『 こんなときに… 』
本来ならば、母の二回目のオペの話を書くところだが
スピンオフとして、そのときにあった
別の話を書くこととする。
その頃、僕には4年半付き合っていた彼女がいた。
そして、彼女は母の入院している病院の看護師でもあった。
彼女(仮名 エミとしておく)の所属先はICUだった。
その、二年前には僕が入院していた場所である。
母の容態がいつ急変するかわからなかったので
病院近くにアパートを借りて住んでる
エミの部屋にしばらく住まわせてもらうことにした。
エミとは、近い将来、結婚をする約束をしていた。
毎日、不安を抱え、母の付き添い生活をする。
エミがいてくれることが、とても心強かった。
あと数日で、二回目のオペが行われると言う ある日
いつも通り、病院から深夜、エミの部屋に帰った。
すると、準夜勤の勤務を終えた
エミが先に帰ってきていた。
「 エミ ただいま。お仕事おつかれさま」
と、いつも通り声をかけた。
そのときのエミは、とても表情が暗く
元気がなかった。
「仕事で何かあったの?よかったら聞くよ」
と、言ってみたのだが、エミは低いトーンで
「ヤチ(僕のニックネーム)が、今お母さんのことで大変なときに言う話じゃないから…」
と言った。
母の状態は落ち着いてるし、自分も元気だから大丈夫。
話してごらんよ。とさらに重ねた。
しばらく、沈黙が続いたあと
エミはいきなり切り出した。
「 このタイミングでいうのが良くないことはわかってる。でもね、もう自分の気持ちを隠せないの。」
僕は、何を言ってるのか、さっぱりわからなかった。
ん?仕事の話じゃないのか。
「わかりやすく、正直に言ってくれていいよ。」
そう言った自分の心臓がバクバク音を立てていた。
「実はね、半年前から好きなひとがいるの」
僕のアタマの中は、キィーンと言う
耳なりのような音が鳴っていた。
平静を装いながら、「それは、僕と別れたいってこと?」と聞くと
エミは黙ってうなずいた。
僕も何をどう言えばいいのかわからず
そのまま黙ってしまった。
沈黙を破ったのはエミだった。
「その人は、同じICUにいるドクターで、千葉医大から出向できてるの
来月いっぱいで、千葉医大に戻るから
いなくなれば諦められると思って言わなかったの。
でもね、いざ来月(三月)が近づくと居ても立っても居られなくて…。
本当にごめんなさい…。」
「エミの気持ちは、もうその人にあって、これからは、その人と付き合いたいって言うことなんだよね?」
また、エミは黙ってうなずいた。
まさか、こんな話を聞くとは思っていなかった僕は
混乱するアタマをどうにか落ち着かせ、
『 わかった。正直に言ってくれてありがとう。
四年半 僕の彼女でいてくれて、
本当に幸せだったよ。』
無理矢理の、精一杯作った笑顔で
そう答えた。
僕は、ゆっくり立ち上がり、カバンに自分の荷物を詰め始めた。
支度が済むと、エミに
「今までありがとう。お母さんのことは大丈夫だから心配しないで。
そして、その人と幸せになってね。」
そう言って
二月の寒空の下、深夜2時頃
アパートを出て行った。
僕は、東太田の自宅に帰り、
一晩中、泣いて、泣いて、泣き明かした。
そのときの、惨めさ、悲しみ、失望感
は
あれから20年以上経った今でも、
忘れることはできない。
猪鼻康幸 32歳の出来事である。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?