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つかまえないで/あなたのなかの忘れた海

 聞いてくれ、ぼくは今ちょっとばかし幸せな気分なんだ。そうだな、例えばお気に入りのアーティストの新譜が発売されるから、発売日の前日に音盤屋に行く。音楽をほとんど聞かない君は知らないかもしれないけど、音盤屋にはたいてい発売日の前日には入荷してるものなんだ。店に入ったら、気をつけなきゃいけないのは、真っ先にそいつを探しちゃだめだってことさ。新譜の棚とか、有名だったらそのアーティストのコーナーができてるかもしれないけど、物欲しそうな顔で真っ先に寄ってって手に取っちゃうんじゃ、だめなんだ。そうじゃない。まず関係ないところをぶらぶらする。気になるジャンルの試聴機があれば聞いてみてもいい。ゆっくり店内を回って、新しい出会いなんかもあったあとで、ようやく目当ての棚の前に立ち、そっと手に取り、しばらく眺め、何度か頷いたりして、レジに持っていくんだ。レジでは普通に会計を済ませればいい。そうやって買ったら、ここからも気をつけなきゃならないんだけど、スキップしながら下宿先に帰って、再生機にぶちこんでガンガン聞いたりしちゃ、そいつはわかってないんだな。わざと遠回りをしたり、途中で本屋に寄ったりして、のんびり帰る。鞄にまだ封を切ってない盤が入っているということ、その幸せを噛み締めながら帰るんだ。かといって、鞄を何度も覗きこんでニヤニヤしたりするのはどうかと思う。あくまで平静を装い、はやる気持ちを抑えると同時に楽しみながら帰る。部屋に着いたらもうちょっとの辛抱だ、手を洗ってから、珈琲でも淹れるといい。ドリップがいいな、ドリップコーヒーのいいところは手間がかかることだ。豆を蒸らす、お湯をゆっくり回すように注ぐ、落ちるのを待つ。インスタントにはないちょっとした手間と時間がいいのさ。淹れたての珈琲を片手に椅子に腰かけ、待ちに待った曲を聞くんだ。それがいい曲じゃないわけがないだろう。ぼくは今、そういうちょっとばかし贅沢で、幸せな気分なんだよ。
 好きなアーティストが数年振りに新譜を発売したことを半年後くらいに知ったんだ。それから半年くらいして、先週買ったんだよ。さらに一週間机の上に置いておいて、昨日そいつを聴いたわけなんだけど、本当に、これが最高にかっこいいんだ。なんていうか、ぼくは普段運命とか言わないほうなんだけど、それでもやっぱり今出会うべくして出会ったみたいな感じがするんだよな。一年前に知ってればとか、どうしてもっと早く出会わなかったんだとか、全然思わない。こんなことを言うと、ファン失格だとかつまらないことを言うやつがいるけど、そんなんで失格になる程度のファンってのはいったい何だろうね? 時代遅れだとか、流行に疎いとか、それがどうしたって話だよ。彼らの曲が最高だってことに、何の関係があるっていうんだ。いいかい君、いいものは、いつだっていいんだよ。そしていいものに出会った瞬間ってのは、いつだって運命的なんだ。

