そのスピードはすぐに落ち、やがて脚を引きずるような歩行に変わった。大きく肩で息をしているのが、後ろからでもわかる。

 「待ちなさい!そこで何をしてるの!」

 私は博正を追い抜いたところで、人影に大声で呼び掛けた。人影はギョッとしたように立ち止まると、こちらに向き直り、構えた。

 コートの前襟を立て、手には手袋までしている。帽子で表情までは見えないが、口元は大きなマスクを着けているのが見えた。

 「誰!学校で何をしてるの!」

 私も立ち止まり、いつでも鬼丸を抜けるように柄に手を掛ける。そこに博正と清明が追い付いて来て、私の横に並ぶ。

 「ま、待ってくれ!あ、怪しい者じゃ、ない!人を、探していた、だけだ!」

 声からして、高齢の男性のようだった。身長も高いし、スッキリとしたスタイルだったから、てっきりもっと若いものだと思っていた私は、少し意表を突かれた。少し走っただけなのに、呼吸が苦しそうで、荒い呼吸をしながら、ようやくそれだけを言ったが、息を整えるのに苦労をしているようだ。

 「誰を探してるか知らないが、今日は学校は休みだぜ!」

 清明も呼吸を整えながらそう言った時、空間がグラッと揺らいだ。

 「ま、まずい!」

 誰よりも早く、怪しい男がうろたえて、周囲をキョロキョロと見回す。周囲の景色が、見る見るうちに色を失っていく。直線で構成された建物などが不規則な曲線へと変わっていった。

 「あいつらが来るぞ!ひと固まりになって、姿勢を低くしておけ!」

 怪しい男が、私たちにそう警告して、手袋を外し始めた。その手は骨と皮ばかりに痩せ、色がどす黒い紫色に変色している。ゴツゴツとした指の先には、驚くほど分厚い、まるで猛禽類のような爪が鈍く光を放っていた。

 ふいに、遠くから太鼓を叩くような音が聞こえてきた。時に速くなり、時にゆっくりと大きく、その音が不気味に響き渡る。

 その音が聞こえてくる方向から、蜃気楼のようにゆらゆらと近付いてくる影があった。小さいが、数が多い。 

 「来たっ!みんな、私の後ろに!」

 男はそう言うと、私たちを後ろ手で庇うように、近付いてくる影の前に立ちはだかる。私は清明と博正の前に立ち、ゆっくりと刀を抜き払う。

 「な、那津!危ないよっ!」

博正が私の肩を掴んで引き戻そうとするのを振りほどいて、前へ進み出た。

「清明!博正をお願い!」

私はそう言って、もう一歩前へ出て、怪しい男に並んだ。と、同時に、揺れる影が完全に実体化し、一体、また一体と姿を現す。思った通り、小さいが数が多い。まるで荒削りの木製の鬼の面のように見える、体に比べて大きな顔の鬼だ。

合わせて10体が実体化し、体を揺すって今にも飛び掛かろうと膝をたわめた。

私は鞘を口に咥え、両手で鬼丸を持つ。前回のような強い衝撃はなかったが、両手の甲にこの前と同じ、稲妻のような模様が浮き出ている。

その時、隣にいた男が、素早く前に出て、地面を掃くように右手を振るった。10体の鬼は、それぞれ左右に飛んでそれを避けようとしたが、中心にいた一体はその右手をもろに受け、顔面をざっくりと切り割られていた。男はすぐに向きを変え、左に飛んだ鬼の背中に左手の斬撃を見舞う。鬼は胴体をほぼ両断され、地面にボトリと落ちると、その動きを止めた。

私は右に飛んだ一団に後ろから襲い掛かり、そのうちの一体の背中に切りつけた。手ごたえは浅かったが、鬼は傷口からどす黒い霧を噴き出して、消えていった。

一瞬の出来事に、小さい鬼たちは恐慌を来たしていた。遠巻きに二人を取り囲むようにして、距離を開ける。中には顔を見合わせて、逃げ出す者もいた。これで、残りは4匹となった。

