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『パーフェクト・デイズ』で思い出したこと

ヴィム・ヴェンダースのインタビューを聞いたときのことを、少しだけ。
それはたしか2006年のこと。池袋の文芸座でヴィム・ヴェンダース作品をオールナイトで上映したとき、来日していたヴィムが舞台挨拶とインタビューをするというので、私も聞きに行きました(新作宣伝にあわせての上映だったかもしれない)。
メモによると、まず「ブエナ・ヴィスタ・ソシアル・クラブ」のことを、こんな風に言っています。

8年前のある日、ライ・クーダーと一緒に「End of Vilence」の仕事をしていると、彼の心がここにないという状態であることに気づきました。
私がちょっと嫉妬して彼に聞くと、彼は「ハバナに僕の心はいるんだ。
世界で一番美しい音楽を聴いているんだ」と答えました。
そこで彼にカセットを借りることになったのですが、家にカセットプレーヤーがなかったので、車の中で、6時間もドライブしながらテープを聴きました。
そしてあくる日彼に「いったいどんな若者(KIDS)がこんなすてきな音楽を演奏しているんだい?」と尋ねると、彼は「若者なんかじゃないよ、80歳以上の人たちがやっているのさ」と答えました。
次にハバナに行くときは、必ず教えてほしいと頼んでおいたところ、ある日クーダーから「5日後にハバナへ行くよ」と電話があり、大急ぎで撮影の仕度をしてついて行きました。

通訳されたインタビューを私がメモしたもの


それから『パリ・テキサス』については、ロード・ムービー愛を語り、『ベルリン・天使の詩』についてもずいぶん語ったのですが、ものすごくうろ覚え。メモは残っていません。小津については、「とっても好きで、何回も何回も、繰り返し繰り返し見ている。彼の映画は、日本語が分からないのに、何を言っているか台詞がぜんぶ、分かるんだ」と言っていたのを、よく覚えています。自分が日本人でないのがくやしいと思うほど、自分が小津を好きなことを、ぜひ皆さんもわかってほしい、というような情熱のこもった話し方でした。そのあと、会場で聴いている人たちの質問を受けてヴィムが答える時間が少しだけあり、そのときの質問と答えは、私のその後にとても影響を及ぼしたので、周回でFBにも書いていますが、このような内容でした:

【監督としてのアドバイス――会場の若い女性監督さんの質問に応えて】
もし儲かる映画を作りたいのなら、どうぞほかの方に訊いてください。
表現ということについてなら、お答えできると思います。

まず最初にあなたの夢がありますね。
夢の種のようなものかもしれません。
それをあなたは脚本家に話さなければならない、カメラマンに、俳優に、配給会社に…。
まるでオリンピックの聖火リレーのようなものです。
次から次へと伝えて、聖火台に大きな火を点さなければならないのです。
とてもたいへんな作業です。

ですから、「作品は自分しかできないこと」、「自分でなければできないこと」でなくてはならないのです。
どうしてかというと、ほかの人もやろうと思うたいへんなことなら、ほかの人がやればいいわけですから。

通訳されたインタビューを私がメモしたもの

当時の私は、どちらかというと「自分でなければできないこと」を探すような状態だったのですが、この言葉が、だんだん、ニッチな仕事のほうへと、私を誘ってくれたように思っているので、ある意味、恩人みたいにも思っています。
というわけで、この15年以上、彼の言葉が私に与えた影響のみに目をやってきたわけで、ヴィムの活動については、無頓着でした。
『東京画』なども気になってましたが、スルーしておりました。

ところが今回『パーフェクト・デイズ』を観て、当時おそらく彼の頭の中にすでにあった「種」のようなものが、芽を出し、若木になり、そして木漏れ日ができるぐらいの大きな木(森?)になっていることを確信。
15年以上の歳月を思うとき、この映画は小津へのオマージュであり、平山さんへの共感であるとともに、ヴィム・ヴェンダースという「人」を描いた作品であるようにも思ったわけです。
17、8年前に会った彼は、肘当てのついたとても型のくずれたツイードのジャケットを着ていました。
ポケットにもの(おそらくカメラとかテープレコーダーとか)をいっぱい入れるせいで、両方ともバッグぐらいに飛び出し、たるんで、倹約家のドイツ人でも「新しいのを買ったら?」と言いそうなものでした。
映画からだけでも、言葉からだけでもなく、あのジャケットで、私は彼に親近感を覚えました。
それも、書いておきたかったエピソードの一つです。







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