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 やあやあ、ひさしぶりだなあ! またきみに会えて嬉しいよ!
 さあ今日はどこへ行こう? 石炭袋は休み。ああ、箱庭頭はこのあいだ閉まってしまったんだ。残念だけれど、店のなかにドアを増やしすぎて収拾がつかなくなってしまったらしい。まあしょうがないね。こうなったら管制塔で一杯やろうじゃないか。よし、行こう。
 それにしても本当にひさしぶりだ。え? 大袈裟だって? だって一年近く会ってなかっただろ。たったの一年? 一年もだよ。なにしろ俺は、きみとだったら毎日いっしょに話したいと思ってるくらいなんだから。そんなに話してたらきっと疲れてしまうだろうな! でもその疲れすらも心地いいだろうって、俺は思っているんだよ。
 ああ、うん。一年近く音信不通だったことについては、深く反省してる。ただ、これは単なる言い訳にしか聞こえないだろうけど、それでもあえて言うなら、俺はいつだってきみに連絡を取ろうとしていたんだよ。けれどできなかった。しなかったんじゃなくできなかったんだ。何をしていたかって? 働いていたのさ。朝目覚めてから夜眠るまでそれこそ馬車馬のようにね。何の仕事かって? うん、まあ、いいじゃないかそんなことは。仕事の話はあまりしたくないな。何しろ一年ものあいだ身を粉にしながら、きみと話すことばかり考えてきたんだ。カレンダーじゃ一年だけど、俺の感覚では五年、いや十年くらい経っているような気がするよ。それで今日ようやっときみに会うことができて、いざ楽しく話そうってときに、どうして仕事のことなんか。いいや、怒ってなんかいないさ、こんなことで怒るもんか。俺は今きみと歩きながら話をしていて本当に嬉しいんだ。
 あまり呆れないでくれよ。お願いだから。
 言えないような仕事? おいおい、無駄に勘繰るのはよくないぜ。言えないんじゃなくて言う価値もないような、つまらない仕事なんだよ。穴を掘ってまた埋めてを繰り返したり、存在しない入り口を探して同じ道を行ったり来たりするような、そんな仕事さ、簡単に言えばね。そんな話、延々と聞かされたくないだろ? ああやっぱりよそう。たとえ話でもこんなに気が滅入るんだから。
 ほら、管制塔に着いたよ。懐かしいな、錆びた扉を開けるときのこのひどい音! わざと油を差さないんだからな。やあマスター! 三年ぶりだ! なに、三日ぶりだって? おいおいこっちはまだ素面だぜ。嘘言ってんじゃないよ。

* * *

 そういえばきみ、ココアの子は元気でやっているかい? 相変わらずろくに会話もない? その子もきみと同じでマイペースなんだな。なんだよ、怒るなよそれくらいで。あなたには言われたくないって? そりゃそうだ。
 じゃあ、かんしゃく玉と滑り台の奴はどうしてる? なんだ、会ってないのか。電話もメールもだめ? 何かあったのかね……でもあいつらしいと言えばあいつらしいな。誰にも言わずに一人でふっといなくなるようなとこがあるからなあ。はは、そうだった、これまた俺が言えた台詞じゃないな。
 俺? 俺はこの通り、あの頃と何も変わっちゃいない、それこそ相も変わらずさ。こっちの目はなくなっちまったがね。
 びっくりしたかい?
 ほら、一番奥の席で旗を振ってる奴がいるだろう? いつもあの特等席で、ウィスキーをとことん薄めて飲んでる。あいつが噂のツアーガイドさ。ご存じない? まあ俺も人づてに知ったんだがね。あいつに頼めば産道から宇宙の果て、細胞内から近未来までどこへでもガイドしてくれるって話だよ。ただし代金は体で払うんだけどね。はは、そうなんだこの左目も。
 え、どこへ行ったのかって?
 それが覚えてないんだよ。きっと旅をしているあいだ、ずっと左目でものを見ていたんだな。一緒に持って行かれちまったのさ。残ってるのは、喉に引っかかった魚の骨みたいな、落ち着かない感覚だけだ。
 ……なんて、そんなことはどうでもいいんだ。今日は飲もう、大いに飲んで話そう。マスター! おかわり。

* * *

 人生は短いんだよ。
 唐突に何だって? まあいいだろ、聞いてくれ。人生は短い。だからせいぜい楽しもうって話だ。そう思うかい? 自分で言っておきながら俺は全然そう思えないんだよ。別に長くても短くても、せいぜい楽しむしかないんだよ、人生ってやつは。俺はあれだ、あの「死を思え」ってやつが気に食わないんだ。死なんてのは思ったって思わなくたってそこにあるんだし、同時にそこにはないんだよ。それを自分の生に対する動機づけにしようなんざ、砂の上に城でも建てるつもりかね。死を思い死に憧れ死を尊び死に逆らって生を謳歌せよなんて言説は、十代のガキの頃の通過儀礼だろ。何を大の大人が偉そうな顔して死を思っちゃってるのさ。
 ええ? あなた自身がその偉そうな大人じゃないかって? は、は、は! 確かにそうだ! こいつはしてやられたな!

