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第20章 澎湖から僑愛新村へ | 追尋 — 鹿港から眷村への歳月

訳者補足:オードリー・タンの父方の祖母、ツァイ・ヤーバオの自伝『追尋 — 鹿港から眷村への歳月』の第19章です。
※ 原文内容の事実確認による検証・訂正などはせず、そのまま記載しています。

 民国45年、政府は桃園・大溪エリアにある八德の松樹腳に台湾で二番目となる眷村を落成し、「僑愛新村」と名付けました。

訳注:現在の地図で見る「僑愛新村」の位置(出典:Googleマップ)

 蒋介石夫人が世界中の仲間に三軍の家族たちのための家を建てようと寄付を呼びかけてくださったと聞きました。

 私たち澎湖の部隊にも割り当てられるとの知らせが届き、僑愛新村へ移りたい人は申し込みするようにとのことで、私たちのところからは我が家を含めた9家族が申し込んでいました。私たちは夫が安心して仕事に専念できるよう、仕事以外に子どもの世話や家事で苦労することのないようにと、台湾本島へ子どもを連れて行こうと考えていたのです。

 引っ越しが決まった後、部隊は私たちに心の準備をするように言いました。近いうちに軍隊の慰労のためにバンドが飛行機に乗って澎湖を訪れ、その時もし帰りの飛行機に空席があれば、台湾本島へ私たちを乗せて行くということでした。

 民国45年8月のある日、仕事から帰った夫があと3日で飛行機が私たちを台湾本島へ送ることになるから、明日から荷物を準備するように言いました。

 澎湖へ来てやっと家族一緒に暮らせるようになったのに、三年そこらでまた離れ離れになり、いつになったらまた一緒に暮らせるのか分かりません。

とても複雑な心境でした。けれど、夫が安心して働くために、ここは歯を食いしばってお別れするしかありません。

 出発の日、空港でちょっと笑ってしまう出来事がありました。

 当時は皆生活が苦しく、家にあるものはすべて貴重でしたので、食事を作るためのコンロ、火を起こすための木材など、すべての持ち物をしっかりと飛行機に積めるよう準備しました。

 積荷を乗せ、人々がまだ乗り込んでいないタイミングで機内に乗り込んだ操縦士は呆れて、いったいどの軍官が重量をチェックせずに荷物を積み込ませたのかと怒り出しました。

「私一人の命ならともかく、9家族の命がかかっているんだよ、君は責任が取れるのか?」と責められた軍官は顔を真っ赤にして返す言葉もなく、必要のない荷物を下ろし、次の飛行機で送ると言ってくれたのでした。

 こうして3年以上暮らした澎湖・東衛里にお別れを告げました。さようなら!

 飛行機は40分ほどで桃園空港に着陸しました。

 飛行機の中では皆緊張していましたが、機内放送で無事に着陸したと聞いてやっと安心し、大喜びで子どもたちと軍用トラックに乗り込み、僑愛新村へ向かいました。

 私にとって、2ヶ所目となる新しい眷村生活の始まりです。

訳注:現在の地図で見る「澎湖」と「僑愛新村」の位置関係(出典:Googleマップ)

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