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明治村・聖ヨハネ教会堂は生きている

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詩編・聖書日課・特祷

2024年5月18日(土)の詩編・聖書日課
 旧 約 出エジプト記20章1〜17節
 詩 編 19編
 使徒書 コリントの信徒への手紙一1章18〜25節
 福音書 ヨハネによる福音書2章13〜22節
特祷(復活節第7主日(昇天後主日)後土曜日)
み子イエス・キリストに永遠の勝利を与え、天のみ国に昇らせられた栄光の王なる神よ、どうかわたしたちをみなしごとせず、聖霊を降して強めてください。そして救い主キリストが先立って行かれたところに昇らせてください。父と聖霊とともに一体であって世々に生き支配しておられる主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

下記のpdfファイルをダウンロードしていただくと、詩編・特祷・聖書日課の全文をお読みいただけます。なお、このファイルは「日本聖公会京都教区 ほっこり宣教プロジェクト資料編」さんが提供しているものをモデルに自作しています。

はじめに

 どうも皆さん、「いつくしみ!」
 いやぁ、まさかこんな日が来るとは思ってもみませんでした。明治村の「聖ヨハネ教会堂」ですよ、皆さん。こんな素晴らしい場所で、聖餐式をおささげできるなんて……、しかも、その聖餐式でお話を担当させていただけるなんて……。感無量ですね。忘れられない一日になると思います。

 実はですね……、僕は、この聖ヨハネ教会堂、入るの初めてなのですよ。と言うか、ここだけじゃなくて、そもそも、『明治村』に来るのが、初めてなのですよね。愛知に住むようになって10年が経つのですが、行きたいな、行きたいなと思いながら、気づけば10年が経ってしまっていました。まさか、プライベートじゃなくて、このように「仕事」で来ることになるとは考えもしませんでしたですけれども……。もしかすると、神さまの思し召し……なのでしょうかね?「聖公会の人間になったんやから、もうそろそろ見ておきなはれ」という、神さまのお導きだったのかもしれません。
 さて、それにしましても、今回このように「聖ヨハネ教会堂」で行われる記念すべき聖餐式の中で、お話をするという大役を仰せつかっているわけでありますから、やはり今日は、この「聖ヨハネ教会堂」に関係するお話をせねばならないだろうということで、この教会堂のことを色々と調べてまいりました。皆さんのお手元に資料があると思いますけれども、それを使いながら、まぁ10分少々の短い時間ではありますが、この「聖ヨハネ教会堂」という聖公会の教会が過ごしてきたこれまでの歴史を、皆さんとご一緒に味わってまいりたいと思います。

「京都聖ヨハネ教会」からの歩み

 それでは、資料のほうをご覧いただけますでしょうか。そちらの資料には、この「聖ヨハネ教会堂」の前の姿である「京都聖ヨハネ教会」……、その始まりの20年ほどの歴史をまとめております。
 まず、注目していただきたいのは、1ページ目の真ん中の地図ですね。この中に二つ、網掛けの部分が書かれていますけれども、左側の網掛けの部分が、かつてこの教会堂が建てられていた場所となります。今も、建て替え後の「京都聖ヨハネ教会」がこの場所にあります。京都駅からバスと歩きで20分弱で行けるとGoogle Mapには出ていました。

