見出し画像

美しさとは 2

無職は加速するーー

収入が止まることは、必ずしも人生が止まることを意味しない。
ひらたくいうと、無職になって、よかったなと思うことが多い。

•自分の内面に潜れる
•美や学びについて思索する時間の余裕がありすぎる

無職のいい点はこの2点に尽きる。(あとはなんもいいことない)


ところで、私たちは、なぜ内面や美について考える必要があるのか?

それは、加齢とともに、外見的、表面的な美が低下していき、
「外見的な美」に囚われていると辛くなるからだ。

つまり、表面ばかりなぞっている人は、歳をとると人生がおもんなくなる。

歳をとるほどに楽しい人生と、歳をとるほどにつまらなくなる人生。
どちらがいいかは明白なので、内面や美について考える試みは、とても意義がある。

内面的な美、という堅苦しい雰囲気の論ではなくて、身近なもので「内面と外見」について考えてみよう。

まずはダイエットについてだ。

ダイエットについて

「内面と外見の美の考察」として理解しやすい題材は、ダイエットだ。

先進国で生活をしていてダイエットしたがっている女性を集めたら、国が作れそう。
そのくらい人々はダイエットに対する情熱がある。
そして、人々はダイエットに対して敗北し、絶望する。

そもそも、ダイエットとは、本能的な欲求に打ち勝つ、きわめて困難な試みだ。
ダイエットの難しさを詳しく書いたら、この文章の閲覧をやめてブラウザバックする人が続出するくらい、
それは厳しい試みなのだ。
なので、詳しく書かないが、ダイエットは失敗して当たり前、難しい。

2兆円規模のダイエット産業が意味するものは、
ただただ需要が大きい、つまりそれだけダイエットへの欲求・情熱があちこちにある、ということだ。
(ちなみに2兆円規模って日本の宇宙開発産業の市場規模より大きい)
が、そこに対して私がこう言ったら、↓ みなさんはどう思うだろう?

「ダイエットなんてしなくていい」

このように思うかもしれない。
「何言ってんだ?私はお前がどんな理屈を言おうと痩せたいんだが?」

その通りだ。 食べたいも欲求、痩せたいも欲求。産業は欲求に基づいてできているので、今日も「ダイエットをしろ」、逆に「おいしいものを食べろ」という電車内の広告のはざまで、私たちは移動し、生活をしている。
そして欲望を煽る産業に踊らされながら、ラーメンを食べたい欲求と、体重計が見せてくる恐怖の間で揺れながら、私たちは生きている。

「ダイエットなんてしなくていい」
ここから先が私の主張の要点だ。

まず、私たち人間は、しょっちゅう目的と手段を取り違えてあべこべにしてしまう特性を持っていることに着目して欲しい。

そもそも、ダイエットしたいのは、なぜなんだろうか?

痩せたいから、痩せたいのか? 違う。「美しくなりたい」から「痩せたい」のだ。

結論から言う。
あなたに、美しくなりたい欲求があるなら、あなたは美しくなるべきだ。
しかし痩せる必要は必ずしもない。
なぜなら、痩せるとかダイエットというのは「手段」でしかない。
目的は、美しくなることだ。

外見への意識が強くて、どうしても痩せる選択肢が必要な人は、ダイエットもいいかもしれない。
しかし「美しさ」は外見だけではない。内面も含めたものだ。

美しくなる目的のために、大量の選択肢がある。その中で、どうして外見ばかり重視した、いいかえれば、'単純な欲求と直結した表面的なもの'ばかりを考えるのか?

努力をすることは美しい。一方で努力とは「無理をしてる」状態でもあるので、
努力をしない(無理してない)ことも美しい。
ダイエットのために食事制限や運動を楽しめるなら、ダイエットは素晴らしい自己実現だ。
しかし、苦しいことは短期的にしか続かない。
だから、苦しいダイエットはやりすぎない方が、どちらかといえばいい。

それに、ストレスを貯めすぎることはよくない。
ダイエットをするよりも、ストレスを減らすほうが、楽に本質的な美に近づく気もする。

努力は、したければすればいいし、別に努力したくなければ、しなくていい。
ダイエットをしたくてしているなら、うまくいかなくても、自分を責めることはない。
本質は『美しくなるため』だと意識できていれば、失敗しても、次はうまくやるぞ、とポジティブに考えられるはずだ。

自分に対しても、他人に対しても「ダイエットをしろ」なんて、いかにも画一的なものの見方だ。

_

美しさとは、複雑なものだ。
かなり一般的な概念で考えると、美しさとは総合評価である。

「橋本環奈また太った」とか「ももクロのあーりんまた太った」とか言うアイドルウォッチャーの人がいるが、
まず橋本環奈については多くの人に好まれる顔のパーツ配置をしているので、美しいとか可愛いという見られ方をすることが判明している。

その橋本環奈の体重が増減しようが、芸能人としての理想な基準から少々外れようが、そんなの知ったこっちゃない。
橋本環奈は美しい。
なぜなら、多くの人に好まれる顔のパーツ配置をしているから。彼女は総合評価の結果として外見が優れており、美しい。

実際、あなたは橋本環奈や広瀬すずでもなければ、新田真剣佑でもマッツ・ミケルセンでもないので、あなたはあなたの美しさを追求すればよい。あなたが芸能人ではないなら、芸能人の外見の美の基準を見て落ち込んだりするのは無駄である。

外見、顔のパーツが、標準や社会における理想から数センチ外れていることで、
それだけで私たちの美しさは毀損されない。

外見で高評価が得られなくても内面で高評価は得られるし、
内面に低評価があると、外見が高評価でも価値は下がる。
これは逆に言うと、
「外見に低評価がある場合、内面が高評価でも、価値が下がる」という社会の厳しさも表している。

しかし、「良い・悪い」ではなく、評価という回りくどい言葉で表現したのには意味がある。
評価や判断があるから「良い・悪い」が生まれるだけである、そこに注意しておきたい。
評価や判断があるから「あの人は見た目が良い」とか「性格が悪い」と言えるだけだ。

実存的に、(※本当は)「良い・悪い」なんて存在しない。良い悪いを判断している人やシステムがあるだけだ。


他者から「あなたはXXが悪い」という評価をされたとして、それは「評価」でしかない。なおかつ「他者からの」評価であるため、
あなた自身が自らを高評価していれば、他者があなたを低評価していてもあなたの価値は高い。

あなたが自らの美しさを見つけたら、あなたの美しさは存在する。
他者に評価をされてもされなくても、あなたの美しさは存在する。
これを表したのが先ほどの記述だ。
“外見、顔のパーツが、標準や社会における理想から数センチ外れていることで、
それだけで私たちの美しさは毀損されない。”

言い換えれば、他者からとやかく言われた時に「うるせえ、黙ってろ」と思っていることにより、美しさが維持できる事例が多々ある。

「なぜそのように言うのか」の説明を怠って、他者にとやかく言う行為は、美しくない。
美しさの軸を持っている人なら、そんな美しくない行為に迎合する必要がない。

他者があなたの健康を気遣ってダイエットを提案している時には、ダイエットをすることも検討するべきだろう。
しかし、他者が大した説明もなくただあなたにダイエットを提案している時、あなたは「うるせえ、黙ってろ」と考えておくのがいいかもしれない。


人は、その人独自の美しさを追求すればいい。
他者の基準など、参考程度のものだ。
あなたはあなたの美しくなりたい欲求にしたがって行動すれば、美しくなれる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?