* * *

 こんな話を聞いたことがあるかい……ちょっと長くなるんだけどね……。

 昔々というほど昔じゃありませんが、あるところに十歳にも満たない男の子がひとりおりました。その子は片田舎のある夫婦のもとに生を授かり、裕福ではないけれどそれなりに恵まれた家庭に育ち、毎日楽しく学校に通っておりました……自分で始めておきながら回りくどいな。まあともかく、幸せな日々を過ごしていたってことさ。
 ある日、彼の通う学校に転校生が訪れた。なにせ寂れゆく田舎の小さな学校だ、転校生なんて言葉自体が珍しい。学校じゅうの生徒たちがそわそわしながらその子を迎え入れた。色白の男の子でね、誰も行ったことのないような都会からわざわざ越してきたんだよ、父親の仕事の都合でね。ともあれその子は転校初日から学校じゅうの人気者だ。そして皆が羨む隣の席の生徒が、くだんの幸せな男の子だったんだな。何の偶然か家も同じ方角にあったから、毎日一緒に学校に通うことになって、彼らはすぐに打ち解けた。そんなある日のこと……。
 おっと、酒が切れたな。マスター、もう一杯頼む。喉が渇いちまっていけない。
 ええと、どこまで話したんだったか……ああ、彼らはすぐに仲良くなったんだ。学校帰りに川へ寄って、投げた石が何回跳ねるか競い合ったりしてね。それで、ある日のことだ。その日は朝からどんよりと曇っていて、いつ雨が降り出してもおかしくないような落ち着かない空模様だった。転校生の子は朝から青白い顔をして、黙りこくって家を出た。家の前で待っていた幸せな男の子も、そんな彼の様子に気づいて、黙って隣を歩きだした。それまでも何度かそんなことがあったんだな。幸せな男の子は教室に入るまで、昨日見たテレビについてとか、読んだ漫画についてとか、あれこれ話しかけるんだけど、彼はうわの空だった。幸せな男の子はだんだんいらいらし始めた。彼がおそらく重大な悩みを抱えているのに、何も言わないことが気に入らなかったんだろう。友だちなのに相談もしてくれないってね、自分から尋ねもしないのに。休み時間に別の誰かと聞こえよがしに楽しそうな話をしたり、彼を置いて校庭に遊びに出たりした。まったく、子どもというのは純粋な分だけタチが悪いね。
 授業が終わると外はほとんど夜みたいに真っ暗だった。湿っぽい風がびゅんびゅん吹いて、石ころを蹴とばしただけで雨が降り出しそうな、そんな空気だったんだ。幸せな男の子は、顔面蒼白な彼と一緒に教室を出た。彼は窓の外を何べんも見て行くか行かないか悩んでるらしく、すごく歩くのが遅いんだ。そんな彼に幸せな男の子はまたいらいらしちゃうんだな。それでも下駄箱までたどり着いて、靴を履き替えた。転校生の子はいつまでたっても靴を脱ごうとしない。男の子は我慢できなくなって、早く靴履きなよって言った。帰るんだろ? でも転校生は首を横に振った。泣きそうな顔して、母さんが迎えに来るまで待ってる、とか言うんだ。帰るんだろ、早く帰ろうよ! 幸せな男の子は大声を出すと、転校生の手首を強くつかんで引っぱった。泣き叫んで嫌がる彼を無理やり校舎の外へ連れ出したんだ。
 幸せな男の子は雨が近づいてくる音を聞いた。ざあ、なんて生やさしいもんじゃなかった。滝壺に水が落ちるみたいな、どおって音さ。思わず笑っちゃうような、すごい量の水が降り注いだ。実際男の子は笑ってた。大爆笑してたんだよ。
 振り向いたら、友だちの彼は、真っ赤な水溜まりに沈んでいた。
 誰かが悲鳴をあげた。生徒たちが集まってきて騒いだけれど、誰も何もできなかった。降りしきる雨の粒が、どんどん彼の皮膚をえぐっていった。やがて先生が駆けつけてきて、慌てて彼を負ぶって保健室に連れて行った。幸せな男の子も別の先生に職員室に連れて行かれた。厳しいことで有名な先生だったけれど、そのときは妙に優しく訊くんだ、何があったのか言ってみろって。けれど男の子は何も言うことができなかった。
 酒がないな。マスター! ありがとう。
 翌日から転校生は長いこと学校を休んだ。彼はちょっと特殊な病気に罹っていたんだ。噂はすぐに学校じゅうに広まった。幸せな男の子は彼を無理やり雨のなかに引っぱり出した悪者として、廊下を歩けば蔑まれ、教室でも露骨に避けられるようになった。下駄箱から靴が消えたり、机が絵の具で汚されたり、一通りの嫌がらせを受けた。一ヶ月くらいたった頃に転校生の彼が登校した。皆がいっせいに駆け寄って、体は治ったのかもう大丈夫なのかと口々に訊ねた。幸せな男の子はクラスメイトに囲まれて殴られながら、彼と少しだけ目を合わせ、すぐにそらした。担任が罰と称して、クラス全員の前で雑巾をゆすいだバケツの水を頭から浴びせ、拭いておくようにと笑って命じた。転校生の子は幸せな男の子が床に這いつくばっている様子を黙って見下ろしていた。
 転校生の彼はそれから、雨の日は学校に来なかったし、少しでも雨が降りそうな天気の日は親が車で迎えに来た。一方で幸せな男の子は雨の日でも傘を差さなくなった。雨が降り始めると外に飛び出し、ずぶ濡れになりながら走るようになった。息が切れるか雨がやむまで、どこまでも走った。
 男の子は幸せだった。彼は、幸せな男の子だったからだ。