 賑やかな喫茶店だった。朝は八時から夜は二十四時まで営業していて、コーヒーはそれなりにおいしく、店員さんの物腰も柔らかで居心地がいいので、最近よく利用している。私は彼の話を聞きながら、ああ、とか、うん、とか相槌を打っていた。相変わらずよく喋るなあ、なんて思いながらブレンドを啜っていたら、彼が眉を寄せた。
 君、さっきからああとうんしか言ってないじゃないか、これじゃ会話のバランスが悪いぜ。ほら、君も何か話したらどうだい。話題はなんだっていいんだ、例えば育てている観葉植物のこととか、今読んでる本のこととか、あの店員さんちょっとかっこいいねとかさ。気に食わない教授がいるとかいう話でもぼくは構わない。何か話してくれよ、さあ。
 私は苦笑した。そうまくし立てられたんじゃ話し出すタイミングが掴めないよ。あと私、観葉植物育ててないし。それにしても、会話のバランスなんて考えがあなたの頭の中にあるなんて、意外だな。
 意外だって? そいつは心外だ。君にはまだ見せたことがないけど、ぼくの辞書にも配慮って単語くらいは載せてあるつもりさ。君が退屈してるんじゃないか、ぼくの長広舌にうんざりしてるんじゃないかって、心配になったんだよ。ぼくはこう見えて、いつもいろんなことを心配してしまうタチなんだ。って言っても、別に相手がどうでもいいやつだったら気になんかしないさ。ただ君は――。
 わかった、わかったから、と両手を軽くあげて言葉を遮る。いつもそうだ。聞いているこっちが恥ずかしくなるような科白を、彼は臆面なく、人目をはばかることなく口にする。そこが彼らしく、私には到底考えられないところでもあった。
 あなたが気にしやすいってことは私はよく知ってるよ(ここで彼はちょっと嬉しそうに微笑んだ)。私が言いたいのは、あなたと私の会話っていつもこんな感じ、九対一って感じでしょ、だから会話のバランスなんて考えなくていいんじゃないかってこと。むしろ、九対一が私たちにとってちょうどいいバランスなんじゃない? 少なくとも私はあなたと話していて退屈したりうんざりしたりすることはないよ。よく喋るなあとは思うけど。
 私は、彼が気にしやすいわけではなく、そういう素振りを見せているだけだと知っている。それに、彼よりも私のほうがよっぽど気にしやすい性格だってことも。目の前で十歳くらいの男の子みたいに嬉しさを隠すことなく、ちょっと得意げに、そうかな、そうだといいな、なんて笑う彼は、私よりももっと単純明快なルールに則って、のびのびと生きているように見える。私にはそれが、ときどき、無性に羨ましくなる。

