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第29章 長男の大学合格 | 追尋 — 鹿港から眷村への歳月

訳者補足:オードリー・タンの父方の祖母、ツァイ・ヤーバオの自伝『追尋 — 鹿港から眷村への歳月』の第29章です。

※ 原文内容の事実確認による検証・訂正などはせず、そのまま記載しています。

民国58年、家族全員と夫のいとこと姪との集合写真。

 民国57年、高校に入って二度目の夏休み、長男が台北から戻ってきました。彼はリビングに荷物を下ろすと、友人に会いに出かけて行きました。

 私はいつものように彼の荷物を整理していて、荷物の中に一通の届かなかった手紙を見つけました。宛先は彰化の鹿港、郵便局の「受取人が見つかりません」というスタンプが押されていました。手紙の中身を見ることはせず、息子が帰ってきた時に事情を聞いてみました。

 長男の説明によると、前に家から生活費500元を持って台北学苑に帰るバスを降りたところで、サンダルを履いた若者と出会ったのだそうです。

 若者は長男と同じ17歳で、「彰化に帰らなければならないんだけど、お金がないんだ。家に戻ったらすぐに送り返すから、貸してくれないかな?」と頼んできました。母親と同じ彰化人と聞いて親近感を覚えた長男は、持っていた500元を彼に貸すことにしました。若者は自分の住所を書いて長男に渡し、別れを告げてバスに乗り込みました。

「その後一週間待ったけれど何も連絡がなかったから、お金を返してもらえるよう手紙を書いたんだ。でも、戻ってきてしまった」と息子は話しました。

 彼は一ヶ月の生活費を失いましたが、実家に帰ってお金をもらうこともできなかったのです。

 この一ヶ月はこれまでの生活費の残りを使って毎日トーストを食べて乗り切り、翌月に実家から生活費が出るまで我慢してきたのでした。

 私は聞いていられなくなって、「良い行いをするのは大切だけど、自分ができる範囲内にしないと、自分が飢えて病気にでもなったらどうするの?」と言い、息子は「分かりました。これから気を付けます」と答えました。

 時間があっという間に過ぎ、長男は高校を卒業しました。7月1日、2日は「大学連考(訳注:当時行われていた大学に入学するための統一試験)」です。

 試験前日の晩、私は台北まで付いて行くことにしました。

 私は友人の陳さんの奥さんの家に、息子は夫のクラスメイトだった邱叔父さんの寮に泊まりました。翌朝早く、私と長男、邱叔父さんの3人は一緒に入試会場へ向かい、家から来た長女と落ち合いました。入試が行われる2日間、私たちはずっと長男に付き添い、昼食は邱叔父さんに手配してもらいました。夫には家にいてもらい、仕事をしながら3人の子どもたちの世話をお願いしました。

 入試が終わると、家に帰って結果を待ちます。

 各家庭に成績表が送られた数日後、テレビはそれぞれの大学の合格基準となる点数を放送します。私たちの家にはテレビがありませんでしたので、李さんの家の玄関から観させてもらいました。

 長男の点数で、国立政治大学の政治学部に入れると知り、私は心の中にあった大きな石をやっと下ろせたような気持ちになりました。息子は私をがっかりさせることなく、私は夫に跡取りを渡すことができたのです。

 夜、ベッドの上でも涙が止まりませんでした。夫は普段から感情を表に出さない人でしたが、とても喜んでいるのが分かりました。

 翌日朝早く、齊おじさんは爆竹を買ってきて「唐さん、息子さんの国立大学合格おめでとう!」と言って玄関前で点火し、お祝いしてくれました。爆竹がバチバチと音を鳴らしました。続いて黃おじさん、楊おじさんら何人ものおじさんたちが爆竹を放ってお祝いし、老梅街から張おじさん、原発工場で働く友人たちもやって来ました。

 この友人たちはエンジニアで、いつも我が家の子どもの勉強を心配してくれていました。小さな小さな路地にたくさんの爆竹が放たれ、祝福の声が鳴り響きました。爆竹だけできっと300元はかかったと思います。

 皆がこんなに喜んだのは、長男がこの眷村で初めて国立大学に合格した子どもだったからです。これからどの家の子どもも彼のようになれるようにと望んでいました。


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