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【不定期連載】落書きの下書き #6

#6. 主観の排除と「アクセサリー」

「配属ガチャ」という言説を見てもっとやるせなさが増えていく。都市圏で繰り広げられる「お受験」、中国や韓国では特に加熱であると報じられる大学の受験戦争、テレビタレントをはじめとして多くの人が自らのキャラクターを顕示する時に使われる「資格」、僕の中でそうしたものが湧き出てくる源泉は一つに繋がっている。

家業を継ぐのは当たり前ではないし、むしろ家業のある家に生まれることが減ってきている。誰でも志さえ持てばどんな人にでもなれるんだという言われ方をする。現代の僕らはゲームの初期アバターの状態で生まれてきて、経歴、資格、交友関係といった、その人に付属していくものでばかり評価されるようになる。

経歴や資格はその人がそうであったという事実、つまり客観性がある。「俺は東大卒以上の学力がある!」と豪語しても大学進学していない人に対しては「何言ってんだこいつ」で流される。いくら本人の主観で話をしても、多くの人が目を向けるのは「彼の最終学歴はxxだ」とか、「あの人はTOEICで850点を取っている」という客観的な事実になる。

これは何もその人を表すことを話すときだけでなく、何かを主張する時にはエビデンスの提示を求められる。新しい事業を立ち上げようとすれば、その根拠になる数字を示さないと納得してもらえないし、健康に良いとされる食品を買う時には栄養価の数値などを参考にする。だって、数字は属人性がなくて主観の入る余地がないから。


現代で大切にされているのは「誰の目で見ても分かる」ということ。そうした客観性がないと自分が何者であるかを理解してもらえないし、他人が何者であるかを理解することも出来ない人、そういう人が増えているのかもしれない。誰でもどんな人にでもなれるからこそ、自分が他の人とは違うということを周囲に分かってもらわないといけない。

だからこそ、客観的な事実が欲しくなるし、それを持っていないと不安になるし、成功例のあるロールモデルに乗っかりたくなる。そして、客観的な事実を持っていない人を見た時に、自分の感覚で評価する習慣が無くなっていく。他人のことだけでなく、自分のことでさえ客観的にも評価されるようなものを持っていないと自信が持てなくなっていく。SNSの「いいね」の数もそうした客観的な事実。


僕はどうしてもこうした風潮へのやるせなさと違和感を消すことが出来ない。だって、自分の人生を過ごしているのに他律的で何が楽しいのかが分からないし、自分が自分である必要性を見出せない。

大事なことは自分で納得できるのかということ。そして、他律的な選択をした時に望む結果が得られなかった場合、気持ちの矢印が自分の外に向いてしまいそうで、それは自分が自分を生きている実感が持てなくなりそうだなと思う。自分にくっつけていく「アクセサリー」を増やしても、自分の価値観で本当に求めているものでなければ何の意味があるのだろう。

僕はこうした「アクセサリー」を重視する風潮は嫌いだ。

自分の置かれた立場ですべてを自分でコントロール出来ることはまずない。誰だっていつも何かの影響を受けて生きているのだから、そんなものは自分の行動や判断の中の1%くらいしかないのだろうと思う。でも、せめて自分でコントロール出来ること、コントロールしてきたことくらいは「自分のもの」であると言いたい。誰かに分かってもらうためでは無くて、自分が納得するために。

自分が納得できるかどうかは誰かが決める客観的なものではなく、自分が主観的に決めるもの。主観は大事にした方が良い。


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