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『 猪鼻家の栄華、そして… 』

前回からの続きの話である。

祖父は、戦前に、埼玉県で初めて

民間で認可を得て、川越で、タクシー会社を始めた。

ハッキリとした名称がわからないのだが、

ケーワイ タクシー、或いは

ケーアイ タクシー、そんな名称だったらしい。

その頃の、国産自動車メーカーが、どうだったのかわからないので、

もしかしたら、輸入車(外国車)だったのかも知れないが

とにかく、タクシー事業と、観光バスを始めたらしい。

結論から言うと、その事業は大成功し、

猪鼻家は、一気に財を成した。

大きな屋敷に住み、家政婦(昔は、召使いと言った)が何人もいたらしい。

その中で、父や兄弟たちも生まれ、育った。

長男 慶一(ヨシカズ)は、乳母(うば)に育てられたとのこと。

昔は、そういうしきたりみたいなものがあったのでしょうか。

その時代の「 事業の成功 」とか、「 暮らし向き 」などと言ったって

僕には、あまり想像がつかないので、

華麗なる一族

の、もう少し小さい規模としてイメージしてみます。

川越では有名な家で、いわゆる、御曹司、御令嬢として

幼い頃の父たちや、兄弟は

旧華族のように

優雅に、贅沢に、暮らしていたそうです。

そんな、栄華のなか、日本に暗雲が立ちこめてきます。

第二次世界大戦、太平洋戦争へ…

アメリカとの開戦の道をたどる日本軍は、

国民に対し、贅沢を禁止し、節制を求めます。

これにより、タクシーや、観光バスを使うひとが

激減し、ケーワイタクシーは衰退していくのです。

1941年(昭和16年)に、真珠湾攻撃により

ついに、日米開戦が始まります。

その頃の国民は、日本がアメリカに勝つことを

信じていましたが、冷静に考えれば不可能なことはわかります。

当然、戦況は悪くなる一方で

そうなると、物資を集めるのに、

いろんなとこから、鉄や、真鍮を集めるようになり

すべては、お国のため

という、名目のもと、

一般市民から、"贅沢品"と呼ばれるものまで

すべて徴収していくのです。

その頃、旧制中学に行っていた 

長男 慶一は、陸軍に、次々と持っていかれる

クルマやバス、家財の数々をみて

悔しくて、悔しくて、たまらなかったそうです。

結局、日本は"敗戦"し、

徴収されたものは、何ひとつ戻らず、

ケーワイ タクシーは、廃業となります

そして、残ったのは建物だけになりました。

こんな話もあります

長男 慶一以外の3人は、まだ幼かったので

疎開をしていました。(もちろん僕の父も)

敗戦濃厚な日本軍…

そんな中、慶一に"赤紙"が届きます。

いわゆる、"軍への召集命令"です。

どうしても、戦争に行きたくない 慶一は、

山梨の学校(よくわからないが、その学校へ入ると召集が免除されるらしいとのことで)

に、行くことになりました。

慶一は学業成績が優れていたので、入るのが難しい学校だったのかも知れませんがね。

兵役は逃れたものの、

戦況が、"本土決戦"にまでおよび

ついに、アメリカ軍の、空爆攻撃が始まります。

すると、なんと…

山梨の、慶一が行った学校と、その周辺が空爆にあってしまうのです。

両親は、トランジスタラジオでそのニュースを聴き

泣き崩れていたとのこと。

慶一の葬儀や、これからのことを考えいた

空爆からちょうど三日後、

慶一が「ただいま」と、言って、いきなり帰ってきたのです。

なんとか、運良く、爆撃は逃れたものの

電車や、その他、交通機関はすべて止まり、

焼け野原だったところから、三日間

"飲まず食わず"で、歩いて、山梨から川越まで

帰ってきたそうです。

これには、流石に家族も驚き、嬉しさと安堵で

慶一を褒めたたえます。

その後、日本は終戦を迎え

慶一は、早稲田大学の政経学部に入学、

卒業後はキャノンに入社、各地への転勤なども経て

後に、キャノンの取締役に就任。

そして、関連会社の社長として活躍するのです。

キャノンの本社にいた頃は、

若い頃の"ビル・ゲイツ"とも、一緒に仕事をしたそうです。

そして、残念ながら一昨年の7月に他界。

92歳の生涯に幕を閉じるのでした。

まとめ…

一時代を築いた猪鼻家も

戦争という、時代の流れには逆らえず

すべてを失い

その後は

自分の力で、それぞれの生き方を歩んでいくのです。

これが、激動の昭和という時代なのですね。

※ この話は以上となりますが、

また、別のエピソードや、違う部分がわかったら

補足、或いは、修正したいと思います。


昭和30年頃の写真。左から、父(宏)、真ん中 伯父(慶一)、右 祖母。終戦から、約10年後の貴重な写真。

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