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酔客旅譚2 汽車

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 基本的に相手の目を見て話さない。できないわけじゃない、たぶん、癖みたいなものだ。意識の底のほうで、話し相手なんて誰だっていいと考えている。そのせいで汲み取れなかった気持ちや、触れられなかった機微があったかもしれない。しかしそれは自分にとって、宇宙の果てで星が消えたことと同義だった。知り得ないものはどうしたって知り得ない。むかし誰かに言われた通り、俺は端から諦めている。知り得ないものを知り得たかもしれないと思って知ろうとすることに、価値を見出だせない。

 列車内は空いていた。硬い座席、窓側に腰をおろしてサイバーパンクIPAのプルタブを起こし、ぷしゅ、ぐびり、ぷはーとやる。突き抜けるようなグレープフルーツ香、フルーティな甘み、後味にぴりっと痺れるようなスパイス。立ちこめる霧が晴れるのを感じる。
 そこで初めて、向かいの席にひとが座っていることに気づいた。喪服のような黒ずくめのドレス、流れるようなライン、両腕にはめた黒のレースグローブ。顔は本で隠れて見えない。表紙は臙脂でタイトルはない。
 それにしても本をそんなに高く掲げる必要があるのか。まるで子どもが朗読するときのようだ。そう思った途端に本が下ろされ、神経質そうな顔、冷ややかな眼差しと寄せられる眉。
「すまないね、気づかなかった」
 席を立とうとすると、いいんです、と蚊の鳴くような声が聞こえ、女は本を掲げて読書を再開した。そうかい。俺は上げかけた腰をどかっと下ろし、またビールを一口。
 汽笛を鳴らして汽車が出発する。車輪がレールを叩く、刻まれるリズムが徐々に速くなる。窓の外を煙が流れていく。駅を出てしばらくするとざばあと音がして列車が海に入った。水面が上昇する。車両が完全に潜ってしまうと、車輪の音がこもって聞こえた。カーブする線路の先は真っ暗な海底へと沈んでいた。
 車掌がずるりずるりと這いながら切符を確認に来る。青い切符を渡すと、うねうねと伸びる無数の手のうちの一本で触れ、その部分だけ黄緑色に変わった。車掌が次の車両へ移ったところで俺は女に話しかける。
「何の本?」
 女が本を下ろす。不機嫌そうな顔で答える。
「何でも」
「何でも?」
「例えばここにあなたのことが書かれています」
 そう言って指さされたページは白紙。
「おちょくってるのか?」
 眉を寄せたまま、ふふっと女が笑う。「読めないだけですよ」。そしてまた本を掲げる。

 だんだん深くなっていく群青色の海を黒い影が横切る。二つに分かれた尾鰭、巨大なからだ。きちきちきち、と何かが鳴った。
「歌っているんです」
 女が本から目を離さずに言う。汽車が追い越して、影は後ろに流れていった。
「あれが歌?」
「誰にも届かない歌」
 ビールを一口。
「ああやって、ずっと探しているんです。あなたも探しているんですか」
 唐突に問われて面食らう。
「何を?」
「なくしてしまったものを」
「あんたの言うことは、よくわからないな」
「そうですね、ただ聞いていただければいいのです」
「歌みたいにか?」
「本の朗読のようなものです」
「その台詞もそこに書いてあると?」
「ええ。胡散臭いですか?」
「いや」
 首を振り、窓の外を眺めようとする。もうほとんど真っ暗闇で、トンネルを走っているのと変わりなかった。時折流れていくほのかな灯は、信号機なのか、深海魚の発光器なのか。
「あんたが言うなら、そうなんだろう」
「ええ。そう仰ることも書いてあります」
 俺は少しうんざりして口を閉ざした。