 ……という話だよ。聞いたことがあるかい? ない? それは好都合だな。そんなきみに訊きたいんだけれど、さて、幸せな男の子はこのあとどうなったと思う?

* * *

 マスター、おかわりだ。
 不可能だと言われていたり、禁止されていたりすることほど、やりたくなってしまうのはいったい何なんだろうな。子どもが学校の規則をやぶりたがるようなもの? は、は、確かにそうかもしれないな! でも本当に、全てを投げ打って取り返しのつかないことをしてしまいたくなるんだよ。そういうとき俺は食器を買うんだ。カップでもグラスでも皿でも何でも、安いやつがいい。ただしプラスチックや金属はだめだ。買って帰ったら床に叩きつけて割るんだよ。自分の気が済むまで徹底的に細かく砕くんだ。ふと我に返ると床一面に破片が散らばっている。そしてあーあ割っちゃったなと思うんだ。ものすごく疲れるよ。片付けも面倒だしね。でも割らずにはいられないんだ。割らなかったら俺はきっと、とんでもないことをしてしまうから。だから俺は、誰かをめちゃくちゃに傷つけるように、誰かを乱暴に犯すように、誰かを惨たらしいやりかたで殺すように、食器を割らなければならないんだよ。
 マスター、もう一杯。
 自分がひどく卑劣だと常に感じてるんだ。少ない知識をひけらかすように喋る。知ったかぶりをしてその場を取り繕い、理解を深めるための努力をするわけでもない。向上心てやつがないんだな、俺には。それでいて他人に厳しい。よりよいものを、速く、大量に欲しがる。このひとからならもっといいものが貰えるはずだ、なんてな、何様のつもりだ。
 俺は単なるマニュアル人間なんだよ。誰かが書いた説明書がなければ何もできやしないし、誰かの言葉を下敷きにしなければ何も言えやしないんだ。引用、引用、また引用で、俺は何が言いたいんだろうな。きっと本当に言いたいことなんて一つもないんだよ。空っぽなんだ。空っぽの箱に、誰かが心をもって紡ぎ出した言葉や、血の滲むような苦労の果てに生み出したイメージやなんかをぶちこんで、さも自分が素晴らしいような顔をして歩いているのさ。今だってそう。ここには何もないぜ。誠意も熱意も好意も善意もこれっぽちもありゃしないんだからな!
 マスター。さっきから薄めてるだろ? あんたの気遣いは嬉しいが、俺は大丈夫だから、もう少し辛くしてくれないか。
 宇宙は膨張し続けるらしいじゃないか。少し前に科学系の番組を見たんだ。今まではいずれ膨張は止まって収縮すると言われていたらしいんだが、それを覆す観測結果が出たんだとか。俺はそれを知って絶望したよ。膨張し続けるだなんて! だってそうだろう? いったい、この果てしなく巨大な泡をどうやって満たせばいいんだ? 満たせるわけないだろ。文学、音楽、芸術、娯楽、食欲、睡眠、性欲、論理、自然、宗教、正義、知識、情報、感情、友情、愛情、それらがどれだけこの空白を埋められるって言うんだ?
 俺に残されているのは、こうして食い飲み吐き散らかし、踊り続け喚き続けることだ。
 ここは地獄だ! 俺は地獄にいるんだ!

