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死ぬまでにやりたい事リストハードル最下層のもの

死ぬまでにやりたい事リスト、書いた事ある人はどのくらいの割合でいるのだろうか

私は数年前に1度書いた記憶がある

その時は気合を入れて書いたものだが、
何をリストに入れたか、すぐに思い出せるのは2,3個くらいだ

すぐに出来ることから
一生かけてやっていくことまで
実現可能性にグラデーションがあると思うが、
振り返って思い出してみると、「けっこう近い形で叶ったかも」というものもあれば、
「夢のまた夢ですわ…」という類のものもある

そんな死ぬまでにやりたいこと、
わざわざ書き出すほどではないが
心の中でささやかにリストアップされたものがあった

それは、
オレオをもう一度食べる、という事だ

は?今すぐにコンビニ行けぃ!

と思われそうが、私が最後にオレオを食べたの、覚えている限りでは小学生の時だと思う。

この数十年間なぜ食べなかったというと、「お菓子食べる=太る」という意識と、「体に良いものを食べるべき」という意識が強くなりすぎていたからだ。

お菓子を全く食べなかった訳ではないし、
頂き物のお菓子などはあまり自分でお菓子を買わない反動で、毎度心から「ありがたや〜」と頂戴していたし、友達と話題のケーキバイキングに行ったりもしていた。

そういえば、以前の職場では、忙しい時期はお菓子を差し入れしあう文化もあった。

その時よく登場したのは、カントリーマウム、雪の宿、ハッピーターンなどで、
オレオはなぜか1度も出会わなかったし、自分も選ばなかった。

でも、
オレオってすごい美味しくて、
小学生の私は、家にオレオがあると、すごく嬉しかったし、
なんなら自分でお菓子を選んで良い時はオレオをリクエストしたものだ、ということを
突然去年思い出したのだ。

最近、子どもの時の思い出してこなかった側面、
「子供時代はこうだった」という自分の中の王道ストーリーではない、
サイドストーリー的な思い出が蘇ってくることがある。

例えば、「母は仕事と家の事でめちゃくちゃ忙しい人だったので、自分は遊んでもらったり、母との楽しい思い出が1つもない」というのが
長らく自分の子ども時代の認識だったのだが、
母の使っていた化粧品をこっそり使うのに、とてもワクワクした事を思い出したり
(直接的な母との楽しい思い出ではないが、化粧品を通じて間接的に母と何か楽しい事を共有できた感じがしたのだ)

「過去は変わる」という表現を聞く事があるが、自分の意識が変わる事で、
過去の認識も変わる。
そして、記憶のダムの奥底から新しい認識にふさわしい記憶が、芋づる式に引っ張り出されるような感覚がある。

オレオの美味しさの記憶が引っ張り出されてきたのは、どんな意識の変化があったからだろう。

きっとそれは、「人生は我慢するもの」から「人生はもっと楽しんで良い」という意識の変化だ。

だって、いつ死ぬか、この人生に終わりが来るかなんて、本当に誰にも分からないから。

「人生100年時代」となんて言われるが、
人類史の中で、つい最近まで「死」はもっと身近で、「生」と隣り合わせだったはずだ。

という訳で、
つい先日、数十年ぶりにオレオを食べた。

記憶の中のオレオより、本物のオレオはもっとずっと美味しかった。

こんなちょっとした事でいい。
ハードルの低い事でいい。
人生を楽しんでいけたらいい。

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