 しかし、京都聖ヨハネ教会の活動はこの場所から始まったわけではありません。この建物が、この「本塩竃町(もとしおがまちょう)」という場所に建てられる前、京都聖ヨハネ教会は、右側の網掛けのところにありました。今はもう、その上に国道1号線が通ってしまっているのですけれども、この右側の網掛けの場所に、かつて京都聖ヨハネ教会は存在した――。そして、この場所から、1889年(明治22年)11月16日、京都聖ヨハネ教会の前身である「五条講義所」の活動は始まっていったというわけです。
 我々、日本聖公会の京都における宣教は、まさにこの五条講義所から始められ、そこで蒔かれた種が、そこから京都の各方面に枝葉を広げていくことになるわけですけれども、しかし、その活動の実りというのは、決して芳しいものではなかったのですね。聖公会だけでなく、他の教派も同じような状況だったそうですが(まぁ新島襄の「組合派」は別として)、宣教の拠点としての「教会」の数こそ順調に増えていった……その一方で、そこに集う人の数は、伸び悩んでいたということなのですね。
「京都のキリスト教の歴史は『組合派と新島と同志社の歴史』」とも言われますように、組合派以外のグループにとっては、なかなか苦しい環境だったようです。また、1ページ目の下から2つ目のところに、「1899(明32)年5月 聖約翰教会の説教会を開催したが、途中妨害される」という、そのような事件があったことも書いておきましたけれども、他の教会では、流血沙汰になることもあったと伝えられています。信者が増えない……というだけならまだしも、礼拝の妨害行為まで心配しなければならなかったというのは、相当大変だっただろうなぁと想像します。
 けれども、そのような中でも、聖ヨハネ教会の宣教の業が止められることはなかったのですね。2ページ目に移っていただいて、上から3つ目、1904(明37)年7月29日のところですけれども、聖ヨハネ教会は先ほどの地図の左側、「本塩竈町582」に土地を買い、そこに新たな会堂を建てることを決定します。そして、2年後の1906(明39)年4月24日、聖約翰教会の聖堂定礎式が行われ、いよいよ、この「聖ヨハネ教会堂」の建設が始まっていくことになったわけです。
 その下に、2つの写真を載せておきました。左側は、聖堂の定礎式当日の写真。そして、右側の写真ですけれども、こちらは、1963(昭38)年8月22日に、今度は、明治村への移築工事の際に、定礎の箱が開かれたときの写真です。この2つの写真の間には、実に56年という時間の隔たりがあるわけですけれども、1907年に教会が完成してから、1963年に明治村に移築されるまで、56年という年月を、この建物は、京都聖ヨハネ教会の信徒の方々、そして地域の人々とともに過ごしてきたのですね。その間、この教会堂は、戦争の時代も経験しましたし、何度も大きな台風に襲われたりしました。まさに満身創痍の状態だっただろうと思います。しかしながら、新しい会堂の建築に伴って、教会堂の存在そのものが失われてしまうのではなく、このように、「明治村」という新たな場所でキレイに生まれ変わって、また大勢の人たちに親しまれるようになった――。これは、“奇跡的なこと”だったのではないかなと僕は思うのですね。

イエスの「宮清め」は何故行われたのか

Luca Giordano - Expulsion of the Moneychangers from the Temple (circa 1675)

 さて、今日の福音書の箇所でも、“建て直し”に関することが話題になっていましたね。イエス・キリストは、かつてエルサレムにあった神殿(ヘロデ時代のエルサレム神殿)を見て、「この神殿を壊してみぃ、3日で建て直してやらぁ!」とブチギレたんですよね。さすがにこの発言は誤解を招くと思ったのか、福音書記者のヨハネは、その後で、「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである」と(少々苦しい)説明をしてくれているわけですけれども……、いや、僕はむしろ、この時のイエスは怒りのあまり、思わずこういう発言をしてしまったのではないかと思うのですよね。
 では、イエスはどうしてブチギレたのか。その直前のところを見てみますと、「イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し」(2:15)……とあるように、もう既に、このときからブチギレているわけなのですが、重要なのは、次のイエスの言葉。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」(16節)。これなのですよね。「わたしの父の家」というのは、エルサレム神殿のこと。そこを商売の家にするな、と言って、羊や牛といった、ささげ物の動物を売買している人々とか、普通のお金から神殿用の硬貨に両替してくれる人々とかを、神殿の境内から追い出したわけです。
 イエスは、“祈りの家”であるべきエルサレム神殿で商売をするな、世俗的なことを神殿に持ち込むな――、ということを言おうとしたわけじゃないと僕は思うのですね。そうではなく、当時のエルサレム神殿を中心とする「ユダヤ教」という宗教の実態……、それが、あまりにも理想とはかけ離れており、一部の人々だけが経済的に潤って、社会的弱者を生み出し、それを放置し続けているという状況があった。その象徴が、まさにその時代の(豪華絢爛な佇まいを誇る)「エルサレム神殿」だったのであり、イエスはその場所にやってきて、思わず、心に湧き上がってきた怒りのままに、目の前で屋台を広げて商売をしている人たちを追い散らした――ということなのだろうと思います。「良い子は真似しないでね」という方法ではあるのですけれども、しかし、それほどまでに、イエスは当時の社会構造に対して憤りを感じていた、そして「何とかしなければ」という強い思いを持っていたのだというのは、今の時代を生きる我々もまた、共感すべきところがあるのではないかと思います。