 このあいだ友人と四人で旅行に行ったんだけど、実を言うとぼくはぜんぜん乗り気じゃなかったんだ。全く乗り気じゃなかった。なんでかって君、そのうちの一人がね、Kって言うんだけどさ、何年も前の試験で自分がいかにいい点をとったかとか、志望者の中で何位でうちの大学に入学したのかなんてことを、自慢げに話すようなやつなんだ。あいつと一時間以上一緒にいるなんて考えただけでうんざりしちゃうよ。とにかくぼくは気乗りがしなかったんだけど、それでも行ったんだ。さっきも言ったとおりKにはうんざりしちゃうんだけど、あとの二人は話せるやつらだからね。一人はMっていって、物静かで、そうだな、君よりもっと口数が少ない。それでいざ言葉を口にするときは、いつもはっとさせられるようなことを言うんだ。あいつはきっと、周りの話をずっと聞きながら――Kのくだらない話だって一から十まで聞いてるんだよ――、誰よりも真剣にものごとを考えてるんだろうな。いろいろな話を自分の内に落としこんで、それについての自分の考えをまとめて、ぎゅっと絞って水気を抜いて、一度広げて枝葉を落として、徹底的に無駄をなくしてから口にするんだ。たぶん、言葉に対する姿勢がぼくやKなんかとは根本的に違っているんだろう。もう一人はHっていうんだけど、彼は気の回し方がとてもうまい。もしかしたらぼくら四人のうちで唯一空気が読める男かもしれないね。Hがいなかったら、たぶんすぐにKとぼくが言い争ったりなんかして、それこそ五分と一緒にいられないだろうな。そうなんだよ、たいてい彼があいだに入ってまあまあって言ったり、険悪な雰囲気を和らげたりしてくれる。ぼくはそういうのはどうもうまくないから、彼にはいつも感謝しているんだ。本当だよ。
 そんな四人で旅行に行ったんだ。一泊二日で海沿いの街へさ。いろいろ回ったけど――市場とか、温泉とか、果物畑の真ん中を突っ切ったりとか――そんなことはどうでもよかった。というのも、どこへ行ってもKが始終話してばかりいるもんだから、それでHに始終気を遣わせてばかりいるもんだから、案の定ぼくは始終うんざりしていたんだよ。ずっと黙って、なんで来ちゃったんだろうとかぶつぶつ考えてた。だから何してたかほとんど覚えてないんだな。でも一箇所だけ、最後に海に行ったときだけは違ったんだ。駐車場に車をとめて、ぼくたちは外に出た。日はだいぶ傾いていて、ひどく暑かったな。ぼくたちは前の晩は夜通し麻雀をやっていたし、その日も一日じゅう街の中をぐるぐるしてたもんだから、もうくたくただった。なんでそんな状態で海に来ちゃったのかよくわからなかったよ。しかもその海は砂浜がとても立派でね、なんとか砂丘って書いてあったかな、とにかく延々と砂浜が続いてやがるんだよ。ぼくたちは兎にも角にも海が見たかったから、仕方なくその砂漠みたいなとこをてくてく歩いていったんだ。いやあ、あれはしんどかったな。サンダルなんか持ってないからさ、スニーカで歩いたんだけど、もう足がずぶずぶ沈んで、靴の中に砂が山盛り入ってくるんだ。足が重くてたまらなかったね。しかも目の前には砂の山さ。上り坂なんだよ。ただでさえ疲れてるのに、一体全体なんでこんなことをしてるんだろう、これは何かの罰なのかって、何度もそう思った。それでもなんとかその砂の山を登りきったんだ。そうしたら、目の前が開けて、海が広がってた。今思えば、別にそんなにきれいなもんじゃなかったな。ただ、とにかくでかくてさ、それまで苦労して登ってきたのもあって、ぼくはなんだかとっても愉快な気分になっちまった。砂丘のてっぺんで笑い出しちゃってね、そのまま海に向かって駆け下りたんだ。走りながら途中で靴も靴下も脱ぎ捨てちゃった。笑いながらさ。はたから見たら、ずいぶんおかしいやつだったろうな。それで、波打ち際をざぶざぶ走っていったんだ。濡れた砂は固くって、踏むとぎゅって水が染み出す感触があって、地に足がついたって気がしたよ。気持ちよかったな。頭ん中が空っぽになってさ、脛とか、足の甲を撫でてく水が冷たくって、その冷たさだけが、やけに透き通ってた。太陽がオレンジ色で、海も波もオレンジ色にきらきら光ってるんだよ。なんだかぼくの中までオレンジ色にきらきら光っていくみたいだったな。海はいい。海は、いいもんだよ、本当に。