 車両の扉が開き、商品がぎっしり詰まった車内販売のカートが現れた。ふらふらかたかたと揺れながらこちらに近づいてくる。売り子の姿はない。
「お弁当や、オノミモノ……お菓子や、ホットコーヒーは……イカガデショウカ……」
「ビールとつまみをくれ」
 手を挙げると、カートの後ろから半透明のイソギンチャクじみた生命体がにゅっと顔を覗かせる。目も口もないが、あれが顔でいいんだよな?
「ビールは布袋と、極麦と……満月、蛙がアリマスガ」
「じゃあ蛙二本。つまみは?」
「チーズ、すり身、いか燻製、まぐろジャーキー、ダイオウグソクムシがゴザイマス」
「すり身とダイオウグソクムシ」
 両手を広げて跳ぶ蛙が描かれた黄色い缶を受け取り、すぐぷしゅっ、ぐびりとやる。爽やかな香りと軽い飲み口、ほどよい苦みでガブガブいける。
 すり身はギョニソだった。ぷちぷちとした食感の粒が面白いが、いったい何が入っているのだろう。ダイオウグソクムシはチップスで、風味はエビやカニと大差ない。深海のアイドルがこんな平たい姿に変わり果てて、と思ったが、アイドルはいつだって平たく加工されるものかもしれなかった。うまかったし、ビールによく合った。
 蛙の一本目を飲み終わるかというとき、また唐突に女が問うた。
「あなたの半分、置いてきぼりにしてしまってよかったんですか」
 少しだけ酔いがさめる。顔の左側で何かが脈打つのを感じる。これも台本通りなのだろうか?
「別に困ってない」
「そうですか。でも向こうは、そう思っていないかもしれませんよ」
 女が本のページをこちらに向けてくる。そこには二つに割れた真円が。またか。しかし瞬きをすると先ほどと同じ白紙に戻った。
 どこからか、ぼーん、ぼーんと鐘が響き渡る。十二回。時計? 車内に? かすかに、カッ、カッ、と秒針の動く音も聞こえる気がする。それは少しずつ近づいてくる。逆に列車の車輪のリズムが遠ざかっていく。
 車両の扉の色がゆらりと濃くなって、そこに影が現れた。俺の顔の半分を面のように貼り付けて、カッ、カッ、と音を立てながらこちらに歩いてくる。
 女が本をこちらに開いたままページを捲る。右には「声を出さないで」と書かれている。左には「動かないで」。
 黒い塊は俺たちの席のすぐ隣で立ち止まると、くんくんとにおいを嗅ぐように右左に顔を向けた。見えていないのかもしれない。俺は女の助言に従い、息を殺す。缶ビールを掴んだ手が震えそうになるのを堪える。
 そいつが通路を挟んだ反対側を向いたので、少し気が緩んだ。開けてない缶が座席に当たってゴトッと音を立てた。黒い首がぐにゃりと曲がり、人間ではあり得ないほど伸びてこちらを向くと、見開かれた目が音のした方を見つめる。
 そのまま静止する。冷や汗が一滴、髪の生え際からこめかみを通って、顎に沿って流れていくのを感じる。太鼓の音が聞こえ、すぐにそれは自分の心臓だと思い直す。
 カッ。
 永遠に続くと思われた静寂を破って、足音が響いた。カッ、カッ、と黒い塊が一歩ずつ離れていく。カッ、カッ、カッ、カッ、カッ、
 ぼーん。
 鐘が一回鳴って、列車のリズムが戻ってくる。女がパタンと本を閉じ、その瞬間に俺の毛穴という毛穴からどっと汗が溢れる。
 俺が口にしようとした疑問を先回りするように、女が切り出す。「何も訊ねないでください。引き返してきますよ」
「あなたが見たページに何が書いてあったのかは知りません。私はただの読者ですから」
「私が読んだのは、あなたに本を見せるシーンだけです」
 ブツブツと呟くような車内アナウンスが入った。内容はまったく聞き取れなかったが、直後に車内灯が順に落とされたので、このことを知らせていたのだろう。
 暗闇のなかで女が言う。
「もしこの本を読みたくなったときは、私を呼んでくださいね。私にできることはそれくらいなので……」
 呼ぶって、どうやって。あんたの名前さえ知らないのに。そもそもあんたはいったい何だ。
 照明が灯り、俺は眩しさに目を瞑った。
 目を開くとすでに女の姿はなかった。前の座席には白い貝殻が一つ残されていた。二枚貝の片方だけ。俺は少し考えてから、そいつをポケットにしまった。
 黒い窓に映る自分の顔は、特に変わったところはなく異様だった。喉が渇いていた。おかしなことばかりだ。だが少なくとも今度は酒はある、と缶を傾けると、口一杯に甘ったるい蜜の味が広がって消えた。もう一缶もまったく同じだった。俺の酒を返せ。
 そうして電車が海の上に出る頃には、女の顔も思い出せないのだった。

(Photo by Rene Böhmer on Unsplash)

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