教会としての「聖ヨハネ教会堂」

 翻って、我々キリスト教という宗教はどうでしょうか。我々の心の拠り所である「教会」という場を、果たして、この世界、この社会における「正義」、「平和」、「連帯」と「協調」の“中心地”にしていきたいと本気で思えているでしょうか。
 「教会」というのは、それだけではただの建物、建築物に過ぎません。そこに人が集まっていたとしてもです。そこに人が集まって、神の御前に、一人ひとりが傲慢な思いを捨て、悔い改め、そして他者に対する思いやりの心を新たにするとき、ようやくその場所は「教会」になるのではないか――。そのように僕は思うのですね。
 この「聖ヨハネ教会堂」は、京都での役目を終えて、このように、『明治村』という野外博物館の一角に移築されることになりました。それは、語弊を恐れずに言えば、ただの建物になってしまったということになります。
その時から来年で60年を迎えるわけですけれども、今日、またこうして、人が集まって、礼拝をおささげしている――。キリスト教という宗教では、生き物ではないもの、つまり無生物、人工物のなかに「命」を見出すということは基本的にはしないのですけれども、今日こうやって、皆さんがこの教会堂を(ただ見物するだけじゃなくて)、祈りの場所として訪れ、神に心を向けて礼拝に参与していることで、僕は、この教会堂自身が「喜んでくれている」ような気がするのですよね。この建物が本来の役目(「教会」としての役割)を再び与えられたことで、生き生きと、僕らのことを迎え入れてくれているような気がするのです。
 いや、この教会堂が喜んでくれるのは、礼拝がささげられている時だけに限らないと思います。この場所に足を運ぶ人たちが、ここに来て“明治のノスタルジー”に浸るだけでなく、「教会って何だろう?」、「キリスト教ってどんな宗教なのだろう?」と考える機会を与えられ、そして、そこから何か人生の糧を得て、新しい自分としてこの場所を後にするとき、この建物はきっと、喜んでくれているのでしょうし、そして、その人たちに対して、「教会」(神と向き合うための場所)としての役目をしっかりと果たしてくれるに違いないと僕は思うのですね。

おわりに

 奇しくも、明日5月19日(日)は、聖霊降臨日。イエス・キリストがこの地上からいなくなった後、残されたイエスの弟子たちには、天から聖霊が与えられた――。それによって、彼らは恐れや不安を克服し、イエスを信じる共同体(後のキリスト教会)を発展させていった――、そのことをお祝いする日です。聖霊降臨の出来事によって「教会」は誕生することになったとも言えるので、「教会のお誕生日」というように表現されることもあります。

エル・グレコ「聖霊降臨」(1596-1600年)

 キリスト教という宗教は、はるか昔、パレスチナの片隅でひっそりと誕生しました。それからおよそ2000年という時が経過して、今や、この日本という国において、キリスト教は市民権を得て、その教会堂が「重要文化財」として、多くの人々に親しまれるようにまでなっています。これは凄いことですね。
 ただし、イエスの弟子たちから始まって、海を渡り異国の地に人生をささげた多くの宣教師たち、そして今の我々キリスト教会に至るまで連綿と受け継がれてきた「キリスト教の宣教」の業というものは、決して、文化や知識、伝統などというものを人々に宣伝するためだけに行われてきたわけではありませんでした。そうではなくて、イエス・キリストの教えとその生き様に示された「隣人への愛」と「神への愛」……、それをこそ、我々キリスト教は、この世界で暮らすすべての人に宣べ伝え、そして、その“真の愛”をもって、この世に正義と平和が満たされるようになるために、宣教の歴史を紡いできたわけです。その大いなる目的を我々は決して忘れてはならないと思うのですね。
 明日、聖霊降臨日……、19XX回目の「教会のお誕生日」を迎えます。その日に先立って、このように歴史ある「聖ヨハネ教会堂」において礼拝(聖餐式)をおささげできていることを、大変幸せなことだと感謝しつつ、それと同時に、これから先も、たとえ日本の社会が、あるいは国際社会がどうなっていこうとも、常に「この世界のすべての人たちが自由と平和のもとに、自分の人生を歩んでいける」、そんな未来の実現に向かって、イエスの教え、キリスト教の精神を人々に宣べ伝え、また自らも実践していきたいと願います。
 この教会堂のように……、そう、一つの役目を終えてまた新たに生まれ変わって輝き続ける、この「聖ヨハネ教会堂」のように、僕ら一人ひとりも、今日から(!)、新しい自分として正しく生きるべく、ご一緒にイエス・キリストの後ろに従って歩みを進めてまいりたいと思います。

 ……それでは、礼拝を続けてまいりましょう。

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