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若者たちの「炎上」を見て思うこと

若者たちのSNS投稿が他者によって拡散されて、議論のネタになったりミーム化したり、その果てに警察沙汰になったりする様子を最近よく見かけます。それらはだいたい「炎上」という言葉でひとくくりにされます。その言葉を見ると、若くて未成熟な体がごうごうと炎に包まれて燃えている様子を視覚的に想像してしまって、胸がきゅっと詰まるような感覚が走るんです。

自分自身の中学生、高校生の頃を思い返してみると、ほんとうに視野が狭くて考えが浅かったのを思い出して苦い気持ちになります。自己中心的な発想で身近な人を数えきれないくらい傷つけたし、承認欲求を満たすためにかなりヤバい行為に及んだこともあります。

でも、それは悪いというより、当たり前のことです。だって他者と接する場と言えば自宅、学校、場合によっては習い事や塾くらいで、特に興味がなければ、価値観が大きく異なる人と話す機会がないんですから。他人はおろか、自分の個性や考えの軸すらわかっていませんでした。

だから当時の自分に「多様性」とか「相手への思いやり」とか聞かせても、まるでピンとこなかったと思います。何をやったら警察沙汰になりそうかくらいの判断はついたはずだけれど、それがギリギリ。自分のやったことが他者にどういう影響を与えるか、自分の発言が誰かから見てどう捉えられるかは、ほとんど想像できませんでした。

だから自分が若かった時代に、SNSがなくてほんとうによかったと思います。もしもあの頃SNSがあったら、私は好きでもないダンスの動画を撮って投稿したかもしれないし、何もしなくても維持できていた体型をできるだけ露出して「いいね」を欲しがったかもしれません。誰かを傷つける言葉を発言して、ゲラゲラ笑う様子を世界中に公開していた可能性すらあります。

というのを踏まえたうえで、私は今「炎上」している若者たちを見るたびに、その火に油を注いでいる大半が大人たちであることに違和感を覚えるのです。もちろん「違法だ」「下品だ」「ひどい」「悪い」など、大人たちが大人の目から見て指摘する意見はまっとうだし、私だって炎上する投稿に対して好印象は抱きません。でも、ここぞとばかりに強い言葉で責め立てる大人たちを見ると、「そういう自分は同じ年代のときどうだったん?」と問いたくなるのです。私たちはただ、SNSがない時代に生まれたから燃えなかっただけの、似たような若い頃を経てきたおっさん、おばさんたちなんじゃないかしらって。

SNSというものは、内容が良かろうが悪かろうが、たくさんの人が注目するものが、もっとたくさんの人を呼び寄せるようにできています。その特性上、SNSの治安を決定づけていくのは、ユーザー一人ひとりが何に注目するかだと思います。だからといって、投稿される若者たちの愚行を「見るな」というわけじゃありません。でも、その若者たちに関わるのならば、大人たちが何を伝えるべきか、どう関わるべきかは、ちょっと考えてもいいんじゃないかと思うわけです。

あと、逆に投稿している若者サイドの人がもしもこの文章を読んでいるならば、あなた方の若さは日々ストレスをためている大人たちの恰好のエサになってしまうんだよ、と伝えたいです。

たとえその若さを晒してたくさんの「いいね」をもらえたとしても、その多くはあなた自身を正当に評価したり、真剣に見つめてくれたりする類のものではありません。若さをコンテンツとして消費する有象無象いる大人たちのエゴや欲求を、いろんな形であなたがむやみに集約しているにすぎないんです。

若さは不可逆的なもので、大人たちにとってはほんとうに価値が高いものなんです。まだ何も知らないこと、愚かな選択も躊躇なくできてしまうこと、たくさんの選択肢があること、不安定であること、ただそこに存在するだけで尊い存在であること。いろんな意味で、すごく価値がある。それを無料のコンテンツとして晒して得られる対価はちゃんと合っているのかな、と私は問いたいです。

もちろん今の時代に生きている若者たちに、SNSを「使うな」なんて到底言えません。きっと世界中に自分の姿を見せていくことは、呼吸するくらい当たり前の行為なんだと想像しています。でも、自分が見せる一挙手一投足が、実はものすごく価値があるものなんだということは、ぜひ知っておいてほしい。若さという誰もが等しく与えられる武器を、わずかな時期しかつかえない武器をふるっているということを意識してほしい。そして、ちゃんと自分のことを大切にしてほしい。

SNSに投稿しようがしまいが、きっと若いうちはたくさんの失敗をします。誰かを傷つけたり、誰かに迷惑をかけたりするはずです。それで誰かから怒られたり、自分自身も傷ついたりするたびに、自分と他者の関係性について考える機会を得られます。それが、振り返れば成長と呼べるものになって、いつしか大人になっていくのだと思います。その貴重な成長の機会は、できれば身近な人との間で起こるものであることを、私は願ってやみません。だってそのほうがしっかり痛いと感じられるはずだし、本来得られるべきだった成長以外の波紋は起こらなくて済むから。

そして若者に対して説教をたれたり不満をこぼしたりする大人たちも、全員かつては若者だったということを忘れないでほしいです。大人になると自分が傷つかない頭のつかい方を覚えるので、都合の悪いことは忘れるようになっていくのですが、どんなにえらそうな大人も若者の頃は多かれ少なかれ失敗しています。恥ずかしい過去について言わないだけですし、今と違ってインターネットにそれを晒してこなかっただけです。

ほんとうは若者たちは燃えなくたっていいし、大人たちは燃やさなくていいんだと思います。だってわからないことは失敗して当たり前だし、自分が何者か確認したくてもがく年頃なんだし、若いってそういうことじゃん。でも今はそこにSNSというものがあって、いつだって何かを探す若者たちを甘く手招いているし、大人たちも若さをというコンテンツを嬉々として受け入れてしまう。そういう構造をお互い認識しあったら、すこしは今よりも若者たちにとって健全な“経験”を残せるんじゃないかしらって、私は思いました。

もちろん、今回私が書いた文章のように、SNSは「若者・大人」できれいに二分されているわけじゃないし、炎上する投稿の内容だって千差万別です。すべてにこの構造が当てはまるわけじゃないことも、中には投稿への言及・議論が必要不可欠であるものがあることも、理解しています。そのうえで、「よく見るモヤッとする炎上パターン」に対して思ったことをつらつら書いてみた次第でした。

大きな時代の流れや育っていく文化には逆らえないから、せめて一人ひとりが心がけることで、わずかながら変わる何かを願いつつ。

読んでいただき、ありがとうございました!もしコンテンツに「いい!」と感じていただいたら、ほんの少しでもサポートしていただけたらとってもとっても嬉しいです。これからもよろしくお願いいたします。