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天国はあるのか? 無宗教だけど、天国を信じる私の宗教と科学の論考

知性の思考実験 AIとの討論

私はこの記事を書いてるとき、ニーチェのいう「末人」の意味がちょっとわかったし、自分の持つニヒリズムについて自覚した。
同時に、ニヒリズムゆえ「人間の叡智を信じられない」のだが、その対になる考え方の「信じること」の重要性を私は知った。

「天国はあるのか?」

このテーマを考えるとき、
私は、 信仰に基づく循環論法…
「信じる者には天国が約束されている。天国が約束されているからこそ、信じ続ける意味がある。」 これを聞くと、 天国、あるからあるもん!みたいな主張に思えて、なんでやねん、と思い、懐疑的だった。

しかし、私が無教養だから気づかなかっただけで、実際は「宗教」と「科学」は世界への理解を多角的に深めるための、相補的な役割を果たしている。宗教と科学は反するものではない。
天国の存在を科学的に証明することは難しいが、だからといって信仰の意義は否定されないし、天国を信じることには大きな意義がある。
だから宗教は意味を持ち続けるし、廃れない。
つまり、信仰と科学は、人間の世界理解を深める異なるアプローチなので、
「科学的見地からみて根拠がないのに、宗教とか信仰とか、ヤベーだろ」みたいな考えはナンセンスだ。

反対に 「お祈りをしたらテストでいい点数が取れる!」的な考えもナンセンスだ。テストでいい点数を取るためにはお祈りではなく勉強をしないといけない。

また、私たちが「身近な人の死」に関わる時、特に信仰は有意義だ。

科学には限界がある。死後のことは、死んでみないとわからない。
科学的な見方に偏っていると、天国はないと考え、大切な人の死は、その人ともう二度と会えないことを意味する。
死後の世界や来世は無いとするなら、あまりにもこの世は虚無で、さみしすぎる。

「死後の世界や来世があると考える世界観のほうが、情緒豊かに人生と向き合えるんじゃないか。」友達の葬式に参列した時、私はそう考えていた。

結論として、科学と信仰、バランスが重要だ。どちらか一方が優先されるべきケースもあるので、偏った見方をもつと、正しい認識ができなくなる。

天国の存在証明よりも、天国を信じる心の意味を探求する事こそ、私たちに求められているのだ。

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