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この人賢い!と思われるには?についての雑記~第一回:論理的思考~

世の中素晴らしい頭脳の持ち主、いわゆる賢い人がいて、そういう人の言動は凡人の一枚上をいきます。ちなみに、タイトルに「賢い」なんて雑な言葉を使う私は凡人でしょう。
じゃあ、凡人は敵わないかというと、そうでもないのでは?と思っています。賢い人の振る舞いから学び、実践すればある程度追い着けます。もちろんすべて実践出来るわけではないので、ある程度、ですが。

私はこれまでたくさんの賢い人に出会ってきました。そんな人たちに共通するものは何か?というのが今回の雑記です。第一回は論理的思考です。

賢くなるための基礎は「論理的思考を高める」ことにある

例を挙げると
1.AならばB
2.BならばC
3.よってAならばC
が論理的思考です。他にも演繹とか帰納とかもありますね。論理は私たちの暮らす世界で揺らぐことは少ないので便利です。
(※なぜ揺らぐことは少ないと言えるのか、についてですが、これは直観としか私には言えません。これは論理的思考と矛盾しています。ただ、「矛盾」していると理解した上で話を進める、というのは論理的ではないでしょうか?まあ、凡人が書いているので限界はありますが)
(※なぜ「少ない」なのか、というと、論理にも限界があるからです。それは、複雑すぎる、とか、未知である、とかに起因します)

「そんなのが論理的思考?私は出来てる!当たり前じゃん」と、インフルエンサー気取り等の偉ぶっている人ほど思いがちですが、ほとんどの人は出来ていません。大抵論理破綻してます。

「論理破綻なんて起こしてない!」という人は一度自身の文章や発言を振り返りましょう。恥ずかしくなると思います。そのときは基礎を固めましょう。恥ずかしく感じないならば、肩の力を抜いて再出発するか、凡人として生きましょう。この段落を読む前に少しでも振り返ってみた人は多分賢い人です。

論理的思考が出来ないほど他者とのやり取りの質が下がる

論理は他者とのやり取りにおいて、他者が発する物事の構造を受け止めて理解したり、構築した考えを主張する上で欠かせません。それはなぜか、というと自分自身と他者は別の存在であるからです。なので素のままでは別の存在とわかりあえません。

そこで活躍するのが論理です。この世界で揺らぎの少ない論理はそれを乗り越える架け橋となり得ます。少々語弊がありますが、論理は共通言語、とも言えるでしょう。

やり取り上手は賢い人の条件

さて、言語の習得度合いは他者とのやり取りにおいて重要な要素です。高いほど様々なやり取りが出来ます。そして逆も然りです。

他者と質の高いやり取りが出来る、つまり上手にやり取りが出来る人は多くのことを受け止めたり、理解したり、考えたり、主張したり出来るのは自明でしょう(ごめんなさい、疲れてきて面倒なだけです)。そして、世間では、やり取り上手であればあるほど、その人を賢い人と位置付けます。

論理と感情

さて、ここで感情というものについて私の考えを述べておきます。というのも論理と聞くと、感情を思い浮かべる人が多いと思うからです。

わかりやすくするために感情というものを「言語化できない何か」と言い換えましょう。このとき私は感情を二種類に大別します。

ひとつは論理の延長にあるが複雑すぎて扱いきれないものです。論理的感情と言いましょうか。

もうひとつは、論理外にあるものです。先述しましたが論理は揺らぎが少ないだけで完璧なものではありません。完璧を崩す要素のひとつが感情です。では、感情を前に人はどうすべきか。悲しいかな、無理矢理論理付けするか、「論理では扱えない」という論理を持ち出すか、しか私には思い付きません。

最後に~論理的思考を鍛えるだけでいいのか?~

ここまで書いたことだけ読むと「論理的思考を鍛えればいいのね!」と考えるでしょう。それは間違っていませんが、賢い人となるために実践したいことは他にもあります。論理的思考はあくまで基礎で、その上に更なる実践を積み重ねることが出来るのです。詳しくは次回以降で(あるかわかりませんが……)。

ブログとはまた違ったテイストです。