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第27章 西施 | 追尋 — 鹿港から眷村への歳月

訳者補足:オードリー・タンの父方の祖母、ツァイ・ヤーバオの自伝『追尋 — 鹿港から眷村への歳月』の第27章です。

※ 原文内容の事実確認による検証・訂正などはせず、そのまま記載しています。

 次男(第4子)が小学校四年生の夏休みのある日、映画会社のスタッフと名乗る2〜3人が、眷村の村長を訪ねてきました。

 石門鄉の白沙湾でロケーション撮影をするので、臨時で大量のエキストラが必要になり、銘德⼀村に人探しに来たのだそうです。

 朝7時に集合して、午後5時半には仕事が終わり、1日の工賃は40元で、10日間ほど働いてくれる人を探しているとのことでした。

 当時、女性たちは大変な思いをして田畑の雑草を抜いても1日の工賃はたった35元でした。臨時のエキストラは拘束時間が長いとはいえ仕事内容はとても楽なものです。しかも工賃は毎日現金で支払ってもらえるということですから、老梅村と富基村、そして銘德⼀村から合わせて4、50人が参加することになったほか、3人のおじさんたちがお目付役として同行しました。

 撮影現場は白沙湾の海水浴場です。映画会社は香港の名映画監督・李翰祥が設立した國聯影業有限公司という会社でした。李監督は西施(訳注:せいし。春秋時代、越の国の人物とされる。中国古代四大美女の一人)の映画を撮るために台湾へ来て、白沙湾がロケ地に選ばれたのでした。

 このシーンは越の国の王・勾踐が吳の国で三年間の軟禁を解かれ帰国したというもので、越の国の人々は王が無事に帰国したことを知り、歓迎しに海辺に向かったという場面です。
 私たちが演じるのは越の国の女性たちでした。男性のエキストラも数百人必要だったので、李監督は人脈を使って装甲兵部隊の兵隊たちに参加してもらったのでした。

(上)主演女優の江青さんと、装甲兵部隊の兵隊たち。(下)越の国の女性たちの衣装。

 出演する女性たちは毎朝6時半に銘德⼀村の入り口にあるバス停に集合し、映画会社のスタッフが軍隊から借りたトラックで迎えに来てくれました。車いっぱいに人を乗せたトラックが現場に到着すると、私が衣装を受け取る役割を担当し、一人ひとりに手渡しました。場所を探して着替えを済ませ、木の下で監督からの指示を待ちました。

 初日、映画会社のスタッフと私たちは一緒に行動しました。私は中国語も台湾語も理解できたので、眷村の女性たちが困りごとがあった時にコミュニケーションを取る係も担当しました。午後、眷村に戻り、トラックから降りると一人40元が配られました。衣装係やコミュニケーションの係はボランティアで、手当などはありませんでした。

 長女が最も楽しみにしていたのは、毎日お昼になると妹と2人の弟を連れてバスに乗り、私にお弁当を届け、ついでに現場を見学することでした。子どもたちは楽しく遊んでいましたが、大人たちは日に焼けて顔の皮がむけるほどでした。当時の私は日焼け止めを買うという知識もなかったのです。

 8日目の朝、責任者が私のところへ来て、7歳くらいの痩せた男児を探してもらえないかと聞きました。あるシーンで3人の子どもと2人の母親が必要になったからだそうです。そのシーンは水平線から朝日が昇る頃、外海に漁に出た漁師がたくさんの魚を船に乗せて港にゆっくり入ってくるというものでした。漁師の妻たちは子どもを連れて、仕事から帰った父親たちを出迎えるのです。そんなわけで、私と次男、そして映画会社の大髭の男性とその奥さん、息子さんと娘さんが駆り出され、金山の海辺で撮影することになりました。

 9日目の深夜2時半、私は次男を起こし、急いで銘德⼀村の入り口のバス停へ行き、迎えの車を待ちました。
 車に乗ると、次男は私の膝の上で眠り、金山に着いたのは4時頃のことでした。
 映画会社は金山青年活動センターを借りて、撮影の準備をしていました。

 車を降り、皆はメイクをします。
 次男と大髭の男性の子供たちは伝統的な漁師の子どもが着る洋服と帽子をかぶり、私と大髭の男性の奥さんのお化粧が終わるのを待っていました。

 準備が整い、朝日が出ようかというところで、私たちエキストラは興奮し、緊張し始めました。

 まさに全員揃って撮影を始めようとしたその時、海岸巡防司令部の数名がやってきて、「御社は海での撮影を事前に申請していないので、撮影は認められません」と李監督に告げました。スタッフのミスで、出演者や私たちエキストラの準備は無駄に終わることになりました。皆がっかりしながら化粧を落とし、撤収しました。

 帰り道、責任者はすべてのエキストラに、大人も子どもも関係なく20元の工賃を支払いました。本来は40元と約束されていましたが、撮影ができなかったので、半分になりました。皆がたくさんの時間をメイクや準備に費やしたのに結果撮影できず、本当に残念です。

 まだ戒厳令が敷かれていた時期だったので、両岸(訳注:中国大陸と台湾)関係はとても緊迫しており、海で勝手に撮影することは許されませんでした。私が大髭の男性と呼んだ方は正真正銘の俳優さんで、私たちにとても良くしてくれ、多くの仕事を頼んでくれました。

 金山から帰り、次男を家まで送った後にスタッフたちと一緒に仕事現場へ行ってみると、大髭の男性から「比較的上質な撮影用衣装を、家に持ち帰って洗って来てくれないだろうか? 工賃は弾むよ」と聞かれたので、私はその仕事を引き受けました。

 10日目に洗った衣装を整えて海辺の現場まで持っていくと、海の水が赤く染まっていました。人に聞いて分かったのですが、撮影最終日は越の国が戦いに負けて、死傷者が大勢出たシーンだったので、出演者たちは皆、海の中に浮かんで死を装わなければならなかったのだそうです。そのシーンはとても大変で、皆全身ずぶ濡れでした。私が現場に行った時には撮影が終わった後で、災難から逃れられて良かったです。

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