* * *

 マスター。水をくれないか。
 どうか許してくれよ。俺がここにいることを。俺がひどく卑劣で、マニュアル人間であり、空っぽの箱であり、迷惑極まりない、つまりは俺であることを。どうか許しておくれよ。お願いだ。俺はただきみに許してもらいたいだけなんだ。
 他人の沈黙を勝手に解釈して傷ついているのさ。どうでもいい、呆れてる、侮蔑してる、嫌悪してる、きみだってそうだろう? 俺のことを自意識過剰で、迷惑千万、やかましい、困った奴だと思っているだろう? どうか許しておくれ。
 ふふ、冗談だよ。今のはふりさ。傷ついたふりをしているだけだ。俺はいつだって演技をしているから、自分でさえ騙されてしまって、何が本当なのかとんとわからなくなってしまった。許してくれと言いながら、これっぽっちも許してほしくないんだ。許されてしまったらそれこそ俺は俺じゃなくなってしまう。そうだろう?
 いったい俺はどうしたいんだろうな。ぐだぐだ喚きながら、逃げ道を片っ端から潰して、差しのべられる救いの手をことごとく振り払って、いったいどこへ行くんだろうな。それこそ収縮する宇宙のように、全てがまぜこぜになった原点に帰することが俺の望みなのかもしれない。そうだな、もし一からやり直せるとするなら、もちろんこんな仮定の話に意味や価値はないけどさ、俺は道端に転がっている石ころや、早朝に木々の葉から零れる一滴の雫みたいなものになりたいと思うよ。最近はそんなことばかり考えている。
 マスター。ありがとう。ここの水は本当にうまいな! いやもちろん酒だって料理だって最高さ。そうしょげるなよ。
 昔から、全て夢なんじゃないかとよく感じるんだ。どれだけうまいものを食って、楽しい話をして、素晴らしい景色を見て、美しいひとと会ったとしても、その数分後にはまるで現実味が感じられないんだよ。まあ、過去なんて記憶のなかにしかないんだから、当然といっちゃ当然なんだけどな。今の気持ちにぴったりだ、こいつはしっくりくる、と思ってもすぐにサイズがずれちまう。視野が開けて全体がはっきりした、輪郭がくっきり見えたとしてもすぐにピントがずれちまう。つかんだと思っても手ごたえがない。だから悪く思わないでくれよ、俺は今きみと話せてとても嬉しいけれど、この店を出たらきっと全て夢になってしまうんだろう。
 まあ、だから何度も話したくなるんだろうな。何度でも話せばいいのかもしれない。面白いことも、くだらないことも。こうやって俺は今だけの現実感を得ているのさ。きみの現実感を俺によこせ、というわけだ。

 さて、そろそろお開きにしようか。



* * *

 不審げな面持ちのマスターをよそに彼女は会計を済ませた。ひしゃげるような音を立てて錆びた扉が開く。二人は連れ立って店を出た。
 外では雨が降っていた。
 彼は店の前で茫然と立ち尽くし、彼女はその様子を背後から見つめる。悲しげな眼差しで、何かを逡巡し、彼の背中に手を伸ばす。しかし彼女の手が届く前に彼は駆け出している。着ているシャツがびしょ濡れになり、べったりとからだに貼りつく。赤信号に照らされ、血で濡れたように光る。
 彼は走り続ける。くるくると回って踊るバレエダンサーのように。喜んでとび跳ねる犬のように。彼女は雨音に混じる彼の笑い声を聞いた。声は少しずつ大きくなりながら遠ざかっていく。
 店から三ブロックほど離れた街灯の下で彼は速度を緩め、やがて歩みを止めた。項垂れて、ふらふら左右に揺れたかと思うと、糸が切れた人形のように崩れ落ちた。
 彼女が一つ瞬きをするあいだに、彼の姿は跡形もなく消えた。無限に広がる静寂を雨音が埋めていく。

***
初出:2013.10.06

石炭袋という名前の喫茶店→ Re-Comming Soon...?

* あとがきはこちら(投げ銭制有料マガジンです)

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