*

 私たちは喫茶店を出ると駐車場にとめてある彼の車へ向かった。送っていくよと言うので、私はお礼を言って助手席に乗りこんだ。ドアを閉めると彼は目を輝かせながら笑った。
「ねえ、これから二人で海に行こうよ」
「今から?」
 彼の車の時計には、21:47って表示されていた。
「だめかな?」
「だめってことはないけど」
「じゃあ、決まりだ」
 彼は見るからにうきうきしながらエンジンをかけた。ぶるんと車体が震え、ゆっくりと動き出す。かかっていた曲を止める。せめて砂浜があるところまで行こう、あまりきれいじゃないけどさ。ここからだと一時間くらいかな、なんて言いながら。
 しばらく幹線道路を走ったあと、高速の入口を通過した。ふわりと浮かび上がるように合流する。遠くまで、赤やオレンジや白のライトがたくさん連なって、光の川が流れていた。カーステレオが口を噤んでしまったので、聞こえるのはエンジン音と、アスファルトタイヤを切りつける音、車体が空気を切り裂く音、あと彼の話し声しかなくなった。
「こうやって走ってる車のひとつひとつに出発地と目的地があって、それぞれのルートが線で引けるだなんて、いつも不思議で仕方ないんだ」と彼が言った。「ぼくは自分がどこから来てどこへ行くかなんて、まったくもってわからないのに」。
 海へと走る車のなかで、彼はとりとめのない話をした。あるバーを訪れる、幽霊を連れた女のひとの噂。流浪する町とそこに閉じこめられたひとびとの話。地元の小学校が廃校になってしまって、そこで今度同窓会が開かれるんだけど、自分は行けそうもないということ。
 彼の話を聞き、ときどき相槌を打ちながら、私は私のなかが空洞になっていくのを感じていた。それは彼のせいではなく、ここにはもともと空洞があって、自分でも知らないうちに土を積み上げて埋めていたのが、今になって脆く崩れただけの話だった。埋められていることが他にはない素晴らしいことのように思え、一方でそれは単なる依存のようにも思えた。意味はないと知っていてもどうしても比較してしまうし、何よりも、今この車のなか、この夜のなかにいるのは彼と私だけだった。彼のなかを埋めているのはきっと土ではなく彼自身に違いなかった。あるいは、彼の化身である海や空や花や木々だった。
 郊外に向かうにつれ、流れる光は減って、暗い水底へ沈んでいくかのようだった。ジャンクションでローカルな有料道路に入ると交通量は一層少なくなった。前方の赤いランプはなくなって、ときどき対抗斜線のヘッドライトが中央分離帯の植込越しにちかちかと私たちを照らした。暗闇に目をこらしても、一向に海は見えてこなかった。あくびを噛み殺したら、彼が寝ててもいいよと言ったので、十五分くらいうとうとした。
 目が覚めると、彼は小学校時代の同級生との思い出話をいくつかして、あいつにだけは会いたくないね、と笑って締めくくった。ちょうど山のなかで有料道路が終わったところだった。車はカーブする坂道を下り、田んぼや畑が続くいなか道に出て、久しぶりに信号で止まった。角にあるコンビニに車を止めて、トイレを借りたり温かいお茶やコーヒーを買ったりした。
 コンビニを出てふと目に入った信号の下、青看板に駅の名前が書かれていた。見覚えがある。いつか来たことがあっただろうか。
 車に乗って海沿いの道まで出る。暗くてよくわからないけれど、どうやら向かって右側に堤防が続いてて、その向こうに海があるらしい。左手は山で、山のへりは木々が道路脇まで伸びていて、カーブを曲がりきると、谷に民家や道の駅があったりする。彼はウインカーを左に出し、明らかに営業時間を過ぎているおみやげ物屋さんの駐車場に車を入れた。ヘッドライトが消えると、見えるのは自動販売機の明かりだけになった。
 車を降りると波の音が聞こえた。
 潮のにおい。息を吸うと、まるで夜を吸っているような錯覚があった。

 堤防の向こうの暗がりに、何か背の高いものが立っている。道路を越えて、堤防に作られた階段を上る。上りきると、彼の話していただだっ広い砂丘には遠く及ばない、申し訳程度の砂浜が、月明かりに照らされて青白く光っていた。打ち寄せる波が、ざぶり、ざぶりと光と闇をかき混ぜ、その先の海には夜空が溶けこんでいる。対岸の光が見えるのは内海だからだろう。浜から海に向かって暗灰色の腕が伸び、手には何か棒のようなものを持っている。魔法使いの杖みたいな、松明みたいな、どっちも見たことないけど、と思ったところでそれが灯台であることに気づく。灯は点っていない。
 ああ、と思わず声が漏れた。「私、ここに来たことある」。
「いつ?」
「高校生のころ。友だちと学校をさぼって、海に行こうって言って」
「それ、最高だな」と彼は笑う。「聞かせてよ、その話」
 私は語り始める。さっきまで私の内側にはないと思っていた物語を。

***
初出:2012.07.15

彼女が語り始めた話→『冬の海
流浪する町に行きたい方は→『流町へようこそ
彼が行けそうもない小学校の→『同窓会
幽霊を連れた女のひとの噂→『

* あとがきはこちら(投げ銭制有料マガジンです)

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