その時、小さい鬼が逃げ去った辺りに、新たな揺らぎが影となって現れ始める。今度のは、大きい。

視線を怪しい男に向けると、男は先ほどよりも荒い呼吸をしており、今にも倒れそうに見えた。帽子とマスクで、相変わらず表情は読み取れないが、苦しそうなのが容易に見て取れる。

そうしている間にも、大きな影が実体化してきて、とうとう姿を現した。身長は3mは優にあるだろう。ボロボロの衣服をまとってはいるが、その上からでも、驚くほどに筋骨隆々なのがわかる。おまけに、右手にゴツゴツしたこん棒のようなものまで持っていた。

大きな鬼の登場で、小さい鬼たりがにわかに活気づく。まるで勝ちを確信したかのように、小躍りして喜んでいるようなのまでいる。

「ごおっ!」

と、大きな鬼が一声吠えた。空間がビリビリするような、重く響く声だった。やにわに、大きな鬼は手にしたこん棒を振り上げ、私たちのいる地面に叩きつける。すんでのところで左右に分かれて飛び、その一撃を避けることができたが、私は着地に失敗し、背中から地面に叩きつけられる格好となった。肺から空気が押し出され、目の前がチカチカした。気が付いた時には、鬼丸が手から離れていた。慌てて探すと、1mほど先の右の地面に鬼丸が見える。私は必死に呼吸をして、鬼丸に手を伸ばしたが、その時、大きな鬼がこちらに向かってさらにこん棒を振り上げているのが横目に見えた。気が付いた時には、完全に手遅れだった。

『やられたっ!』

そう思って固く目を閉じたが、衝撃は襲ってこなかった。

目を開けると、すぐ目の前に怪しい男の背中があり、両手で下から支えるように、大鬼のこん棒を押さえているのが見えた。

「刀をっ!拾えっ!」

私はハッと我に返り、右に飛びながら鬼丸を拾った。男はそれを見届けると、左にに大鬼のこん棒をいなして、私の前に転がるようにして大鬼との距離を取ったが、容易に起き上がることができないでいるようだ。帽子が取れ、もつれた長髪が露わになった。その髪の毛は血で濡れていた。恐らく、支えようとして支えきれなかったのだろう。

私は今度こそしっかりと鬼丸を握り、男の陰から飛び出すようにして飛び上がった。勝利を確信して近付いて来ていた大鬼の頭が、足下に見えた。まるで信じられないものを見た、というように、あんぐりと口を開けていた大鬼の脳天に、渾身の力で鬼丸を叩きつける。大鬼は頭の先から突き出た腹までをしたたかに切り下げられ、パクパクと口を動かしていたが、やがて黒い霧に包まれるようにして姿を消した。私は小鬼の方へ振り返り、続いて飛び掛かろうとしたが、固まっていた小鬼たちが弾かれたように逃げ出し始めたのを見て、ホッと息をついた。いつからか、呼吸を止めていたようだった。

その瞬間から、周囲の景色が元に戻り始めた。元の色と形を完全に取り戻す。

「那津!大丈夫か!」

清明がそう叫びながら、走って近付いてくるのが見えた。その向こうで、博正が放心状態で座り込んでいる。私は振り向いて、仰向けに倒れている怪しい男の前に座り込む。息苦しそうに見えたので、まだ口に掛かっているマスクを外すと、今度こそ、その男の顔が露わになった。まるで、骸骨だった。落ちくぼんだ眼窩に光る眼こそ、人間のものだったが、頬は完全にこけ、鼻は異様な角度に曲がっていた。口には唇がなく、むき出しの歯ぐきから、人間の物とは思えない長い牙が、いくつも見えた。

驚くほどに醜く、一度見たら決して忘れることのない顔だった。

だけど・・・。私にはわかった。この人は、私の父親だ。


「わたなべなつのおにたいじ」⑥
了。


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