ヤブクグリという山や森や木のことを考えるチームを作って早10年以上が過ぎたが、今でもヤブクグリがいったい何の団体か分からない人が多く、自分たちでもうまく説明できないでいる。しかし、山や、森や、木が好きな人たちが集まっていることは、最初から変わらない。ホームページが新しくなるこのタイミングで、メンバーの山や森や木への想いをここに綴っていくことで、その人格が少しでも伝わっていくことができればと思い、ヤブクグリ文庫と題したnoteを作りました。林業家や木材市場、製材所や木工作家を
私の先祖が明治時代から住み続けてきた大分市の春日浦地区。キリシタン大名の大友宗麟が1532年から約20年に渡ってポルトガルや中国との貿易を行ったと言われており、「南蛮貿易場址」の記念碑が立っている。平安時代から続く春日神社はその石碑のすぐそばにある。 少女時代、私はこの神社に隣接した公園内にあるこんもりとした小さな丘のような通称”森”と呼ばれる場所で、おにごっこやかくれんぼをして木々の間を走り回っていた。家に見立てた低木の下で、小枝やどんぐりの実・葉っぱなどを拾い集めて”
僕は、生まれも育ちも大分県日田市。林業の盛んな町で、以前は、実家の近くに、日田木材協同組合がありました(現在はウッドコンビナート内)。敷地内に丸太が並んでいたことがあり、かくれんぼや野球をして遊びました。厳しい社員さんがいるときは、危ないからここで遊ぶな!と良く怒られ追い出されたことがありますが、休日などは、僕たちの遊び場となっていました。 この時は、日田市が林業の町とは気づいていませんでしたが、何で、こんなにたくさんの木があるのだろうかとは思っていましたが。それから、時
目が覚めると病院のベッドの上だった。ぼんやりとした意識の中、最後に記憶しているのは、宿泊施設からツリーハウスの依頼を受けて、その敷地にあるモミジの木に触れたところまで。聞けば、測量をしている途中で掴んだ枝が腐朽しておりボキッと折れそのまま後ろに落ちたらしい。病室の天井を見ながら、ふと子供のころの記憶が蘇る。祖母の家の庭にあった柿の木に登り柿を獲って食べたり、友人と公園の木に登りそこから見える景色を楽しんでいた日のことを。あんなに木登りが得意だったのになあ・・・。そんなことを
祖父は大工の棟梁だった。太平洋戦争の終戦直前まではたくさんの弟子たちを抱え、釜山で大きな木造建築(小学校や病院)をたくさん建てた人だったらしい。戦況が悪化すると、闇船を使い家族全員でいち早く帰国。その後原爆で焼け野原となった長崎にバラックを建て、そこに家族を住まわせながら炭鉱景気に沸く飯塚まで出稼ぎし、ここでは炭坑舎を建てていたそうだ。帰還するたび祖母に手渡されたアルマイトの弁当箱には、びっしりと紙幣がつまっていたと父から聞いた。そんな祖父はあの長崎出島の復元にも関わったと
昭和50年頃、小学生だった私は、天瀬町の山の中、玖珠川沿いの道から急坂を登った袋小路の村で育ちました。家の前には田んぼが広がり、周りは杉の山に囲まれていました。田んぼの畦道には浅い用水路があり、メダカやカニ、カエルを捕まえるのが日課でした。隣の家は昔の庄屋で、山主が住んでおり、毎日のように山の手入れをしていました。 ある時期、杉の木の伐採を数日見ることができました。緑の山は、所々茶色に変わり、チェーンソーの音が反響し、鉄索を使って木材を運ぶ様子は圧巻でした。鉄索は山の斜面
大分県南の港町で生まれ育った。 目の前が海、後ろが山 狭い平地には細い道に住宅が立ち並ぶ田舎町。 そんな町での少年時代の遊び場は、川、山、海だった。小学校も校庭の先が海で 家々の間をぬけ岬の小山を越えて毎日通っていた。 その通学路の途中には町の製材所、なんでも売っている駄菓子屋、新築中の家、家の庭先がありそこにはいつも何かを作っているおじさん達がいた。 工作好きな少年だっだ自分には その近所のいろんなおじさん達がものづくりの先生だった。 作ったのは遊び道具。 材料は、あ
