自分に対して「おまいう、って、おまいう?」と思ったこと
「相手の気持ちになって考える」
幼稚園のお砂場で学ぶくらい基本的なことですが、いい大人でも感情的になっているとうまくできなくて、時に半ば強制的に「そんな自分に気付かされる」出来事が……。
まさに今がそんな感じで、自分で自分に対して、「お前っ」って呆れたことがあったので、記録しておこうと思います……。
昨今、若い女性DJがイベントで胸を触られる痴漢被害にあったことが話題になっています。
それに対し、セカンドレイプ的に「被害者の過去の行いがよくない」とか「服装が悪い」とかいう声が飛び交って、腹が立っていました。
性被害者、て聖人じゃなきゃ被害を訴えちゃいけないの? そんなわけないよね?
と。
今回の事件から話が飛んじゃいますが、子供を育てていてつくづく思いますが、自分も含め、普通の人の原型はほとんど、自己中心的でわがままなものだなあ、と。
もしかしたら、生存するための本能として、基本形はそうあるべきなのかもしれないけれど。
子供時代は大概利己的だけど、余裕がある時は少しだけ他者に優しかったりするのが基礎で、成長とともに少しずつ社会性や利他的な価値観を身に着けていく人が、ほとんどなんじゃないかなと思います。
だから、過去にわがままを言ったことがない人や、意地悪をしたことがない人なんてほとんどいないというか、ごく少数の特異体質の人だけなのでは?
個人的に、今回、被害にあった女性に対する中傷は、シンプルにいいがかりだと思っていますが。
でも、今回とは別のケースを想定して、仮に少しわがままな有名人がレイプされて被害を訴えたら、
「お前は過去に略奪不倫をしただろ」
とかセカンドレイプされる世の中なんて最悪だし、スネに傷がある著名人は例えレイプされても言い出せなくなる。
スティーブン・キングの『ビッグ・ドライバー』という作品がまさにそんなストーリーです。
レイプどころか連続強姦殺人の生き残りなのに、著名な作家ゆえに、セカンドレイプを恐れて告発できない。
その結果どうなるか。
犯罪者が野放しになって、セカンドレイプをする人間の姉妹や娘が狙われるかもしれない。
社会にとって不都合しかない。
ほんと、もし被害者になにか思うところがあっても、犯罪者を検挙するまでは黙っていて、その一件が終わって落ち着いてから「言いたいことがあれば別件として言う」ようにしないと、自分にとっても不利益があるんじゃないか。
たとえば、
「レイプされたなんていっているあいつは、不倫をしていたから、お前もお前だと言ってやろう」
とか、犯罪を訴えているのに、犯罪じゃないことを持ち出して被害者を叩くようになったら、犯罪者が野放しになるだけなんだよなあ、と。
というのが、昨日まで私が考えていたことです。
で、今日なんですけど……。
とある男性が、上記の事件について正論で苦言を呈していました。(特定を避けるためにフェイクを入れて例え話的に書いてみます)
そして、その男性に、私ではなく友人がセクハラされたことがあり、思わず、
「おまゆう!!!」
といいそうになり……。
「あ…これは、今回の問題に関しては正しいことを言っている人に対して、別件で文句を言う人に心理を体験させられている…」
と、反省しました。
「おまゆう!!! と(私が)おまゆう!!?」
状態で、頭が混乱。
やはり、問題をひとつひとつ切り分けで考える、て簡単じゃないけど、だからこそ大事なことですね。
ほんと、私も大概な自己中人間です。
ひとつの「被害」について話している文脈で、過去の行いを持ち出して非難するのは卑劣なこと。
私が「おまいう」と言いそうになった男性も、友人にセクハラした直後に、友人のマネージャーの方が裏でやんわり苦情をいれて、その場で謝罪して一応は決着をつけたと聞いています。
自分の話ならともかく、伝聞でしか無い20年も前の違う話の流れで蒸し返すなんて、多分議論を混乱させる害でしかない。
人は情報化社会で大量に流れ込んでくるニュースに、個人的なトラウマを刺激され、ひとこと物申したくなるものなのか。
だからこそ、人を裁くときには、裁判官とか弁護士とか、法律に従い義理や人情や感情を絡めない訓練をされている人々が必要なんだわろうなあ。
自分自身に関しては、なにか物申したくなったら「実名顔出しで本人に対峙していえることか?」と考えながら、生きてゆきたい。
まあ、実生活ではそこまで親しくない方には、緊張してお天気の話くらいしかしないようかつまらん人間ですが。
万万が一、誰の言葉か知られても、意見を変えない覚悟があることしか、発信しないことは大事かなぁと思いました。
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