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八雲飛行場、ふたたび

2023年7月29日の土曜日は「航空自衛隊 八雲やくも分屯基地 創立46周年記念行事」で、基地が一般に開放される日です。


▲ 八雲町の位置(OpenStreetMap に加筆)

八雲飛行場はここ。自宅から、高速道路を使わないで約3時間の道のり。


▲ 南から八雲町を望む

その朝、ナビの目的地には八雲育成牧場をセット。標高258.9メートル付近に建つ展望台に上ってみました。ほぼ真北に八雲飛行場が見えるはずです。

写真は少し霞んでいますが、中央に八雲飛行場の滑走路がのびています。その向こう側が八雲町の中心部市街地です。


▲ 八雲飛行場エプロンの KC-130H

C-130 らしき輸送機がエプロン西側に駐機していました。吹き流しを見ると、使用滑走路は30のようです。白いペイント(目標点標識:aiming point marking)の施されたところが、滑走路です。


基地の一般公開

9時半を過ぎたので、基地内に向かいましょう。

▲ 八雲飛行場(地理院地図VectorにGPS走行記録を表示)

一般車両は「東門」からの入場です。ピンク色のルートで誘導され、グラウンドに車を止めました。

黄色の線は2019年に入場したルート。場周道路を延々と進み、滑走路の西側を回り込んで平行誘導路に誘導され、エプロン近くの誘導路上に駐車しました。普段は飛行場として使われていないので制限区域には当たらないということなのでしょう。マイカーで滑走路の周りを自由走行できるなんて初めての貴重な体験。いいのかな?と不安になりながらも ルンルン気分でした。

この飛行場の滑走路は12/30で、長さ1,800メートル、幅45メートル。フルスパンの平行誘導路が設けられ、4本の取付誘導路という堂々とした飛行場です。これで、ほとんど離着陸がないというのは、何とももったいない気がします。


▲ KC-130H 空中給油・輸送機

山の上から見えていた機体、KC-130Hに近付きましょう。操縦室内を見ることはできませんが、開いた後部からキャビン内には入れてもらえました。

両翼からヘリコプター2機に同時に給油することができるそうです。それだけ低速飛行ができるということですね。


▲ UH-60J 救難ヘリコプター

千歳基地所属のヘリコプター、UH-60Jが離陸の準備を始めました。激しいダウンウォッシュに飛ばされないよう耐えながらシャッターを切ります。明日(7月30日)開催される千歳基地の大規模な航空祭では、こんなに近づくことはできませんから。

▲ UH-60J 救難ヘリコプター

これから救助のデモが行われます。


▲ U-125A 救難捜索機

退役が決まっている U-125Aジェットが飛んできました。UH-60J救難ヘリコプターとチームを組んでいます。


▲ UH-60J と U-125A

吹き流しが真横を向くような強い風でのリペリング、降下する隊員も操縦するパイロットも日ごろの訓練の成果を披露していました。


▲ UH-1J ヘリコプター(一部画像処理しています)

陸自の UH-1J は、この展示のために丘珠から前日入りしたそうです。冒頭の操縦室の写真はこの機体です。


▲ 「ペトリオット」(自衛隊の表記)

車両に「八分基」と書いてあったので、八雲分屯基地の “PATRIOT” ですね。レーダー装置(右)と発射機(左)です。これらの向こうに、射撃管制装置、アンテナマスト、電源車と、計5台の車両が展示されていました。これらを組み合わせたシステム全体を「ペトリオット」と言うと説明を受けました。「PAC-3」というのは、発射されるミサイルの名前なのだと。納得。

発射機(LS)のミサイルが収まる部分には「MISSILE ROUND TRAINER」と書いてあるので、訓練用の箱なのでしょう。


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今はほとんど使われていないということですが、1800m滑走路に平行誘導路という大きな飛行場が、どのような経緯で八雲町に造られることになったのか、とても興味を惹かれました。

八雲に造られた滑走路

太平洋戦争中の1943年、八雲に陸軍飛行場を建設する計画が突然持ち上がりました。町や住民の協力を得て「同年11月に全工事が完成した」とあります。(八雲町史)

翌1944年10月に撮影された空中写真には、長さ1200メートル、幅90メートル程度の滑走路が見えます。白っぽく写っているのでコンクリート滑走路だったのでしょう。方位は、現在の滑走路から反時計方向に12°ほど回転していたので「11/29」となりそうです。

・現滑走路の方位:109°/289°(地理院地図で滑走路両端の座標を求め、国土地理院の測量計算サイトで方位角を計算)
・地磁気に2020.0年値の偏角10.09°W を使用(国土地理院 地磁気測量より)


▲ 1952年の八雲飛行場(1952年10月7日米軍撮影空中写真に加筆)

終戦後の1948年、陸軍八雲飛行場の滑走路は米軍の指示で壊されました。しかし、その2年後に朝鮮戦争が勃発したため、米軍は八雲に新たな滑走路(や誘導路など)を建設したのです。その工事が完成したのが1952年。その年の10月に米軍が撮影した八雲町の空中写真には、現在の八雲飛行場と全く同じ(ように見える)滑走路や誘導路がくっきりと写っています。

黄色で加筆した陸軍八雲飛行場は、1944年10月26日に撮影された空中写真を基に描きました。水色の丸で囲んだ8か所は陸軍の格納庫があった場所で、少なくともそのうち5か所を米軍が利用したように見えます。

1957年には米軍が撤退してすべての施設は防衛庁(現防衛省)に移管されました。その後、誘致運動や反対運動など紆余曲折があったものの、現在の「航空自衛隊八雲分屯基地」につながっているという、八雲飛行場のヒストリーです。


ファントムが着陸した八雲飛行場

えっ!? と驚きました。4機の F-4EJ ファントムII が八雲の1800m滑走路に着陸したというのは 1981年のこと。「補助飛行場を活用しての航空作戦の実証を目的として行われた機動展開」だったと。千歳基地の302飛行隊所属のファントムが、八雲飛行場の滑走路30に着陸したときのことが記されていました(出典:千鷲会だより 33号、2021年5月15日)。

▲ F-4EJ改 ファントムII(2018年7月、千歳航空祭で)

1800m滑走路の新設から29年が過ぎたその当時、まれにしか使用されない飛行場の維持補修は十分に行われておらず、滑走路のコンクリートは波打ち、つなぎ目も痛んでいたそうです。4機の F-4EJ戦闘機は、アンチスキッドブレーキの効果を十分に得にくい荒れた滑走路に、その長さをフルに使って1機ずつ無事に着陸したのだそうです。

そして翌日には、電源もコンプレッサーもない中、カートリッジスタートでファントムのエンジンを始動し、全機無事に離陸していったということです。

42年も前のこの飛行場で、そんなことがあったんですね。


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私が八雲飛行場を訪れたのは、4年ぶり2回目。一般公開でそれぞれの持ち場に配置された隊員のみなさんはしっかりと挨拶してくださり、気持ち良く案内してくれました。2019年に初めて来たときにも親身な対応に驚いたほどで、とても好感を持ったことを思い出しました。

ありがとう。お世話になりました。


※ 特記のない写真は、2023年7月29日、やぶ悟空撮影


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