その日は以前からの山の友だちたちと一緒に、登山に出かけていた。このところ忙しく、山を忘れているような生活をしていたが友だちに誘い出されたのだった。山を越えてくる雲が美しかった。そればかりでなくこうしているうちに、何もかもが、これまでは気づかなかった美しさを見せてきた。森の中で名前のわからない鳥がよく鳴いていた。その声を立ち止まって聞いていると、僕を取り囲んでいる周囲が段々と自分に馴染んで来るのを感じた。 下山後、甲斐駒ヶ岳を源とする川の隣にある小さなテン場にテントを張っ
居間と子ども部屋をつなぐ家の柱にたくさんのしるしがある。娘や家に遊びに来た子どもたちの身長を記録したしるしだ。 わが家は千客万来。盆正月も関係なく親戚がよく集まる。すると、娘たちの従兄弟らはちょっと見ない間に身長がぐんと伸びていて、はじめは背中を合わせて背比べをしていたが、いつの頃からか、柱に身長を書き記すようになった。柱に立たせ、頭上ギリギリに鉛筆を当て、線を引く。名前と月日を書き込む。ひとりがやると、おもしろがって「ぼくも測って〜」と子どもたちが近寄ってくる。家に遊びに
匂いは記憶を強く喚起させる。古い写真を見ても、何となくその時を思い出す程度だが、匂いが引っ張り出してくる記憶は単なるイメージではなくて、360度の感覚で、その時抱いた感情さえもリアルに呼び起こす。かつては日常の中にあり、普通に感じていた空気感、でも今は完全に過ぎ去り、記憶の片隅で完全に眠っていた感覚だ。 娘に「お父さんは木の匂いがする。」と言われたことがある。でも多分それは、木だけから来るものではない。汗と機械油、木屑の染みこんだ、汚れた作業着の匂いだ。それは単に汗臭い衣
木の記憶と言われて思い出すのは、20数年前に(株)九州木材市場に入社し、杉や桧・木材のことを全くわかっていなかったので現場作業から入ったことだ。原木市場は、山から来た丸太を選木機に通してフォークリフトで運び、はい積み作業(※)をし、販売までを行っている。当時、機械化が進んでいなかった現場作業は、この作業を人力で「とび」と言われる”かぎ爪のついた棒”で丸太を揃えるところから行っていて、ぼくの木材人生はそこから始まった。 当時70代のおじいさんと20代のぼくとのコンビで丸太を
仕事柄「木造建築が好きなんですよね」という前提でお話が進んでいることがあるのだが、本当に良いよねと感じたのはここ最近だと思う。 小さい頃は築100年以上の木造の家に住んでいた。子供ながらに「暗いから怖いし、ギシギシ音はするし、隙間から風が入って寒いし」というあまり良い印象ではなかった。その家の柱がシロアリにやられたことがきっかけで、住居部分のみ新築することになった。両親は改修も試みたが、あまりの金額にあきらめたそうだ。というわけで、母の同級生の建築家により居住部分のみ平成
最初の木との出会いってなんだろうと振り返ってみると、父親がクラフトハウスYASMAという木工所で木工をしていたので、家は常に木に溢れていたことを思い出す。でも一人暮らしをする時期まではこれが普通だと思っていたので、意識的ではない。そう思って、もっと遡ってみると、あったあった、ありました。伐株山(きりかぶさん)と木を運ぶトラックとテレビCM。 伐株山は、日田市を流れる三隈川の上流に位置する玖珠(クス)町にある、その名の通り切株の形をしたユニークな山。ここにはその昔、大きな
70年近く生きていると、想い出は多様で膨大で、とりとめがない。テーマを木に絞ってみても、物心つく頃からつい昨日のことまで、大海のごとくだ。それらは、アルバムにキチンと整理されていると言うよりは、身体と心の奥深くに染み込んでいて、もはや一部になっているような気もするのである。それでも、残像を辿ってみると、60年以上前に家族で暮らした佐賀市内のお寺が想い浮かぶ。 間借りをしていた和室二間の縁側寄りの真ん中に立つ細い柱。それに持たれてよく庭を眺めていた。開け放った夏などは、その